源平の合戦は華麗だ。源氏の白旗、平家の赤旗。白旗にあしらわれるは凛々しい笹竜胆、赤旗には蝶が舞う。
平家に比べ源氏は仲間内での争いが多いとされる。本当に多いのだ。この源源合戦ともいうべき争いはただ泥臭い。
義家のころから鎌倉幕府成立期まで、最初のと最後のはちとはみ出すが、12世紀を中心に16件を拾ってみた。暗殺もあるので合戦と云えないものもあるが、数年ごとに酷くいがみ合ってきた河内源氏だ。どこの一族でもあることなのかわからないが、血の気が多いとはいえるだろうか。
ここでは①から⑦の保元の乱までを書いてみる。
西暦 | 和暦 | 勝者 | 関係 | 敗者 | 関係 | 概要 | |
① | 1091 | 寛治5年 |
源義家 |
兄 | 源義綱 | 弟 | 河内にある郎党たちの領地をめぐり義家と合戦寸前にまで至るが、二人の主人である関白藤原師実が仲裁 |
② | 1106 | 嘉承1年 | 源義光 | 叔父 | 源義国 | 甥 |
常陸に勢力を持つ義光の所へ義家息子(義親・義忠の弟)義国が押しかけ、常陸国において合戦する。「常陸合戦」と言われる。義国は上野に退き、新田・足利氏の祖となる |
③ | 1109 | 天仁2年 | 源義明 源義綱 |
従兄弟 叔父 |
源義忠 | 従兄弟 甥 |
義家の息子(義親弟)義忠が源家棟梁となるが殺される。義明が犯人とされるが真犯人は義家・義綱の弟義光ともされる |
④ | 1109 | 天仁2年 | 源為義 | 甥 (甥の子) |
義綱一族 | 叔父 (父の叔父) |
為義は義家の孫(義親息子)だが義家の養子になっている。白河院の命を受け義忠殺害犯とされた義綱一族を討つ。義綱息子たちはみな自害、義綱自身は佐渡へ流されるが後に殺される |
⑤ | 1130 | 大治5年 |
鴨院義親 |
? | 大津義親 | ? | 義親は天仁1年(1108)出雲で平正盛に殺されたことになっているが、生存説があり偽?義綱が何人も現れている。これは義親を名乗る者同士の合戦。大津義親が討たれるが直後鴨院義親も殺害される |
⑥ | 1155 | 久寿2年 | 源義平 | 甥 | 源義賢 | 叔父 | 義朝長男義平は武蔵の大蔵にいた義賢を急襲、義賢らを殺害。2歳の義仲は木曽へ逃れる |
⑦ | 1156 | 保元1年 |
源義朝 |
息子 兄 |
源為義 為朝ら |
父 弟 |
保元の乱、乱後義朝は父為義を斬首 |
⑧ | 1180 | 治承4年 | 源頼朝 | 親戚 | 佐竹秀義ら | 親戚 | 常陸佐竹氏は義光の子孫。頼朝勢が佐竹氏を討った(金砂城の戦い) 佐竹秀義は奥州へ逃げる |
⑨ | 1183 | 寿永2年 | 源頼朝 | 甥 | 源義広 | 叔父 | 義朝弟義広は志太先生と呼ばれ常陸志太荘にいた。頼朝に反発するも頼朝勢に敗れる(野々宮合戦) 義広は義仲軍に加わる(義広は義仲の父義賢の同母の弟) |
⑩ | 1184 | 寿永3年 |
源義経 |
従兄弟 | 源義仲 | 従兄弟 | 頼朝の代官として義経・範頼が義仲を討つ |
⑪ | 1184 | 寿永3年 |
源頼朝 |
父の従兄弟 婚約者の父 |
源義高 | 従兄弟の子 娘の婚約者 |
義高は義仲の嫡子、義仲が討たれ鎌倉を逃げ出すが捕まり殺される |
⑫ | 1184 | 寿永3年 | 源頼朝 | 親戚 | 一条 忠頼 |
親戚 | 一条忠頼は武田信義の嫡男。武田信義は義光の曾孫。忠頼は暗殺される |
⑬ | 1185 | 元暦2年 | 源頼朝 | 親戚 | 多田行綱 | 親戚 | 多田行綱は摂津源氏である。多田荘の所領を没収・追放処。 |
