物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

20190727 鵜川 白山

2019-07-31 | 行った所

7月27日土曜に朝から出かける

加賀の国府は越中国府伏木のように明瞭ではない。一応小松市国府、総社だった石部神社付近ということになっている。数年前に発掘調査はなされたらしいが確たる遺構はなく、遺物も少ないようだ。
石部神社といったってナビに出てくるわけでもないので、1キロ以内ではあるらしい企業の営業所を目標に出発する。
その後は小路に入り、集落の中をうろうろ走り、それらしい所へでる。
鳥居をくぐるとかなり立派な碑があり由緒が書いてある。近年のものだ。安元の遊泉寺騒動の被害を受け没落した、とある。鵜川騒動のことだ。
石段を登ると、鬱然たる林で荒れ社だ。発掘の為に伐採しただろうと思うのだか、どこだかわからない。あまりの藪蚊の襲来に恐れをなして、にげだした。


周囲を確認すると、ざっと畑地、直ぐ側を川が流れている、梯川だ。昔は鵜川という川だった、ということはないかな。鵜川・遊泉寺ともにこの辺の地名だ。
集落を出て大きい通りに出るところで、なにやら小高いところに碑を見つけたので行って見る。なんと虫塚、天明の飢饉の後、ウンカの大発生をみ、その年も凶作、ウンカを集めて、五斗俵に20数俵になったとある。どんな量か見当もつかないが、そのウンカを供養した碑だという。人丈ほどの柱状の碑だが、鵜川石で作られている、とある。鵜川石ねえ、凝灰岩のようにに見えるがこの辺でとれるのだろう。


「遊泉寺温泉」の看板があったのでで行ってみる。ピュア遊泉寺というのだが、銭湯の少々大きいものといった構え、寺社とは関係がないようだ。しかし、この辺りは温泉も出るのか。騒動の発生した湯殿というのは温泉だったのかな?
遊泉寺銅山址、石切場址、というのも見つけ、これも行ってみる。
銅山だった山に遊歩道などを整備中だったが、その前の広場のようなところに銅山の沿革や創業者の碑などがある。この創業者、竹内明太郎というのだが、元土佐藩士、鉱山技師になるが、機械工学全般すごかったらしい。小松製作所の創業者でもあったのだ。
石切場址の方は、見つけはしたが、私有地につき入るなの看板があり、引き返した。近くの鵜川町集会所の前にこれも鵜川石らしい柱状の碑があった。西南の役戦の没者供養塔だった。維新後徴兵制が敷かれて最初の戦争、この辺りの農家の次男三男、出征したのだろう。
近くにあった若宮八幡にも寄ってみる。近年建て替えられた社らしかった。ここの由緒の碑文でも鵜川湧泉寺事件のことを言及している。奥の方に旧社にあったという古式な感じの狛犬と石の祠のようなものがあった。




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鵜川のこと

2019-07-30 | まとめ書き

加賀国鵜川寺、白山の末寺だと言う、ここの湯殿に国衙の目代が乱入、馬を洗ったとか、怒った僧どもが、馬の足を折ったとか、埒もない喧嘩とみえたものが、叡山巻き込み大騒動になっていく。
さて、鵜川寺は加賀にある。加賀の国司、目代は後白河院の寵臣西光の息子、鵜川寺騒動は弟目代の起こしたものだが、鵜川寺は国衙の近くとある。加賀の国府は小松だ。小松付近に絞ったら鵜川がある。遊泉寺という地名もある。

