河越館跡
平家物語 第9巻、一の谷の戦いで平氏は次々に討たれ、また落ちていく。「知章最期」で子の知章は討ち死にし、父知盛は落ちる。知盛は馬を泳がせて沖の船に追いつく。二十余町というから2kmほど、鎧兜の武者を乗せ2キロも泳げるだろうかとは思うが、物語ではこうなっている。船には馬を乗せるスペースがない。馬を追い返す。阿波民部重能が良い馬が敵のものになるくらいならと射殺そうとする。知盛は止める。馬はしばらく船を追って泳いだが、やがて岸へ帰った。馬を捕らえるのが河越重房である。
この馬は名馬である。信濃の井上の育ちで井上黒と呼ばれ元々は後白河院に献上され一番厩舎にいた。宗盛が内大臣になった時下賜され、知盛が大事にしていた。
信州育ちの木曽馬(おそらくは)が都で法王の厩舎の最優秀馬となる。宗盛に与えられるが、欲した知盛に貸し与えたのか、知盛は宗盛よりは余程武将らしい男だ。馬を見る目もあったのだろう。それだけに馬の命を惜しんだ。
河越重房がまた後白河へ献上したので名前が河越黒となった。
平家物語に数ある馬の話で私はこの話が一番好きである。
河越重房は宗盛の末子副将が斬られるシーンでも出てくる。幼い副将を泣く泣く斬るのである。この時重房もまだ10代の少年であった。
さて、河越重房の父は重頼という。秩父氏の一族である。畠山重忠と共にはじめは頼朝に敵対し、後に従う。頼朝の命により娘は義経の妻となる。だから重頼は義経の舅であり重房は義弟ということになる。
頼朝と義経が対立すると河越家も頼朝ににらまれ、所領を没収され、重頼・重房親子は殺されてしまう。
広いグラウンドのように見えたところが河越館跡だった。子供たちが遊んでいる。
入間川に近いはずだが間に大きな道路がありよくわからない
川越市街地に入り、観光地のど真ん中へ突っ込んでしまったようだ。両サイドにそれらしい建物が並び、観光客がぞろぞろ歩いている。片側1車線で2車線の道だが大渋滞である。せめて一方通行でないとどうにもならないのではと思われた。漸く抜けてレンタカーを返しホテルへ。
翌朝、川越の町を少し歩く。まだ店が開いていない時間帯だ。昨日大渋滞だった道はすっきりと平常な顔をしている。これなら一通にする必要はないのだ。
時の鐘は酒井忠勝が作ったとあった。彼はこの後小浜藩主となる。
鬼平犯科帳の流星という話には川越が出てくる。それによれば松平伊豆守信綱が正保4年(1649)新河岸川を整備し、江戸への水運を開き、城下町の発展に努めた。
川越は小江戸と言われる。確かに情緒ある街並みに見えるが、重厚な屋根の蔵造りのような建物群は明治の大火の後のものらしい。
新河岸川沿いに梅が既に咲いていた。
養寿院。ここに河越重頼の墓があるはずである.
毛呂(もろ)山町へ向かう。
もちろんつい最近までそんな町があるなんて聞いたことも見たこともなかった。鎌倉街道について漁っていたら出てきたのだ。
鎌倉街道上道でかなりよく残っているという。資料館が隣接しているという。
充実した資料館で入場無料!