⑭ | 1189 | 文治5年 | 源頼朝 | 兄 | 源義経 | 弟 | 義経奥州衣川で敗死 |
⑮ | 1193 | 建久4年 | 源頼朝 | 兄 | 源範頼 | 弟 | 富士の裾野巻狩りでの曽我兄弟の仇討事件で「失言」修善寺幽閉の後殺害 |
⑯ | 1219 | 建保7年 | 公暁 | 甥 | 源実朝 | 叔父 | 頼家の子公暁が実朝を暗殺する |
父頼義を継ぎ、前九年・後三年の役で勇名をはせた義家は八幡太郎を名乗る。同母の弟義綱は賀茂神社で元服し鴨次郎を名乗り、その弟義光は新羅神社で元服し新羅三郎を名乗っている。異腹の弟快誉は園城寺で出家している。
源氏は摂関家の家来としてその荘園を守る武力としてあった。摂関政治は天皇に代わり摂政や関白が政治をしようという政治形態であるから、院政とは相いれない。院政は天皇に代わりその父・祖父が政治をしようという話だから、摂関家と院はライバル関係になる。したたかな院の出現は摂関家には打撃だ。白河院がこれに当たる。摂関家の藤原頼道の子師実までは尊重も協力もしたが、師通が死に若くして忠実が継ぐと当然のように頭を押さえにかかる。
天下第一武勇之士、源義家も白河は快くは思わない。源氏の力をそぐことは摂関家の力をそぐことにもなる。
後三年の役は私戦とされ(これは仕方ないかも・・)一切恩賞はなく、義家は私財を部下の恩賞に充てている。大変な物持ちだったことがわかるし、この事で東国の武者たちの義家への支持は大きくなる。
白河は義家への寄進等を禁じる。義家の対抗馬として義綱を優遇する。
①そして寛治5年(1091)義家と義綱は畿内で互いに郎党を率いにらみ合う。畿内で合戦などされてはかなわない。師実が割って入ったが、たぶん両人ともに不満が残ったろう。白河の義綱優遇はさらに続く。
②の常陸合戦だが、義国は義家の四男である。長男は早逝、次男義親は対馬の守に任ぜられ、悪対馬と呼ばれた武勇の士、三男は義忠。義国は乱暴者だったというがどんな史料があるか知らない。摂関家領上野国八幡荘をもらい、早くに上野に下向していた。常陸合戦は当時16歳だった云う義国が叔父義光に仕掛ける。15歳で大蔵館に攻め入り叔父義賢を殺した義朝長男悪源太義平の先輩格のようだ。対する叔父義光60余歳は負けてはおらず 、義国を常陸からたたき出してしまう。新羅三郎義光は後三年の役を兄義家と共に戦った後、常陸の豪族と婚姻関係を結び根を張っていたらしい。源家の子弟が地方豪族と結婚し、その地方で勢力を張る、というのは一つのパターンだ。貴種として京都とのつながりをアピールし、豪族の方でもそのつながりを良しとしたのだろう。頼朝が北条の娘と結婚したのも同じパターンだと言えるかもしれない。義光は佐竹氏と武田氏の祖となる。滋賀園城寺近くの新羅神社の義光の墓には明治時代のものだが佐竹氏の作った碑があった。
義国は後に足利の荘を立荘し新田氏の祖となる。新田義貞は義国の子孫ということになる。
嘉承1年(1106)この戦いの後、義家が死んでいる。
義家の後継者と目されていたはずの義親だが、九州で反乱を起こし誅されていた。隠岐へ流されていたという。反乱自体が奇怪な話なのだが、平家物語冒頭の猛き者たちが列挙の中に康和の義親がある。義親はさらに出雲でも乱を起こす。眉唾物ながらも、義親の乱を平定したのは平正盛となっている。白河院は源氏を押さえるとともに、平家を重用する。出雲から義親の首を掲げ凱旋した正盛は出世街道を歩む。
一方源氏は停滞を余儀なくされる。
義家の後は三男義忠が継ぐのだが、何者かに殺される。
③の義忠殺害事件である。表では勝者として従兄弟の義明・叔父義綱を挙げてはあるが、この事件は実に不可解な経緯をたどる。