鵜川寺を焼き、騒動を起こした加賀の国司と目代は、後白河法皇の寵臣西光の息子たちで、師高、師経という。西光は元は北面の武士だが、後白河の荘園の管理人のような役をしている。実質的に法王の財政を握る人物といっていいだろう。この人物が、寺社領を自分たちの傘下にしようと起こした騒動らしいのだが、実はもっと伺った見方もある。
鵜川寺は白山の末寺、国衙側の焼討・狼藉に白山神社に駆け込み、白山の僧兵が目代屋敷に攻め寄せるが、目代師経は京へ逃げ帰ってしまう。おさまらない白山は神輿をもって比叡山に向かう。鵜川は白山の末寺、白山は比叡山の末寺、という構造だ。白山と比叡山の神輿は内裏へ向かう。強訴である。後白河の曽祖父白河法皇が思うようにならないものと嘆いた、鴨川とサイコロと山法師、その山法師の強訴だ。数を頼んで押し寄せる。内裏の警備は武士の仕事、源三位頼政は手薄なところの守りにいたが、うまく僧兵たちを平家の守る門へ回してしまう。平家は黙って僧兵たちを通すわけにもいかないので、矢を射かける。矢は神輿にも突き刺さる、多くのけが人を出した僧兵たちは神輿を放り出して山へ帰る。さらに神罰か、京都の町は大火事に見舞われる。
というのが事件のあらましで、この後、怒った法王が延暦寺の天台座主明雲を遠流にするの、取り返すのという話が延々と続く。
さて、伺った見方というのは、西光(後白河)が比叡山と事を構えるため、わざと加賀で問題を起こした、というもの。時あたかも後白河と側近達による平家打倒の陰謀が進行中、鹿ケ谷の陰謀、である。比叡山と法王の合戦と見せかけて兵を集め、その兵をもって平家を攻めようという作戦。ということなのだが、そこまではうまくいったとしても、本気で後白河のために平家と戦おうという兵がいただろうか。それに鹿ケ谷に集ったメンバーを見ればそんな作戦の遂行能力がありそうにも見えない。俊寛、成経、康頼らだが、いずれも命惜しさに右往左往する情けない連中だし、鹿ケ谷でも猿楽騒ぎ、多田の行綱が不安のあまり清盛の下に駆け込むのも不思議ではない。但し、西光ははるかに肝が据わった人物だ。清盛の前に引き出された西光は敢然と清盛をののしっている。

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20190707 越中能登

2019-07-18 | 行った所

高岡は大伴家持が何年間か居たことから万葉集で売り出したらしい。高岡万葉歴館へ行く。結構凝った建物だ。新しそうに見えたが、1900年の開館だそうだ。メンテがいいのだろう。中身はほとんど家持に特化していると言っていい。家持が視察して歩いたルートの地図がある。能登の珠洲あたりまで行っている。行は陸路、羽咋を通り、帰りは海路だ。



越中一宮気多神宮へ行く。羽咋にある気多神社の分社?らしい。



国分寺跡が近くにあった


義仲は、倶利伽羅合戦の前でに越中に来て六動寺の国府に入ったとある。伏木の六度寺らしい。

雨晴海岸へ寄って氷見に向かう。

さて、義仲である。倶利伽羅での勝利の後、志保山へ向かうのであるが、これが分からなかった。
平家は倶利伽羅の前に兵を二手に分けている。主戦力が倶利伽羅へ、搦め手が志保山へ。これに対応して義仲も叔父の行家を志保へ回す。
倶利伽羅は越中へ向かう街道だった。ならば志保も越中へ向かう街道になければならない。志保山はわからないのだが、実は羽咋に「しお」という地名はある。子浦、志雄、等と書く。子浦川という川もある。この川の源流らしき山は石川・富山県境となる。この辺りか、と思えるが今ひとつピンとこない。
ここではもう一つわからないことがある。義仲は志保山へ向かうのに氷見へ行っているのだ。しかも氷見の港をザブザブと馬で渡ったという。これこそハア?である。志保山とは違って氷見湊は氷見港である。そこをどうして「渡る」のか??氷見の北の方に海に突き出た阿尾という城塞があったけれどもあそこに行こうとしたとしても海に入るか?港に注ぐ河川でも渡ったかな、馬で渡れるような河口があるだろうか、等と思ったのだが、誰でも考えるのは同じと見える。http://gichumania.o.oo7.jp/index.html 「義仲マニ屋」というサイトの中「木曽殿聖地巡り北陸道1」で十二町潟あたりを比定している。マニアというだけあって大変詳しいサイトだ。また大変な機動力だ。
十二町潟は水郷らしい。また川の名は万尾川。万を数えるような水路が流れ海に注ぎ、満潮時には潮が逆流もしてきただろう。現在海まで1km以上あるようだが、だいぶ埋め立てられてもいるのだろう、この潟を馬で渡ったというならうなづける。