毛呂氏というのがいた。なんと子孫は江戸期には酒井家に仕え小浜にいたという。毛呂山の絵図面を持っていた。
しっかり調査し、成果を残し公表する。すばらしいことだと思う。
雑木林の中を道が500メートルほど続く。
この道を真直ぐ北上していくと、大蔵館跡の脇の道につながっていたのだろう。
折角、いい街道遺跡、資料館だというのに、道脇にゴミ捨て場のような資材置き場のようなものがあったのはいただけなかった。
吉見町へ向かう。
男衾三郎絵詞に吉見二郎という兄が出てくる。きっとこの吉見なのだ。
吉見百穴
古墳時代後期-終末期の墳墓群だ。と分かっていても奇妙なものだ。明治時代になってもコロボックル住居説などという説がまじめに語られていたというのもわかるような。
山肌は凝灰岩ということだがよく形状を保ち残っている。登っていくとコートを着ていると汗ばむほどだ。
頂上近くから富士山が見えた。
手前に広がるのは東松山市街。秩父の山も見える、中央は武甲山だそうだ。
戦時中、この山を大きく掘り、軍事工場にしようとしたらしい。朝鮮人徴用工が動員されたという。狂気の歴史もまた刻まれている。
息障院へ行く。幼稚園も経営しているらしい結構大きな寺だ。
1月とは思えぬ日差しが降り注ぐ。
範頼もこんなところで一生を終えることが出来たらどんなに良かったろう。
陰鬱な修善寺で起請文を書いた範頼は哀れである。
範頼の子孫は吉見氏と名乗り、御家人として鎌倉に仕えたという。
梅がほころびかけていた。
大蔵館跡へ向かう。嵐山のすぐ南だ。
ちょっと小高い林の中に神社があるようだ。そこが大蔵館跡だった。
発掘調査もされたようだ。
義賢は為義の次男だ。兄は義朝だが為義は義賢を嫡男扱いする。義朝は不満だったのだろう、関東で独自に勢力を張る。
義賢は帯刀先生(たちはきのせんじょう)となったり能登国の預となったりするが、どうもやることが恣意的かつ杜撰で、まともには務まっていない。しかし武力はある。藤原頼長がこの武力を取り込む。
頼長という人は摂関家忠実の次男、兄忠通がいる。日本一の大学生と言われた頭脳、悪左府と言われた果敢な厳格さ、しかし現実を見る目が弱かったと言われる。
そしてだいぶ変わった人間ではなかったかと思われる。それを示すのは彼の日記「台記」である。
「今夜、義賢を臥内に入る。無礼に及ぶも景味あり。不快の後、初めてこの事あり」久安4年(1148)1月5日の事だそうである。久寿2年(1155)8月の大蔵合戦の7年前の事である。義賢は30歳前後で死んだとされるので、この頃は20代前半、頼長は30歳近くだろうか。
貴族の日記は近代以降の思春期の少年少女のそれとは違う。複雑怪奇な儀式の式次第、有職故実、除目を子孫に伝える、というのが一義的な意味なのだろう。時事、町の噂話、災害や書き手の時々の感想も添えられ、だからこそ一級の史的資料とされるが、まず、子や孫に読ませることを前提としているはずだ。
これを子供が読むことに頼長は何の躊躇いも覚えなかったのだろうか。「誰それを臥内に入れる」というだけで「え"!」とはなってしまわないのか?もちろんこの頃の同性愛は珍しいことではない。後白河院の近臣・寵臣とされる人達は皆「ヲトコノオボエ」と云う奴で登用されている。ヲトコノオボエが出世を左右したのである。
頼長もまさかこのようにして人脈を広げるのだ、と範を垂れる意味で書いたのではあるまい。何しろ「無礼に及ぶも景味あり」だもの。「台記」には義賢だけでなく他の男性との性愛も満載だそうで、まじめな研究者は、なんでこんなものを読まなければならないのか、と嫌になるそうである。
頼長、男色家ではあるものの、結婚もし、複数の女性との間に子供がいる。もちろん後白河もそうだ。
話を義賢に戻す。父為義は長子義朝に対抗すべく義賢を関東へ遣る。上総国多胡にいて南の武蔵に勢力を伸ばしたらしい。武蔵の国の実力者秩父氏の秩父重隆に婿になって大蔵に館を構える。義仲はここで生まれたのだろうが、母は秩父氏の娘ではなかったと言われる。
相模にあって北へ勢力を伸ばす義朝とはぶつかる。義朝の長男義平、当時14、5歳が兵を率い大蔵館を急襲する。あっけなく勝負はつき、義賢も秩父重隆も討ち死に。大蔵館は灰燼に帰す。