百錬抄によれば、当初は何故か美濃源氏の源重実が犯人とされ逮捕されたが無実だとわかった。そして義忠が襲われた現場に落ちていた刀が義明のものだと判明する。義明父は表の①でも義家とはあわや合戦というにらみ合いを演じた。源氏の衰退を苦々しく思い、自分たちの方がマシだ、と思っていたかもしれない。義綱一族は挙げて無実を叫び猛抗議、甲賀山へ立てこもり抗戦。息子たちは次々自殺した。
攻めたのは義親の息子で義家の養子になっており義忠を継いだ為義で、白河院の命により追討した。これが④になる。息子たちの自害にも関わらず義綱のみは降伏、佐渡へ流される。
ところが義忠殺害の犯人は別にいた、という話が流れる。黒幕は義綱弟義光。②の常陸合戦の義光である。彼が義明の刀を持ち出させ、郎党に命じ義忠を襲わせた。しかもその郎党に手紙を持たせ、異腹の弟快譽がいた園城寺へ遣る。快譽はその郎党を殺す。何とも手の込んだことをしたものだが、尊卑文脈にあるこれが真相とされているらしい。したがって③は義光(叔父)VS義忠(甥)という構図にもなる。
これだけ混乱した一族だ、若くして家督を継いだ為義には手の打ちようもなかったろう。頼みの摂関家も力を失いつつあり、挙句忠実・頼長VS忠通でケンカ状態。白河院も手強かったし、鳥羽院も手強い。院には平家が取り入っている。
為義は地方に活路を見出そうと息子たちを地方へ送る。義朝を関東相模、為朝を九州へ、更に義賢を関東上野へという具合に。そしてそれも新たな軋轢を生むのだが後にして⑤の義親の話へ。
⑤は共に義親を名乗る二人の合戦である。これも③の義忠殺害事件と勝るとも劣らない奇怪さである。
義親は平正盛に追討されたはずだ。首が都でさらされたではないか。しかし勇猛で知られる義親が簡単に正盛に討たれたことに首をかしげる人は当初から居た。それでも、偽首なら義親本人が騒ぎ出すだろう、八百長だったのか?押さえ込まれていた疑問は約十年後、越後に義親と名乗る僧が現れることで再燃する。この僧はあっさり殺されるが、今度は常陸にも義親が現れる。この義親は捕まり京へ送られるが偽物とされ殺された。
更に数年後、義親と名乗る男が藤原忠実の鴨院に匿われた。鳥羽院の意向あっての事だという。忠実自身は義親を見知っていたと思われるので、既に誅されたとして追討使正盛に恩賞まで出しているので本者とも言えず・・という状況に見える。
更に四番目の義親が大津に現れる。鴨院義親と大津義親が京都で互いに郎党引き連れ乱闘に及び、大津義親が殺された。
凱歌を挙げた鴨院義親だが、源光信が郎党を連れて鴨院を襲撃、義親を郎党もろとも殺害した、ということになっている。鴨院義親と大津義親の乱闘は光信邸前の出来事だったそうだが、義親?が居るとはいえ前関白屋敷である。この襲撃は余程義親の生存が都合の悪い輩=正盛を疑いたくなる。
茶番ともいえる義親騒動に比し⑥の大蔵合戦は保元の乱の前哨戦と云われ、遺恨は後の義仲vs頼朝の時代まで尾を引くものとなった。
為義は誰を後継者にしたかったのだろうか。長男義朝は、上総御曹司と呼ばれたくらいだから早い内から関東へ下向し、上総で過ごした期間が長かったのだろう。その間、次男義賢は帯刀先生(たちはきのせんじょう)という官職を得る。東宮の警備職である。摂関家頼長の引き(男色関係)もあったりはするものの、都の官僚システムの中でうまくやっていける、というタイプではなかったようだ。為義自身も狼藉者をかばい匿い官職を解かれるが、義賢も同じようなものだ。
義朝は熱田神宮司藤原季範娘と結婚すると京へ帰ってくる。そのコネで上西門院、鳥羽院との関係を作り始める。
親兄弟でも気が合わないというか仲が悪いのはよくあることだが、為義―義朝の仲の悪さは何故だったのだろうか?