義仲は氷見から能登半島を横断したはず、その途中に志保山があったか着いた先が志保だったかはわからない。万葉歴史館にあった家持の地図では羽咋へ行くのに、もっと南のルートをとっているようだが、羽咋を目指す一般的なナビ様ご推薦の道を行く。国道415号線だ。酷道ではなく立派な道だ。2車線確保されているし、それほどカーブもきつくはない。山を越えて羽咋には出たものの、また困る。平家にはこうある「志保山打ち越えて、能登の小田中、新王の塚の前に陣をとる」 小田中新皇塚、というのはある。但し、ここ、415号線と159号線が交わるあたりから北東へ7~8Kmもある中能登町になる。子浦までは4Kmくらいだ。志保では行家が苦戦中だ。急いで駆けつける途中なのだ。親王塚へ行くのは志保山の戦いの後でなければならない。そうなると、義仲は家持張りに南ルートで志保山を通り、ひと合戦して平家を蹴散らしてから北上し、新皇塚で陣をはったということになるが、そんな面倒なことをするかな。目指すは京都、何故戻るのか。


新皇塚にはほとんど予備知識なしで行ったので驚いた。陵墓参考地だ。周りをまわって見る。外周縁辺は補修してあるようだがかなり大きい。立派な円墳だ。すぐ下に前方後方の陪塚がある。三角縁神獣鏡が出ているらしい。現状日本海側最北端の出土地だろう。周囲は直近まで民家が迫っているが、なんとなく古くから開けた感じの集落だ。家持の地図にあった越蘇駅はこの近くだろうか。
この辺りの有力者にでも会いに行ったのだろうか?

志保山の戦いはどうもすっきりしない。倶利伽羅峠で大勝利を収めた義仲はそのまま西へ進み、加賀へ出て志保山、というコースでは何か不都合があったのだろうか?行家が氷見から志保山へ行ったのなら挟撃できる可能性もあるのに。


後日、ネットで「義仲道」を見つけた。「街道古道廃道道」というサイトで「富山 名のある通り」http://www7b.biglobe.ne.jp/~kiku-uj/na2/tym/tym3.htm


「義仲道あるいは蓮如道と呼ばれる道は氷見の穂積から芝峠を経由し中能登町の久江に抜ける古道を言う。一刎越えとも言われ、氷見市稲積-芝峠-久江原山峠-久江の道順 となっている。寿永二年(1183年)木曽義仲が能登への進撃につかった道と言われている。この事から義仲道の名がある」とあるが一切根拠が書いてない。が、この道を行けば小山田親王塚の近くへ出る。いったい車は通れるのか?という道だがここを使ったのなら、志保の合戦前に新皇塚に陣を敷いたことになる。となると「志保山打ち越えて」が宙に浮いてしまう。いったい志保山とはどこなのだ?

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2019070607 加賀越中 2  倶利伽羅

2019-07-12 | 行った所

片山津ICから金沢東ICまで高速に乗る。一般道津幡市倶利伽羅駐在所を目指し、そこから竹橋の倶利伽羅塾へ。道の駅になっている。ここは倶利伽羅峠を目指す加賀側の入口だ。
ながらく倶利伽羅のような怪しげな?山中で合戦があったのか、何故平家の軍勢はこんな山の中に入ったのか解からなかった。そう言っちゃなんだが木曽の山猿を倒すのに向こうのフィールドに行ってはだめだろうと、何故平野部に出てきたところを叩かなかったのかと。漸く少し納得がいったのはここで手に入れたパンプで倶利伽羅を通る道に「歴史国道(北陸道)」とあったからだ。しかも加賀の前田が参勤交代にも使っていた道だという。バリバリの街道だったのだ。平家は越中で義仲を叩くつもりで街道を進んだのだ。適当な攻撃を繰り返し、日が落ちるまで平家を山中に留めさせたのは義仲の作戦勝ちだ。しかしまだ疑問だった。この山々の北のふもと辺りをいしかわ鉄道・あいの風とやま鉄道、国道8号線。286号線が走っているように見えるのだ。なぜこの辺りではなく山の上が街道なのか。よくよく地図を拡大し、ようやくわかった。鉄道は倶利伽羅駅から石動駅の間ほとんどトンネルだ。8号線も倶利伽羅・源平・小矢部とトンネルが続く。286号線はものすごく曲がりくねっている。加賀・越中の国境、砺波山というのは大きな山塊なのだ。高速道路や新幹線ではトンネルがあるとは思ってもこの辺の感覚が分からないのだ。