この戦いは保元の乱の前哨戦と言われる。頼長・義賢=為義 VS 義平=義朝・藤原信頼 という構図だ。信頼は当時武蔵国司だったが、この私闘を一切咎めることなく放置。
悪源太と呼ばれる義平は三浦氏の娘の産んだ子とされる。畠山重能は秩父の一族だがこの時義平についた。
義平は重能に義賢の子駒王丸2歳を探して殺すように命じる。幼児を殺したくなかった重能は、子供を齊藤実盛に託す。実盛は幼児を木曽の中原兼遠に届ける。中原は駒王丸の乳母夫であり、駒王丸は元服し義仲となる。こういうストーリーになっている。
大蔵館跡のすぐ近くに義賢の墓がある。
義賢の墓だけでなく、源氏三代供養碑という物になっている。義賢・義仲・義高(清水の冠者)の三代だ。3人とも非業の最期を遂げた。
ここには彼らの供養碑だけでなく、為義や義家、畠山重能・斉藤実盛の碑もある。背の高い板状の石碑で「板碑」というのだそうだ。青っぽい秩父の緑泥片岩で作られ、鎌倉時代から関東を中心に鎌倉武士の所領地に建てられた供養塔。石で作った卒塔婆だと思えばいいらしいが、ここのものはみな新しい。近年に整備されたのだろう。
板碑というのは大宮の博物館で展示されていたのを見てはいたのだ。ただ刻まれた梵字からして無縁のものと通り過ぎたのだった。
大蔵館と義賢墓の間に鎌倉街道が走っている。大蔵は鎌倉街道の宿だった
。
熊谷で泊まったホテルの部屋は5Fだった。窓から富士が見えた。南西だろうか。朝が少し焼けているのか、しかし昨日とは一変、いい天気だ。冷え込んでいて車のフロントガラスに霜が一面ついている。
深谷方面へ出発。西に向かって走るとだんだん秩父山地が近くなってくるようだ。広大な関東平野の縁辺にそそり立つ山塊が秩父だ。
畠山重忠公園。畠山重忠生誕地とされる。父重能は秩父家の出だが、男衾郡畠山に屋敷を構え、畠山氏を名乗った。あの男衾三郎絵詞の男衾郡である。大蔵合戦で源義平が叔父義賢を攻めた時には義平につき、義賢とともにあった秩父重隆を攻めている。
大力、声四方に響き、勇猛果敢、智謀あり、信義篤く、坂東武者の鏡と言われた重忠は、17歳、頼朝の挙兵に会う。重忠は一族を率い、平家に与する。石橋山の戦いには間に合わなかったが、酒匂川の東にいた三浦氏と戦う。更に三浦の居城衣笠山を攻め落とす。高齢だった三浦義明は死ぬ。
三浦は船で房総半島に逃れ、頼朝と一緒になる。頼朝は千葉氏・上総氏等と大軍となって戻ってくる。この後頼朝は鎌倉に入るのだが、その前に武蔵国府等に寄っている。
畠山が頼朝方につくのはこの頃らしい。三浦は文句を言わなかったのかと思うが、畠山の力が認められたのだろう
この頃、父重能は大番役で京にあった。寿永2年(1183)平家の都落ちに際し、畠山重能・小山田有重・宇都宮朝綱の3人は東国へ帰されることになる。3人は平家について西国へ行く、というのだが知盛はこういう「汝らが魂は皆東国にこそ在るらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すようなし。急ぎ下れ」
この公園の重忠像はびっくりするようなものである。角度が悪く、背景の木々に紛れてしまったが、この重忠、馬を担ごうとしているのだ。鵯越えの逆落としで馬が可愛そうと重忠は担いで下りた、という源平盛衰記らしい派手な挿話から採ったのだろうが、馬は現代のサラブレッドをモデルにしたのかでかい。当時の馬はもっと小柄だったろうが、それにしても人が担げるようなものではない。そんなことをしようとしたらさぞ馬は怖がったろう。
この公園は荒川の近くにある。荒川がかくも長大な川であるということも初めて認識した。隅田川の支流みたいなものかと思っていたのだ。とんでもない。
公園は邸跡とされるが墓もある。奥の建屋の中に五輪塔がある。
鎌倉幕府に重きをなした重忠だが、頼朝亡き後、北条の策略により、子と共に殺される。42歳だったという。
嵐山へ向かう。
武蔵野、丘陵地帯、というのはこういう所かと思う道をたどる。
嵐山史跡の博物館一帯は中世の山城だらけだ。
博物館のある菅谷館跡は畠山重忠の屋敷跡だと言われる。しかし、室町・戦国の遺跡と重なり合っているようだ。