何しろ鎌倉殿の父君故、後から履いた下駄もあろうが、義朝はひとかど以上の武将であったように思える。関東武者たちを、保元の乱で動員出来るほどの関係を築けたのは、ただ源氏の御曹司というだけではなかったろう。長男であり、母は白河院近臣である藤原忠清の娘というから悪くはない。義賢の母は六条大夫重俊娘だそうだがよくわからないらしく、少なくとも義賢の母に勝るとも劣らない。息子たちを地方に遣り、それぞれに地盤を作らせよう、というのは為義にしてはいい考えだ。しかも義朝はそれに成功したのだ。おまけに良縁を得て朝廷へのコネも付けた。為義も義朝に乗っかればいいのだ。そんなことは話にならないほど親子の中は拗れていたのだろうか。
義朝は下野守となり、為義をしのぐ地位を得ると、為義は義賢を上野へ遣る。義賢の同母弟義憲(=義範・義広:以下義広)も関東へ下向する。茨城県稲敷市辺りへ行ったらしい。義広は⑨の野々宮合戦で登場する。
義賢は上野多胡荘を本拠地とし、南下を目指す。武蔵の最大武士団秩父氏の秩父重隆の養い君となり、武蔵国大蔵の屋敷に住む。義賢次男義仲はここに生まれる。
義朝は下野守になったといっても地盤は相模・上総だったろう。武蔵を義賢に押えられてはたまらない。長男義平に大蔵館を急襲させる。秩父氏も一枚岩ではなかったようだ。後に武蔵武士の典型、武将の鑑と云われた畠山重忠の父は義平についている。
義平は義賢・秩父重隆を討ち取り凱歌を挙げる。以後義平は鎌倉悪源太と呼ばれる。
時に武蔵国守は藤原信頼「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし」と平治物語でくそみその云われ様の信頼だが、能力はあり公卿としては武断的な人物だったかもしれない。この信頼と義朝は既に親しかったのだろう。信頼は義平の襲撃事件を不問に付してしまう。平治の乱で信頼を日本一の臆病者!と罵る義朝だが、この頃はありがたかい庇護者だったのだろう。
どうも為義は情報収集能力、根回しの仕方が義朝に劣るようだ。
ところで鎌倉悪源太義平だが、平治の乱後捕らえられ処刑されている。平治物語によれば、死後も雷となって祟ったりする。
この義平が生き残っていたらどうなったろうか?頼朝との関係はどうなったろうか? 関東武者たちは皆頼朝よりも義平に親しかったろう。この兄とひと悶着起こさず、頼朝は無事鎌倉殿になれたろうか? 頼朝は嫡男扱いされていたけれども三男だ。長男で能力がありながらも嫡男扱いされなかった面白く無さは義朝が一番よく知っていただろうに。義朝はそこのところを考えなかったのだろうか、馬鹿親父の為義と俺とは違う、と思っていたろうか?
