物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

淀川資料館 枚方市

2024-08-23 | 行った所

琵琶湖から流れ出る唯一の河川は瀬田川。宇治川と名を変え、更に大阪府下では淀川となって大阪湾にそそぐ。
数々の治水・改修を経て流れを変えてきているが、古来、京都・難波間の水上交通路となってきた。大阪の発着点は渡辺津と呼ばれ、平安末の「院様御一行」の熊野詣もここへ上陸した。
渡辺津は現在の天満橋付近、大阪城の北になる。淀川は大阪の手前でいくつかに分流していたが、渡辺津に着くのはその分流の一つに乗ってのことだった。明治時代の河川改修で分流は纏められ、大きな河口が大阪湾に注ぐ本流となった。
大阪は上町台地を除くと、河川が複雑に入り組んだ低湿地。河内湖もあった。水路が周りを囲む土地に、町・城郭・寺が造られ栄えた。16世紀の石山本願寺は約10年に渡り織田信長と渡り合った。本願寺の後に秀吉が大阪城を築いたのだ。江戸時代を通じ、道頓堀をはじめとする水路が整備され、大阪は更に栄えた。

枚方市の関西医学病院近くの交通量の多い通りと淀川河川敷の間にある淀川資料館は、常駐職員もいないような小さな資料館だがなかなか面白いのである。

淀川の自然環境・生物から水上交通・洪水・治水・河川改修の歴史などが展示されている。
*資料館裏の堤防から見る淀川河川敷
*舟運の変遷
*資料館脇にある食わらんか舟現物
*30石船
*食わらんか舟

明治時代の河川改修にはお雇い外人、中でもオランダ人デ・レーケ、エッセルなどが活躍した。
彼らの名前には覚えがある。越前一の大河九頭竜川河口の三国港の改修に関わった人達だ。三国港には今もエッセル堤と呼ばれる突堤がある。三国湊を見下ろす丘陵には蝙蝠傘屋根と呼ばる楼を載せた八角五層の建物がある。龍翔館というのだが、歴史博物館になっている。これは明治初期、湊の旦那衆がお金を出し合って作った小学校を模して建てられている。その設計者はエッセルだと思われてきたが、実はエッセルなどの教えを受けた日本人らしい。いずれにせよユニークな洋館だ。中は吹き抜け、ステンドガラスもありしゃれている。エッセルはだまし絵画家として知られるエッシャーの父親だ。

ところで、粗朶沈床法という工法だが、私は全然違う場所で知った覚えがある。全く同じものだとは思えないが、古墳時代の治水址で発掘されたものだ。敷葉工法とも言い、その当時朝鮮半島経由で入ってきた新工法と目されていたように思う。その後その系列の技術は途絶えたのか、19世紀には外国から教えてもらわなければならないものになっていたらしい。
*粗朶沈床法
*お雇い外人の給与表

*驚くような天井川
*淀川の源流

コメント

柴田氏庭園 敦賀市

2024-08-19 | 行った所

 入口

 冠木門

 

 

 

コメント

近江の伊勢 (守山市)

2024-08-17 | 行った所

 伊勢遺跡資料館

 パノラマ

 楼閣址

 

 大宝神社

コメント

樫原

2024-08-15 | 行った所

 *宗我坐宗我都比古(そがにいますそがつひこ)神社 樫原市曽我町

 *人麻呂神社 樫原市地黄町

樫原といえば、樫原神宮、神武陵と呼ぶ似非古墳、畝傍山、そして樫原考古博物館。だが、結構広い市域だ。今井町や新沢千塚も樫原だ。そしてちょと気をひかれる名前の神社もあった。考古博物館ではホケノ山古墳の展示をしていた。

コメント

花ハス公園 南越前町杣山

2024-08-14 | 行った所

2024年7月初め頃

コメント

姉川付近

2024-08-12 | 行った所

*姉川南岸

*姉川北岸の碑

*伊吹が見える

*小谷城

*浅井歴史民俗資料館

⋆浅井家家臣

*浅井家年表

 茶臼山 伊吹が見える

 茶臼山近く

*勝山

*横山

*横山日吉神社

 