「歴史国道(北陸道)」は車は通れない徒歩だけの道だ。駐在所のあった坂戸まで引き返し、そこから車で山に登る。登ったはいいがパンフの案内図のどこへ出たものか判然とせず、古道(地獄谷へ)の標識があり入ってみる。林業で使っている道らしいが、車幅いっぱいいっぱい、対向車があったお手上げで引き返した。倶利伽羅不動さんへ行き、古戦場趾へ出る。碑がいくつかある。一つには古文が彫ってある。平家物語ではなく盛衰記だった。

北陸道の古道につながっていたので、少し歩く。気持ちがいい、ハイキングにはいい道だ。

地獄谷を覗く。なるほど深い谷だ。夜間、パニック状態の群衆が一気に落ち崩れていったのは想像できる。

しかし、火牛の計は間違いだ。よく言われることだが、角に火のついた松明を括りつけられた牛が敵陣めがけて突進していくなどありえない。中国の故事に倣ったというならば、角には刃物、尻尾に火、ということになるが、この山にどうやって4・5百頭もの牛を追い上げたというのか。盛衰記自体に書いてある、馬一頭行き交うのが精一杯な峻険な山道だと。それに牛は立派な財産、かき集めて谷底へ落として済むものではない。
この辺りの地元では義仲をテレビの大河ドラマにしたいようだ。巴御前の実在にも?はつくが、ドラマだし、よしなかくん・ともえちゃんまでは許そう。しかし火牛のカーくん・モーちゃんは何なのだ。カー君はまだ牛に見えないこともないが、モーの方はピンクのナメクジみたいだし。赤い松明を付けた火牛の像が道の駅にも山頂にもある。火牛の計を義仲にさせたとしたら、義仲がよほどのあほだったということになってしまうだろうに。いささかセンスが悪いようだ。
小矢部側に降りる。埴生八幡へ行く。ここも道の駅になっている。津幡・小矢部両方でドラマ化運動をしているらしい。
鳩清水があった。義仲の参謀覚明が願文を八幡大菩薩捧げると、鳩が源氏の白旗に舞い降りたと。覚明は手品の心得もあったかな。
境内に義仲の像もある。颯爽たる騎馬像だ。ただどうにもならない逆光になる。





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2019070607 加賀越中 1 雪の科学館

2019-07-11 | 行った所

柴山潟湖畔の雪の科学館へ行く。篠原合戦趾からはすぐ近くだ。
中谷宇吉郎という雪の研究者の記念館だ。とはいえ、雪と聞いて「北越雪譜」しか思い浮かばず、その作者だったかしらん?と思う始末。
片山津出身の1900年生まれの科学者でありました。
建物がとても凝っていて、磯崎新の設計でありました。展示も面白く楽しめました。ダイヤモンドダストを作る実験などもやっていて、子供たちに見せたいようなものだったのだけど、集まっていたのはじいさんばあさんばかりだった・・・ 

 
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2019070607 加賀越中 1 篠原合戦

2019-07-11 | 行った所

2019070607 加賀越中 1

天気はもちそうだ、8時出発、坂井町に寄って高速に乗る。
片山津ICで降りる。片山津温泉、昔来た事あったなぁ。柴山潟湖畔に至りこの潟から日本海に流れ出す川に架かる橋の名は「げんべい橋」という。源平食堂という看板も見える。ちょっと笑える。