ここにも重忠の像がある。これは武人というより平城京あたりの大宮人みたい。
この博物館では男衾三郎絵詞のビデオが面白かった。
大蔵館跡へ向かう。嵐山のすぐ南だ。
熊谷駅南口でレンタカーを借りる。北口には熊谷直実の騎馬像があるようだ。写真で見ると扇をかざしている。敦盛を呼び返すところだろうか。
熊谷寺へいくも門は閉まっているし、道が狭く車を停めるところが見当たらない。その割に交通は多い。ぐるっと回って諦めた。
熊谷直実が出家して作った寺で墓があるという。
出家の動機は一の谷の合戦で若き平家の公達敦盛の首を取り、世の無常を感じたから、というのは物語的でありすぎるのだろう。実際には叔父との所領争いの裁判に負けたからだという。直実は口下手であったらしく、公事の場ではしどろもどろであったという。
関東武者の多くがそうであったように、熊谷直実も保元・平治の乱では源義朝方であり、その後富士川の戦いの前まで平家に従い、その後頼朝に従う。
平家物語では熊谷直実は第9巻「敦盛の最期」の何章段か前「一、二の懸け」にも出てくる。一の谷の先陣争いだが、熊谷親子が夜中から平家の木戸口で名乗るが「あしらふものもなかりけり」という扱いで相手にされず、更にやってきた平山季重と先に来たのは俺だ、先に木戸に入ったのは俺だ、と一番駆けを争ったという話で、いささか滑稽味を帯びている。
次の章段「二度の懸け」で梶原景時は「後陣の勢のつづかざらんにさきかけたらん者は勧賞あるまじき由」と言っている。戦は勝たねばならない、ただ先駆けすればいいというものではない。
「一、二の懸け」「二度の懸け」似た名前の章段だが、ここでは梶原が父性愛と勇猛さと見せる儲け役だ。
武者は皆、一番駆け、兜首を狙っている。恩賞を賭け戦場を駆け回る。
「敦盛の最期」の少し前「越中前司の最期」では平家の侍大将盛俊が猪俣小平則綱という者にほとんど騙し討ちに首を取られる。岩波本の平家物語ではないのだが、延慶本では、この首を猪俣は人見四郎に横取りされる。しかし猪俣は盛俊の片耳をそぎ取り、証拠とし、自分の手柄と証明したという。
この話に比べると、熊谷の敦盛を討つ話は異質すぎるようだ。いくら若く美しい公達だとて喉から手が出るほど欲しい兜首、滅多にないチャンスを逃してもいいとは思うまい。
ただ、この熊谷直実という人はどうも妙なエピソードには事を欠かぬようで、それと後の出家の話と合わせて想像されたのが「敦盛の最期」だろうか。
熊谷市街から北へ妻沼方面へ向かう。平家物語でよく知られたもう一人の坂東武者、斎藤実盛の跡へ行く。実盛と直実は隣接した土地にいたのだ。互いによく見知っていただろう。数百の武士団がひしめいたという関東でともあれ彼らは名を遺した。
齊藤実盛は越前の出身とされる。鯖江市に子孫と称し系図を持つ家もあるらしい。平泉寺長吏斉明とも同じ一族だとも。どういう経緯かは知らないが武蔵で養子に入り、ここで長井の荘別当として勢力を伸ばした。
源義賢+秩父氏を源義平(義朝子)が急襲し、義賢達が殺されたとき、2歳の駒王丸(木曽義仲)を木曽へ逃がしたのは実盛だとされる。
実盛は保元・平治の乱を義朝に従い、その後平家に与し最期を迎える。石橋山の戦い前には大将維盛に坂東武者の勇猛さを語り、すっかりビビらせてしまうというよくわからないエピソード付きだ。北陸遠征に従い、故郷に錦を飾るとて大将級の衣装を纏い、白髪を染めて戦場に臨む。倶利伽羅合戦の次の篠原合戦で義仲の手勢手塚光盛に打ち取られる。篠原合戦趾には実盛の首を抱いて泣く義仲の像がある。
妻沼の北辺は利根川であり対岸は栃木だ。
めぬまの歴史散歩とか、この辺りの実盛ゆかりの場所を書いたパンフをネットで入手していたものの、実際の道と地図の関係がよくわからない。大分うろうろしてしまった。
取敢えず聖天宮がこの辺りの目玉らしい。ケバイ江戸時代の建物だけかと思ったら、治承3年齊藤実盛の創建とあるではないか。治承3年(1179)と言えば11月が清盛のクーデター、翌治承4年5月には以仁王の挙兵、8月頼朝、相次いで甲斐源氏、義仲の挙兵、治承寿永の戦乱が幕を開ける。