⑦保元の乱。これより武者の世、と愚管抄に慈円は書いた。近衛帝の若き死、長かった鳥羽の院政の後、王家・摂関家・武家それぞれが親兄弟・叔父甥互いに相争った。敗者:崇徳院・藤原頼長(父忠実)・源為義ら・平忠正、それぞれに傷ついたのだけれど、どこより傷が深かった一族はやはり源氏だろう。
戦の貢献度の高かった義朝の恩賞が少なかったというけれど清盛に比べ、もともと地位が低かったのだからこれは仕方がない。ただ罰は過酷だった。父為義は一方の将だったことを思えば仕方がなかったかもしれない。だが為朝を除く弟たちも斬り捨てられた。次男義賢は既に大蔵合戦で死んだ。三男義憲(義広、以下義広と書く)は常陸志田荘を動かなかったのか、ここには見えない。四男頼賢は義賢亡き後事実上の嫡男、五男頼仲、六男為宗、七男為成、八男為朝、九男為仲、以上の6人の男児を引き連れ為義は合戦に臨む。十男義盛(行家、以下行家と書く)がいたはずであるが元服前だったのか出てこない。この他青墓宿に4人の男児あり、彼らも保元の乱後殺される、というのが保元物語だが、ここでは物語としておこう。
十男行家の存在は間違いないから5から7,9の息子たちも存在していたのだろう。保元の乱後生き残った為義の息子は義朝以外、三男義広・八男為朝・十男行家の3人だったということだ。
三男は自分の荘に居て出てこなかったようなのだが、何故だろうか。義広は義賢とは同母の弟だ。それなりに仲が良かったらしいのだが、実際の所は不明だろう。志田先生(しだのせんじょう)を名乗っているので都で官職についていたことがある。先生は東宮の警備員の長であり、義賢もこの職に就いていた。義賢廃嫡の後、彼は為義の後継者に目されはしなかったのか、既に関東へ下向していたのか、ともかく四男頼賢が嫡男とされている。義広は父為義に含むところがあったかもしれない。甥義平に同母兄義賢を殺されたのはショックだったはずだ。次は自分がやられると思ったか。大蔵事件の後、幼い駒王丸(義仲)は木曽山中に匿われ育つ。何故木曽だったのか、大蔵から志田荘まで150kmくらいである。近く簡単に行けるとは思わないが、木曽よりは近いだろう。駒王丸を逃がした人たちは誰もあの叔父を頼ったら、とは考えなかったのか。或いは義平の手勢に固められ東へは行けなかったのか。義広は野々宮合戦の後、義仲を頼り、義仲は受け入れている。
四男・十男に関してはまだ納得がいくのだが、八郎為朝が流罪で済んだのはどうした訳だろう。若くして九州へ赴いた暴れ者。保元の乱でももちろん大活躍。保元物語での為朝の活躍は平治物語の義平のそれと大変似ている。潜伏中に病を得て捕まるところまで似ている。ただ義平は惨殺され、為朝は伊豆大島に流される。流刑にあたって義朝が左右のかひなを抜いた、というのだが、どういう処置をしたのか。「肩の継ぎ目の離れたるなり、扇をだにとりあげねば」というから肩関節を外したのだろうか。ただこの肩は後に自然と治ったという。武勇の士を惜しみ、あえて殺さないという風潮は確かにある。為朝もそれで救われたのだろうか。為朝は伊豆七島を切従え所領と称し、年貢を拒否、謀反として伊豆の狩野茂光の軍勢に討ち取られる。九州で阿多忠景の婿となり勢力を張ったという為朝の前歴を考えれば、流罪は剣呑すぎたと思うが。義朝は為朝を力はあるが頭は軽いとみて、恩を売り、郎党化するつもりではあったのだが、その前に義朝自身が平治の乱で失敗したということではなかろうか。