橋を渡ってすぐ右手に首洗い池がある。池自体は小さい。篠原合戦場跡だ。池の上に合歓が満開だった。


火打城の戦いを勝利し、加賀に陣を進めた平氏は一旦この篠原に集結したようだ。ここから越中路へ向かい、倶利伽羅峠で大惨敗を喫す。生き残った者達は再び篠原に集まり、義仲勢を迎え撃たんとするが、勢いに乗る源氏の敵ではない。
ここで語られるのは斎藤実盛の最期である。
この人は不思議な語られ方をしているように思う。関東武者だというが越前の出身だという。源氏方で源義賢についていたらしい。義賢と義朝が対立すると義朝につく。しかし、義賢が義朝の長子義平に殺されると、義賢の子駒王丸(義仲)2歳を助け木曽へ届けるのだ。平治の乱後、実盛は平家につく。西の平家・東の源氏とは言うものの実際には東の侍も平家に従っている。以仁王が挙兵した時の宇治の橋合戦では関東武者が利根川で使っていたという渡川法、「馬筏」で宇治川を押し渡っている。この場に実盛の名は見えないようだが、富士川で頼朝勢と平家勢が対峙したとき、実盛は関東武士の勇猛なる事を説き、平家の者たちを怖気づかせてしまい、水鳥に驚き敗走するという醜態を演じさせる一因になったという。
ここで思うのである。実盛は源氏に寝返ることを考えなかったのだろうか。想起するのは源三位頼政である。頼政も保元・平治を勝ち組に拠り、平家の信頼も厚く、位階も上がった。しかも齢70過ぎだという。しかし頼政は以仁王に平家打倒の令旨を書かせ、挙兵を即すのである。そして宇治の平等院で力尽きる。この頃はまだ平家は事態を掌握できた。しかし将にこの挙兵が呼び水となり、頼朝・義仲が立ち上がり、与するものも多い。実盛は富士川で信じられないような平家の弱さを見ただろう。この北陸路での合戦の御大将も富士川と同じ維盛なのだ、頼りがいのある大将とは言い難い。そして平家を率いてきた大総帥、清盛は既に死んでいない。実盛は武蔵の長井荘の別当だという。鎌倉時代で言うところの地頭のようなものらしく、その地位は平家に安堵されていたろうが、今、東国は源氏のものとなっていく。実盛は頼朝・義仲双方に縁もある。特に義仲にとっては命の恩人といっていい存在で、義仲を育てた中原兼遠や樋口兼光とはお互いに信頼しあった仲だ。義仲の下へ行けば喜んで迎え入れられただろう。篠原の合戦前夜、仲間の関東武士と飲み交わし、義仲についた方がいい等というが、翌朝はあんたらを試したのだ、と討ち死にの覚悟を語るのだ。ここの場面は引っ掛かる。妙な事を言うものだなと思う。平家物語にはあるが、源平盛衰記にはない場面だが、富士川での相手の勇猛さの吹聴といい、もともと妙な事を言うのが癖のじいさんだったかもしれない。どうせなら、倶利伽羅でこんな山中での野営は危険だ、位のことを言えばよかったもの、と思うのだ。維盛は余計な差し出口を叩くな、と怒り出すような大将ではなかったろうに。
実盛はあくまで平家として戦う。実盛の子供も父の命を守り、維盛の遺児六代に最後まで付き従った、というから、維盛には実盛の心を捉える何かがあったのだろう。
実盛は大将クラスが着るような錦の直垂の戦装束で戦う。しかも髪を黒く染めて。装束に関しては、事前に宗盛の許可を得ている。故郷に錦を飾る、の意だそうだ。火打合戦で手ひどく義仲を裏切る斉明という平泉寺の坊主は実盛の親戚のようだ。武蔵に本拠があり関東武士の矜持もあろうとも、既にお国言葉は武蔵のものとなろうとも、故郷は越前だったということか。織田信長の祖先は越前織田荘で、越前朝倉の出自は兵庫県北部の山中にある。しかしその移動は室町期である。どのような経緯で実盛が武蔵へ行ったか分からないが、末期とはいえ平安時代にこの移動、ちょっと意外であった。
芭蕉の碑があった
無残やな兜の下のきりぎりす
実盛の首を抱えた義仲が泣くシーンのモニュメントにいたバッタがご愛敬