この境内に実盛像がある。鏡と筆を手にし、小松の多太神社にあるものと大変良く似ている。同一鋳型ではないかと思われる。
猫を3匹見た。どれも結構愛想よしの別嬪さん。
南下し、福川という川の南岸沿いに長井神社と齊藤館跡を見つける。長井の荘というのはこの川を挟んで広がっていたらしい。
福川の堤防から、この右下に館跡 画面中央、木の茂っているあたりが長井神社
大体この辺と言うことでこの地を離れる。
行田市のさきたま古墳群へ向かう。もう4時だ。資料館へ飛び込む。とても外の古墳群を見て回る余裕はないが、ここまでくれば寄らねばならぬ。
北陸新幹線を大宮で下りる。大宮は初めてだ、というより埼玉は初めてだ。これまで通過したことしかなかったのだ。
駅から氷川神社まで歩く。意外と距離がある。
武蔵一之宮、堂々たる参道が延々と続く。この神社の縁起は古く延喜式にもあるれっきとした社である。境内に蛇池という池があり、湧水が神社の起源とか。だとすれば丘陵地帯の水利を司った神であろうか。
しかし平家物語の時代、すなわち平安末から鎌倉にかけてはどうもはっきりしない。この時代の武士、豪族は地名を名乗るのだが、誰がどうこの辺りを押さえていたのか分からない。鎌倉街道も上道はずっと西だろうし、中道も微妙に避けているような。
それに、このあまりに直線的な参道は鎌倉の鶴岡八幡のそれのようにひどく人工的なもののようだ。大宮は江戸時代中山道の宿だったようだ。この町の起源は江戸期をさかのぼらない気がする。中山道の宿は江戸から板橋・蕨・浦和・大宮・上尾と続く。日本橋-大宮間は30km程度だそうだ。健脚なら上尾まで足を延ばしたかもしれないが、大宮あたりで一泊というのが多かったのか。江戸という巨大都市の発展を前提に成立し、本当に栄え始めたのは明治天皇の行幸、その後の鉄道のターミナルとなってからだろうか。
しかし、参道は散歩道としてはよい。お正月には初詣の客であふれたというが、鎌倉ほどの観光地でもないので、参詣、犬の散歩と自然な人の流れだ。随分大きな樹がある中に桜が咲いていた。冬桜か。
翌朝も参道を歩き、神社には寄らず、埼玉県立歴史と民俗博物館へ。
さすが関東武士団の本拠武蔵国の歴博だ、将門の乱に始まり鎌倉期にかけて、面白く見た。
実はこっちの方が主ではないかと勘繰っていたくらいの古墳時代だが、もちろん充実。何しろ稲荷山古墳のさきたま古墳群を擁する。
非常に大きな馬の埴輪にも驚いた。このサイズで完形だとは。
奥州の富は「金・馬・鷲羽」に象徴されたという。古墳時代には馬は東国の象徴だったのか。
博物館から大宮公園駅へ向かう。関東の冬は寒くても晴れていると聞いていたが、この天気は何なのか、暖冬のこの冬一番の寒さというのだが、霙に時折霰が叩きつける、風も強い。これでは雪が積もらないだけで北陸と変わらない。
大宮駅へ戻り、高崎線で熊谷へ移動。
関東は不案内だ。度々行っている東京でさえ、まあ分かるというのは上野の博物館界隈くらいのもの。
新宿・渋谷はおろか有楽町も日比谷も怪しい。埼玉県は東京の北側にあるらしい。さらにその北に西から群馬・栃木・茨城らしいが実は茨木と栃木はほとんど区別がつかない。千葉は房総半島のある所と心得ているが、北辺はどの辺りか見当もつかない。更に都市名となると筑波が茨城か栃木か、足利が栃木か群馬かもわからない。
正直埼玉県なんて昔の武蔵の国とは言うものの東京の衛星都市ならぬ衛星県くらいにしか思っておらず、あんなに広いとは思わなかった。
今回の三日で少しアウトラインだけは見えたような気はする。
大宮 氷川神社 埼玉県立歴史と民俗の博物館
熊谷 妻沼 聖天宮 長井神社 斉藤屋敷跡
行田 さきたま史跡の博物館
畠山重忠公園 嵐山史跡の博物館
大蔵館跡 義賢墓
吉見百穴
息障院
毛呂山町歴史民俗資料館 鎌倉街道
河越館跡 川越市街
木村茂光「鎌倉と街道」より
以上が今回巡ったところである
「曽我物語」とか「曽我兄弟の敵討ち」とかいう言葉は知っていた。
”曽我兄弟”が、”親の仇の誰かを”、”敵討ちをした(殺した)”話となるのだろうがそれ以外はすこぶる怪しい。富士の裾野の巻狩りで起こったのだと言われれば、そう聞いた気もしてくる。ということは鎌倉時代初期か?
