物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

加賀 知度首塚 実盛塚・鏡池

2021-05-25 | 行った所

知度首塚(津幡)

平知度は清盛の7男、末子である。所謂源平合戦で最初に死んだ公達だという。母や生年も明らかではないらしいが、兄重衡の享年29歳、知度はその2年前に死んだ。20代の前半の死であったか。どちらかというと影が薄い。

 

首塚


源平盛衰記はその死を描くが、岩波文庫平家物語は語らない。

清盛の松  最近の移植らしい

 

実盛塚


首洗い池がある源平篠原古戦場趾と称する所から西へ五キロほどの所にある。


幹道からの入り方がよくわからなかったのだが、はいってみれば、意外に広く、よく整備されていた。
実盛の伝承は余程、後世に好まれたのか。


 
鏡池というのにも行ってみる。
同じ加賀市ではあるが、かなり西に行く。


いくらなんでも、ここで実盛が髪を染めたりはしていないだろうが、櫃に入った平安時代の鏡が見つかったそうな。

近くに橋立港という北前船で栄た港町がある。

資料館は休館

繁栄した町の名残が残されている。

海へ出る

広重の藍より少し濃い色の故郷の海に逢うたけれども とある。地元出身の俳人か、悪くない句だと思うが、知らない。

加佐岬

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中山道 近江から美濃へ

2021-05-19 | 行った所

芹川を渡り、旧中山道(東山道)を北上する。行き違いが難しい道が続くが街道だ。少し宿場っぽくなってきたと思ったら鳥居本だ。

小さな資料館がある。

交流館とあった。パネル展示が主だが、中山道と宿が紹介されている。
一度8号線に入ってすぐ右折し、摺針峠へ向かうことを確認する。

峠からは琵琶湖まで見えるという。

それなのに摺針峠を見落としてしまったのである。

 左北国街道 米原木之本へ、右中山道 摺針峠 番場 とある。

途中で道標も確認しているのに・・・

 この道標を見た時にはすでに通り越していたらしい。
高速の脇を行く道だったのだが、峠というほどの所が分からないうちに下りになり、番場へ出てしまった。

番場にも小さな資料館があったけれど、近くの鎌刃城の照会がメインだった。

番場を過ぎ、米原JCT付近で高速の下を潜るのだが、そこに久禮(くれ)の一里塚跡があった。説明板は読めなくなっていた。

 久礼の一里塚

これより東は中山道は21号線と重なったり離れたりしながら続く。

一端、醒ヶ井駅付近に出る。
壬申の乱の息長横川の戦いは、醒ヶ井の梓川付近とあったので、案内板か何かないかと思ったのだが、なかった。
梓河内という地名のみを頼りに行くも、さっぱりわからず。

それでもまた旧中山道に戻ると、梓川があるではないか。

 この松並木の反対側はラブホテルが3軒並んでいる。

中山道の碑は見つけるも東山道横川駅跡はわからず。

でも街道らしい道が続き、

 小川関址

続く柏原宿は大きい宿だったらしい。


資料館がある。伊吹もぐさが特産だった。

更に東進、近江・美濃境、

 寝物語の里

JRと21号線を渡り、旧中山道は続く。

 

今須の宿。
この辺りに来るとまるで関ヶ原。戦国ウォーワールドとなっていく。

今須から出ると21号になる。その辺で旧道が分からなくなり、壬申の乱の激戦地、玉倉部だという玉を探すが、ぴんと来なかった

 

 

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中山道 高宮宿・犬上君屋敷跡・鳥籠(床)山 国府君神社

2021-05-18 | 行った所

 

中山道 高宮宿

多賀大社からは随分離れているが、多賀大社の一の鳥居である。

中山道を行く人はついでにと多賀大社にも詣でたのだろうか。この辺りの中山道は県道528号線である。

犬上川の無賃橋に向かって南下し歩いてみる。壬申の乱のとき、近江朝廷側は犬上川付近に兵を集めたとある。

芭蕉紙子塚の家 

本陣 

脇本陣 

無賃橋

 無賃地蔵

犬上川はほとんど水無川であった。

大瀧神社付近のあの渓谷の水量はどこへ行ったのか。今は雪解け水が河川に流れ込み流量が増える時期だ。これはダムの影響だろうか、昔からそうだったのだろうか。
壬申の乱で、近江朝廷は軍勢を犬上川原に集めた。7月の始めである。川の流れはどうだったのだろう。