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20190623 今庄 燧が城

2019-07-02 | 行った所

舞若道を敦賀で降りる。敦賀から今庄に向かうのだが、下道、国道476を走る。途中まで近くに高速が見える。高速道路から見え隠れする一般道は8号線かと思っていたが違うのだな。杉津の方にはいかず木の芽峠の方へ向かう道だ。高速のトンネルの名前として見覚えのある集落名の標識がある。木の芽峠の処はトンネルだ。鉄道、北陸本線もこのあたりを走っていたらしい。北陸トンネルができる前だ。ようやく少し整理がついてきた。木之本から北上する北国街道は敦賀を通らず栃木峠を越えて今庄に至る。東近江路ともいう。敦賀を通る道が北陸道、西近江路になる。大浦や海津からの道も北陸道に収斂し敦賀に至る。

 
 


福井―今庄間8里、一日の行程だという。8里といえば32㎞か、とても歩ける気がしないが・・・ちなみにここ1年くらいの間に一番一日の間に歩いたのは、特大連休で四国へ行った2日目、15.1km、というのがスマホに記録されている。

今庄の町に入りふるさとという蕎麦屋で昼食。ここのそばはおいしいが汁蕎麦を出さないという難がある。
蕎麦屋で燧城への登り口にあるという新羅神社(しんら、と呼ぶらしい)の場所を聞いたのであるが、床屋の脇だという。その床屋が見つからないのだ。うろついて、燧城の案内板を見つけた。確かに新羅神社の脇にはかつては床屋だっただろうと思われるものもあった。

 


登り口に芭蕉の句が書いてあった。芭蕉は木曽義仲のファンだったらしい。「義仲の目覚めの山か月悲し」ここで読んだというが、句はぴんと来ない。この燧城の合戦は義仲自身は参戦していない。義仲勢が燧城に立てこもる。ここは北陸道・北国道が交わる要衝、さらに山の周りで川をせき止め、深く濁った湖に見せかけ守りを固めていたという。
しかし、義仲勢の大将格の一人、平泉寺の僧斉名の裏切りにより城は陥落する。堰き止めたという川はたぶん鹿蒜(かひる)川という川だ。西南から流れ着て、今庄辺りで日野川と合流する。平家はどこから来たのだろう。栃木峠を越えたか木の芽峠を越えたか、平家物語には記述がないが、福井県史によれば源平盛衰記には記述があり、平家は2手に分かれ、まさに栃木・木の芽両方向から来たようだ。山越えの前、平経正は竹生島で琵琶を弾いて戦勝を願ったという。燧城における平家の勝利はこの願がかなったものとみなされる。しかし次の戦場は倶利伽羅だ。

福井県史通史編より



山道を登っていく。カタクリの自生地の標識がある。案内板によれば、燧城趾は藤倉山という650mほどの山の中腹標高270mとなっている。しかし150mほども登ったろうか、途中で柵がしてあり、侵入禁止の様相である。仕方なく引き返したが、後で地元の人に確認すると鹿よけの柵で登ってもよかったらしい。この次は登るぞ。

燧城登りは諦め今庄の宿を散策する。いい街並みだ。宿場として栄えた往時がしのばれる。しかし、木之本でもそうだが、宿場或いは他の産業でそのまま発展を遂げていたら宿場の風情は残っていないだろう。今、宿場の風情があるということは今はさびれているというに等しい。

袖ウダツ、というようだ。今庄の町の家々の2階の正面端左右に妙に前のめりになった袖壁のようなものが取り付けられている。雪除けなのか風除けなのか。酒屋で地酒を一つ買う。京藤甚五郎家という酒屋が修復され見学に供されている。入ってみる。なかなかの文化人でもあり、橘曙覧とも親しかったらしい。この今庄の宿が水戸天狗党とも関わり合いがあったことを初めて知った。かなり正確な日本地図が表装されて掛かっていた。元は折りたたまれ持ち歩きようだったかもしれない。左隅をよく見ると文化8年再刻とある。印刷物だよこれ。

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