実際にあったことなのか、全くの物語なのか。
そして粗筋を読んでみたところが、全く混乱してしまった。まず曽我兄弟の仇討というからには、討たれたのは兄弟の父、曽我の某という人物に違いないと思いこんでいたのだが、曽我祐信は母と再婚した養父だという。河津三郎祐泰というのが討たれた父の名である。敵の名は工藤祐経で、河津祐泰を殺したのは祐泰の父伊藤祐親を恨んでいたからだという。恨みの理由は祐経・祐親の祖父である工藤祐隆にまで遡らないと理解できない。まるで芝居の筋書きのような話ではないか!
それで図書館に曽我物語の現代語訳があったので読んでみた。
ここまでで工藤・伊東・河津と出てきたが、これは実は同じ一族である。伊東や河津の姓は居住地による。祐経・祐泰・祐親・祐隆・祐信と似たような名が出てくるので、どれが父やら祖父やらこんがらかる。因みに曽我兄弟の名は兄十郎祐成・弟五郎時致である。弟は北条時政を烏帽子親として元服した所為か名前の系統も変わっているが、兄が十郎、弟が五郎なのだ。彼らの父祐泰は嫡男だが三郎、その弟は次男とされ、九郎祐清と名乗っている。三郎はまだ太郎・次郎が早逝したと考えることは可能だが、十郎や九郎はいったいどこから出てきたのか。
こんなややこしい話を江戸時代の人は「助六、実は曽我の五郎」などと云う歌舞伎を楽しんでいたのだろうか。一応曽我物語の知識がないと無理だと思えるのだが。
さてこの事件の元凶ともいうべき工藤祐隆、曽我兄弟の祖父のまた祖父で5代前の人物である。藤原家の系統で伊豆半島の狩野にいた。伊豆半島の西部をほぼ縦断して流れる狩野川というのがある。その上流域という。山の多い地域のようだが馬を飼うにはいいところだったらしい。祐親の祖父で養父の祐隆は狩野の地を出て伊豆半島東部に荘園を開く。伊東市を中心に宇佐美・大見・久須美、南方の河津も含む総称久須美荘の開発領主である。伊東に主に住み、伊東氏を名乗り、後には久須美入道と号した。
狩野は四男茂光に譲った。彼が狩野氏の祖となる。
工藤祐隆は妻が死に、跡取りも死んだ(次男・三男は?と思うが、書いていないものはわからない)ので後妻をもらう。ところが後妻にではなく後妻の連れ子の女子に子を産ませ嫡男祐継とした。また死んだ跡取りにも子供がいた。この子は孫なのだが、次男として養子にした。
この時点で??が募る。どう考えても孫の方が年上だ。息子の死んだ年に連れ子が息子を産んだとしても1歳は違うだろう。それどころか実際には10歳ほども違うようだ。更にこの孫、伊東祐親はかなりのやり手だ。才幹がなくて嫡男とはしなかったとは考えにくい。それだけ孫より連れ子の子が可愛かったということか。
久須美入道は嫡男とした連れ子との子祐継に所領の大半を譲り、孫の祐親(次男として養子にした)には河津の荘を譲る。
年上で嫡孫の自負のある祐親としては不満があることは誰の目にも明らかだろうと思う。久須美入道には見えなかったのだろうか。
と、ここまでが曽我兄弟の敵討ちに至る前段ともいえようか。
月日は移り、伊東荘等を継いだ祐継は元服前の子を残して病死する。死に際、祐親は義兄の子の後見となることを約する。つまり子供の元服の時まで所領を預かる。実際、祐親は子供の面倒を見、元服させ、自分の娘万劫御前と娶せる。この少年の元服した後の名前が工藤祐経である。祐親は祐経を京都へ連れて行く。この一族は平家に従う地方豪族であり、大番役などにも出仕していたらしい。また荘園は領家として重盛に寄進され、ついで大宮(藤原多子、近衛・二条の二代の后として知られる)を本家として寄進されている。工藤祐経は、平重盛、ついで大宮に仕える。祐親・祐経の関係は形式上は叔父甥、実際には祐隆の孫同士、ということになるが、年齢的には叔父甥でおかしくなかったろう。