 


犬上神社・犬上の君遺跡公園(豊郷町)

高宮の次の宿場は豊郷だ。高宮から528号線を南下していけるはずだったが、途中工事をしており、迂回せざるを得なかった。あげくどこをどう通ったのかわからないがともかく犬上神社に行きつく。注連縄をした公民館の脇に車を停め、犬上の君遺跡公園へ。墓場脇の休憩所のような小さな公園だった。

犬上氏の故地とはいえ犬上川とは随分離れている気がする。

 


8号線を北上し、犬上川の手前で左折し、国府君(こうのきみ)神社を探す。ここは中山道とは関係ない。

随分違和感のある由緒だが。壬申の乱伝説の一つなのだろう。墨俣に不破神社というものがあり、そこにも天武が助けられた、という伝承があった。

 


鳥籠山(旭森 大堀)672年7月9日 大海皇子軍の村国男依は息長横川の戦いに勝利し、近江に進軍する。そして鳥籠山の戦いでも勝利する。これは敗走する近江朝廷軍の掃討戦のようなものであったという。

旭森小学校をランドマークにして行く。
旭森公園の脇に碑があった。

側面の文字は「鳥籠山については異説あるが、旧跡を残す意味に於いてこの場所に建立」とある。反対側は「ひるがほに居寝せうもの床の山」と芭蕉の句がある。

川は芹川、彦根市街方面へ流れる。地名は大堀町 

芹川を渡り、旧中山道(東山道)を北上する。

行き違いが難しい道が続くが街道だ。

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近江 多賀大社・胡宮神社・大瀧神社

2021-05-18 | 行った所

名神高速を米原から京都方面に向かうと、多賀というSAがある。SAの中でも大きい方だろう。この近くに多賀大社という有名な神社がある。


行ってみた。

大きくそれなりの雰囲気を持った神社だが、ここまで大きくなったのは徳川家のテコ入れを受けたかららしい。

大釜 

元禄と寛永の銘がある。

 


近くの胡宮(このみや)神社


この辺りの地名は敏満寺という。そういう寺があったらしい。


こんなところで重源の名を見るとは思わなかった。猫も歩けば棒に当たるだ。

すぐ下に名神高速が走っている。多賀SAが見える

 


大瀧神社

犬上川の上流にある。
犬上氏、といっても犬上御田鍬が遣隋使だったことしか知らないが、この先祖に関する伝承がある。

それ程山に入ってきたわけではないのになかなかの渓谷だ

大蛇が淵

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落人伝説 福井市赤谷

2021-05-13 | 行った所

福井市旧美山町の赤谷という集落に平家の落人伝説があるという。平家物語では戦線から離脱し出家した維盛は入水自殺を遂げたことになっている。それが逃げ延び、父重盛が知行国主であった越前の山中に隠れ住んだ、というのが当地の伝説らしい。とはいえ、越前は維盛にとって、北陸遠征で義仲に叩き潰され、命からがらの敗走経路だ。潜伏場所に選びそうもないが。頼盛・保盛親子が越前の知行国主になるが、維盛をかばいたい気持ちよりも鎌倉を恐れる気持ちの方が大きかっただろう。それにしても、いったい全国に維盛の隠れ里はどれくらいあるものか。

行ってきた。
いやはや祖谷もかくやという山の中である。
国道158号線(美濃街道)で美山へ。158号線から県道2号線へ 美山―武生線というらしい。足羽川を遡る。途中道路の法面がひどく崩壊しており、道は新たな迂回路の工事中で片側通行である。更に行って林道に入る。足羽川の支流なのだろう、渓谷に沿っていく。なんとカモシカがいた!カメラを構える暇もなく谷へ消えていったがあれはカモシカだ。対向車に郵便局の車だ。先に集落があるのか、対向車は恐怖でしかないが、先に集落があるらしいと分かるのはありがたい。