コメント

朝倉孝景(英林)像・義景像

2024-08-11 | 行った所

*福井市郷土歴史博物館のXポスト画像
両方とも名高い絵でいろいろな本に載っているおなじみの肖像であるが、実物を見たのは初めてで、しかも両方並べて見れる機会がそうそうあったとは思えない。
義景像は孝景(英林)像を意識して画いているのだろうが、絵師の力量が劣るのか、筆は些か荒くなっている。その分モデルの人物も品下がって見える。もっとも朝倉家中興の祖、戦国大名としての祖と仰がれる孝景と、義景とでは先入観の差もあるが。
品格の違いはともかく、二人は似ている。頭のかっこう、鼻などそっくりである。
系図によれば、孝景(英林)-氏景-貞景-孝景(宗淳)-義景、であり、孝景は義景の祖父の祖父、曽曽祖父とでもいうのだろうか、5代前の人物である。それにしては似すぎているような気がする。似ていない父子もいる。父には似ていないが祖父にはそっくりの孫もいる。しかし5代前の人物の遺伝子は単純に考えると16分の1に過ぎなくなる。
おそらく絵師は義景像をできる限り孝景によせたのであろう。しかし全く違った面貌をしていたとも思えない。今川義元・武田信玄・織田信長・羽柴秀吉・柴田勝家・前田利家などの肖像はそれなりの個性を移しているように見える。信長の肖像は複数あっても丸顔の信長像はない。
義景は文化的素養のあった人物らしいのだが、この像からは教養がに染み出るという風には見えない。大変気難しく、癇癪持ちでもありそうだ。朝倉孝景(英林)像に感じられる威厳、知性は感じにくい。

二つの肖像画は軸装で足羽山麓の心月寺所蔵だが、ここに収まるまでいくつかの変遷があったと、解説にあった。

Xユーザーの福井市立郷土歴史博物館さん: 「【朝倉孝景・義景像の伝来をめぐる謎】 おはようございます! #郷土歴史博物館 では、重要文化財 #朝倉孝景(敏景)・ #義景 像を約15年ぶりに同時公開しています。昨日に引き続き、今回の調査で新た判明した研究成果を紹介します。(つづく3 ※訂正 解説B)の著者名に誤りがありました。 ✕竹内→武内 https://t.co/3ihkcuaM9g」 / X

コメント

奥琵琶湖 木ノ本 塩津

2024-08-11 | 行った所

木之本は言うまでもなく北陸道の宿場町だ。市もたった。
*JR木ノ本駅前、見える山は田上山という。賤ケ岳合戦時、秀吉方の砦が築かれた。
ここに江北図書館という滋賀県で一番古いという私設図書館がある。
*江北図書館
*江北図書館案内板
木ノ本駅近くの古い木造洋館だ。子供の頃の図書館で覚えのある板張り、軋む階段。
規模は小さい。明治35年(1902)に杉本文弥という余呉出身の弁護士が青少年の勉学にと私財を投じた文庫だ。
現建物は昭和12年に建てられた郡農会庁舎だそうだ。1Fは現役の図書館だ。2Fが資料室になっている。
江戸時代の絵図が平台のガラスケースのに収まっているほか、多くの木製の本棚が並んでいる。特別の稀覯本や古書はなさそうだ。昭和の本が多いようだ。私自身が子供のころ読んだ児童書も多い。
洋館らしい窓辺の下には木箱が並んでいる。小さな引き出しのついた箱は図書カードが入っていたに違いない。群書類従と書かれた木箱がある。その脇に渡岸寺観音堂現場事務所と書かれた木箱もある。十一面観音で名高い渡岸寺観音堂だが何が入っているのか。

  

木之本から西へ湖岸に出る。
山梨集落には一般車は入れない。
*山梨集落
*広屋の大石
*広屋の大石案内

北へ塩津に行く
*塩津神社
*塩津神社由緒
由緒にはこうあるが、塩津はやはり塩の集散地だから塩津だろう。

塩津の道の駅に丸小舟があった。大浦の丸小舟の館は優れた資料館で、丸子船の実物も展示してあった。この道の駅の船は屋外に屋掛けしただけの展示なので近々と周りから見れる。
*
*
*
*
*
*
*
*