祐経は利発な子だったらしい。若くして武者所一臈(筆頭)次いで左衛門尉になった切れ者である。また歌舞音曲にも才能があったようだ。
利発なだけに"叔父"祐親の所領の横領に気づく。訴えは起こしてみたものの、実際に伊豆の領地を領する祐親は平家にも重んじられ、祐経の訴えは通らない。更に祐経は妻が土肥実平の息子の嫁になったことを知る。元服当時の婚姻にどれほどの実態があったか分からないが、これはかなりの暴挙だったろう。当然ながら、祐経は激怒する。
土肥実平は伊豆の豪族の一人で、平家物語にも度々名前が出てくる。
なお、この土肥遠平の妻は曽我物語には曽我兄弟を支援する早川の叔母として出てきて、祐経との関係は感じさせない。
激怒した祐経は伊豆の大見荘の郎党、大見小藤太・八幡三郎に祐親父子の殺害を命じる。大見荘というのは久須美荘の中の一荘で祐継が所領していたと思われる。
そして、祐親の嫡男祐泰(曽我兄弟父)の殺害の場なのだが、これがまた飲み込みにくいときているのだ。
伊豆の奥野の巻狩りの帰り道、安元2年(1176年)10月の事だったという。
安元2年とは鵜川騒動の年だ。安元3年には神輿が京都に入り重盛率いる武士に矢を射かけられる。更に太郎焼亡と言われる大火がある。
その頃、武蔵・駿河・伊豆・相模の豪族が500騎も集まって伊豆の奥野で狩りをして遊ぼうというのだ。
祐親は喜んでもてなす。7日間の巻狩りだという。この狩りには"流人"源頼朝も参加している。河津町の曽我八幡神社にあった50円の資料パンフには伊藤祐親が頼朝を慰めようと催した狩りだとあったが、どういう発想かわからない。
巻狩りは遊興というより軍の実践的訓練とされる。武蔵・駿河・伊豆・相模の豪族が結束を固め軍事的示威のため、と考えるものの誰に対するものだったのか。頼朝に対して?、頼朝はこの時点でそんなに意識される存在でもなかったろう。結構あちこちで歩いたりもしていたようだが、基本流人である。これもまるで分らない。
いっそ虚構と考えてしまえば、つじつまは合う。吾妻鏡は治承4年に始まる。他に確たる同時代史料があるとも思えない。
曽我の敵討ちは建久4年(1193)富士の裾野の巻狩りの場だ。これに合わせて討たれた父祐泰も巻狩りの場で死ななければならなかった。相撲の場は祐泰がいかに素晴らしい人物であったかを語るためのものである、というのはどうだろうか。
狩りの後酒宴となり、更に相撲が催される。相模の大庭景親の弟、俣野景久が強く、また小面憎い自慢をする。長老土肥実平をも馬鹿にした言動をとる。ここに河津祐泰が挑む。河津祐泰が圧勝し、この時の技が相撲の「かわず掛け」だというのだがホンマかいな。
俣野景久は治承4年(1180年)石橋山で頼朝の手勢佐奈田与一と組打ちする。佐奈田与一は直後に俣野の郎党に討たれ死ぬ。石橋山には佐奈田神社というものがある。
石橋山の頼朝を攻めたのは北から大庭景親、南から伊東祐親である。
俣野景久は頼朝が房総半島経由し相模に戻った後に逃れ、京都へ行き平家の北国下向に参加する。平家物語に、齊藤実盛らと語り合うシーンがある。源氏の方が優勢だし、あっちへ行くか、という話に 俣野は「我らはさすがに東国では、みなに知られて名あるもののでこそあれ。吉についてあなたへ参り、こなたへ参らうことも見苦しかるべし。」と言っている。ひとかどの武将とみられる。