何やら集落らしいところに着く。ナビに入れた赤谷の天満宮は右折して更に上るようだが正面の林道は倒木のため通行禁止になっている。


シャガやセリの群生が美しいが森林は荒れた感じだ。

通行止めの先には案内板のようなものがあるようだ。通行止めの前に車を停め案内板まで行ってみる。林道のルートを書いたものだった。

 よくわからないが白椿峠を越え、158号線に合流するようだ。

車を停め、天満宮へ向かい坂を上る。週末をここで過ごす家もあるようだが、事実上の廃村のようだ。
天満宮も荒れている。


「北陸の平家物語」という本によれば維盛の碑があるのだが、さっぱりわからない。
落人伝説というのは、なぜこんな山の中にいるのか?きっと先祖が落人で仕方がなかったのだ、というような諦観からかと思うのだが、この山の中の集落は荒れ果ててはいるものの立派な石垣が組まれ、土蔵のある家もある。山林が財を産んだころにはそこそこの集落だったはずだ。

 お地蔵さんがあった

 

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花盛り 藤 つつじ

2021-05-05 | 行った所

坂井市春江町藤鷲塚 白山神社

今、少し山道にかかるとどこも山藤が盛りだ。


越前町のどこか


鯖江市西山公園

去年はつぼみを皆落としたのだという。

ことしはさすがにそんな暴挙はないが、飲食、集会禁止とか。

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越前大野 仏御前の滝 花桃 日吉神社

2021-05-05 | 行った所

仏御前の滝

平家物語第一巻「祇王」は平清盛の寵厚かった白拍子祇王が、新たなスター仏の出現によりその座を奪われ、母妹と共に嵯峨野で出家する。仏もまた清盛の屋敷を出て、祇王と共に念仏三昧に入り、4人とも極楽往生を遂げるという話で、平家物語の本筋には関係がないが、かなりの分量を取っている章だ。祇王・妓女・刀自・仏といった名前も、個人名というよりは太郎さん・花子さんに近いであろう。それでも彼らの個人史も一応あって、祇王は滋賀県野洲の出身、祇王が清盛に願ってできた祇王井川という用水まであるし、屋敷跡もある。仏の方は北陸出身ということになっていて、加賀には伝承地がいくつかあるようだ。越前大野の仏御前の滝もまた彼女に因む。地名は仏ヶ原、仏栃原が仏御前の出身地で、滝は髪を洗ったところ、だそうである。地名と平家物語の流布が作った伝承なのだろう。

滝は荒島岳のふもとにある。標高1,523mの山頂上付近や谷間にはまだ雪が残る。その雪は溶け、谷を下り、岩肌にしみこみ、また岩肌から湧水となって噴き出す。九頭竜川の源流の一つとなるのだろう。川はこの辺では堰き止められて、ダム湖となっているが。

滝への道。コンクリートの石段だ。

 

 滝からの水が川となって流れる

 振り返るとダム湖

道沿いは花の道。キンポウゲ・すみれ・セリの類が白い花を咲かせている。盛りを過ぎた山吹。山つつじ。

ウツギ。ニリンソウ。

 

花桃回廊(平成の湯付近)

花の盛りは過ぎていたが、春の山が美しい。

左に見えるのが荒島岳らしい。頂上は雲に隠れている。

平成の湯に入ってきた。

 

大野市街地 日吉神社

昼食を求めて大野市街地へ。

JR越前大野駅
近くでラーメンを食べた

通りかかった神社

日吉神社だが、鳥居脇に史蹟の標識があった。

亥山城、解説は標識の後ろ面にあった。

 南北朝に堀江氏政の砦があり、元亀天正のころ朝倉景鏡、杉浦壱岐、原彦次郎がここに拠る、とあるが正直わかるのは朝倉景鏡だけだ。大野郡代だったはずだから不思議はない。朝倉滅亡時に義景を裏切った。信長に下ったが、まもなく一揆との戦いで平泉寺で死んだはずだ。

ところで信州伊那市の大田切という所で、大田切城の標識の解説に、越前大野城主菅野某という人物がいたとあった。

 伊那市大田切城址

読みにくい文字をそのまま記す。「広保、長寶年間(1161~1164)越前(福井県)大野の城主友重の二男菅野冠者友則が平清盛に抜擢され、伊那郡上穂郷大田切に居館を構えた。この南続きに関連した地名が今も残っている。城址は洪水や崩落等のため現在では四分の一程しか残っていない。」

これを見たのは2019年9月なのだが、未だ何に出ている話なのか分からない。
福井県史等で平安時代の大野を調べると牛原の荘くらいしか出てこないのだ。


狛犬のような猿がご愛敬。奥に鷺が巣をかけているようだった。

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