塩津港遺跡や琵琶湖運河計画の資料もあった。

コメント

佐和山と彦根

2024-08-08 | 行った所

中山道は京都から東に向かい草津で東海道と分かれ、守山・武佐・愛知川・高宮・鳥居本と近江を東北に進む。鳥居本を過ぎて、北陸道と分かれ摺針峠を越え、番場・醒ヶ井と関ケ原に向かっていく。
鳥居本の西には琵琶湖があるのだが、その間に独立丘陵状の山がある。佐和山だ。その向こうに琵琶湖に向かって彦根の街が広がっている。
*彦根周辺地図
彦根城は佐和山の城を移した城だ。佐和山城は街道に面した城か、琵琶湖に面した城かが問題とされるが、そんな基本的な城のありようが不明になるほどに破壊された城だ。
*佐和山 彦根城下町側から
この写真の看板辺りまでは車道があるが、城址まではここからは登れない。龍譚寺の境内から徒歩で上がる道がある。
*佐和山城看板付近から彦根城が見える。
龍譚寺の前には広い駐車場や案内板がある。
*佐和山城案内
*佐和山城図
*石田三成説明版
*光成年表
*龍譚寺
*龍譚寺説明
*光成像
*でかい蜂の巣発見

*彦根城
彦根城は国宝でありなかなかの観光地だ。
特筆すべきは城下を巡る堀のほとんどが埋め立てられずに残っており、広い城域があることだ。現代の都市の真ん中に1キロ四方はあろうかという城域があることは、都市機能を規制してしまうともいえる。現にちょっと裏通りに入ると車で通行不能に見える路地が入り組んでいる。城下町の地割を残したところに今の彦根の街がある。
彦根藩は譜代筆頭の家格を誇り、赤備えの陣立、井伊直弼など歴史に名を遺した人物も出た。禄高30万石を数えるとはいえ、その程度の藩はいくらもあった。もっと立派な城下町を数え上げることはできるが、それらの城下の多くは堀を埋め立てていった。なくなった天守閣を模擬的に復元したところは多いが、城下を復元した都市はない。
意図的だったのかは知らないが、明治の廃城でも破壊されなかった彦根城は埋められなかった多くの堀と共に観光都市彦根の中核として残った。
*堀絵図
*屋形船
屋形船に乗ってみた
*蔵出し
*堀の終わり、堰になっている
*玄宮園
*
*夕暮れの彦根城

彦根港から多景(たけ)島へのクルーズ船がある
小さな岩島だ。
*多景島
上空をハヤブサが威嚇の声を上げながら猛スピードで飛び回っていた。島に巣があり、雛もいるのだろう。

コメント

朝妻湊址と干拓資料館

2024-08-05 | 行った所

古来の港は潟湖を利用したものであったという。縄文時代の丸木舟の頃から使われていたのだろう。船が大型化し、船底が深くなると水深の深い港が必要になる。
琵琶湖でも事情は同じだ。無数にあった内湖は潟湖に同じだ。
琵琶湖岸には内湖の数だけ港があったことだろう。織田信長の安土城は西湖(にしのうみ)という内湖のほとりに建つ。内湖は干拓で縮小したが、琵琶湖へ通じる大きな内湖であったという。
米原市朝妻筑後の朝妻湊はそんな港の中でもよく知られたものだった。
*朝妻湊址碑
*
天野川河口にあるように見えるが、もう少し南にあった内湖に面した湊ではないかといわれる。
*天野川河口の砂州
*河口付近から伊吹が見える。
朝妻湊は主に美濃以東の物資が集まった。北陸道の物資の集散地は今津か塩津が中心であったろうが、東山道の物資は朝妻にに集まる。
10世紀の東大寺文書に朝妻の名があるそうだ。
15世紀後半には一条兼良が、16世紀には山科言継が朝妻経由で美濃と行き来し、それを書き残した。
やがて琵琶湖東岸の港は長浜が、そして彦根が台頭する。朝妻は主要港の位置から滑り落ちるが、江戸時代にはむしろそのロマンティック「朝妻」の名が文人達を引き付けたようだ。

朝妻湊址から湖岸を南に降れば米原市の干拓資料館がある。
入江内湖の干拓の歴史をメインにしているが、周辺遺跡の発掘調査のの考古資料も展示されている。
*資料館入口のポンプ*
*内湖のでき方
*琵琶湖周辺内湖地図
*入江内湖と周辺遺跡
*入江内湖と佐和山
入江内湖の南に松原内湖があり、その東が佐和山である。
松原内湖は彦根城の外堀と繋がり、そこから琵琶湖と繋がっていた。

 

コメント