しかし、曽我物語の相撲の場での俣野は、河津を引き立たせるヒールである。大力で知られ、ヒール扱いしても文句の出ない俣野が河津の相手役に選ばれたのだろう。
この狩りの帰り道、祐泰は大見小藤太・八幡三郎に射かけられる。腰から大腿骨にかけて当たったようだが大動脈でもやられたのだろうか。祐親も射られたものの大事には至らない。
大見小藤太・八幡三郎は大見の荘に逃げ込み、更に狩野に隠れるが、祐親は祐泰弟祐清に命じ攻撃する。大見小藤太は逃げるが、八幡三郎這討ち死にする。
狩野荘は狩野茂光(祐隆4男)が領している。彼は頼朝が挙兵するといち早く参じ、石橋山で戦死する。
建久4年の頼朝の富士の巻狩りでは狩りの参加者は数えきれないほどだが、それに先立って行われた那須野・入間野などでの巻狩りは射手は22人に絞られ、他の参加者はただ勢子として使われるのみで、弓矢を持つことも許されなかった。22人の者は「弓馬に達さ令め、又、御隔心無き之族」とされたもの、つまり頼朝が信頼できると判断していた者ということになるのだが、その中に狩野介宗茂がいる。茂光の子である。
工藤祐経がいつ京都から戻り、頼朝に仕え始めたかは「比較的早い時期」だろうとはされるが不明のようだ。祐泰殺しの下手人が狩野に行ったというのは、狩野茂光と祐経ともコネクションも想像される。
また曽我兄弟の母親は茂光の孫だという記載を見つけたが(朝日日本歴史人物事典の解説)根拠が何かは解からない。
祐親は娘たちを三浦・北条・土肥などと婚姻をさせている。次男祐清の妻は比企氏の娘だ。狩野の娘を息子の嫁にしても不思議はないネットワークではある。
祐泰死亡時、妊娠していた妻(曽我兄弟母、曽我八幡のパンフでは満江御前と言っているが根拠不明)は男児を産み、その子を祐泰弟祐清の養子とし、一万・箱王二人の息子連れで曽我祐信と再婚する。この女性は祐泰との結婚前には伊豆の目代仲成という者の妻であり、男女二人の子を産んでいる。更に曽我祐信との間に3児を産む。
この婚姻は、曽我物語では伊東祐親がいささか強引なくらいに勧めた話に読める。何故だろうか?つまり河津荘の権益をどう考えていたのだろうか。確かに兄弟は5歳と3歳の幼さだが、自身あるいは次男に後見させ、元服を待って一万に継がせる、というのが順当のように思える。しかし、祐親は自分は年寄の上に敵持ちでいつ殺されるかもわからないからお前たちの面倒は見られない、というのである。祐清が後見できない理由は明らかではない。
実際には祐泰の横死が安永2年(1176)10月、その4年後治承4年(1180)8月、頼朝の挙兵がある。だから祐親も次男も一万が元服する年まで後見はできなかったわけなのだが、そこまで見通していたわけでもないだろう。平地の少ない伊豆半島で開けた土地のある河津は貴重だろう。この荘は誰の管理下となったのだろうか?
曽我祐信というの人も伊東家の遠縁のようであるが、伊東よりはるかに弱小の地方豪族のようである。祐親の態度はまるで母子を厄介払いでもするように曽我に押し付けたように見える。
とはいえ、曽我は小田原の東に広がる丘陵でなかなかいいところに見える。召使や乳母もいて、貧乏暮らしを強いられたというのは嘘である。
曽我祐信は石橋山の合戦に大庭景親の手勢として参戦。2か月後、房総半島経由で諸方の武士団を従え、頼朝が戻ってくる。
畠山重忠をはじめとする石橋山では平家方だった武士団が頼朝に帰順する。おそらくこの頃、曽我祐信もまた頼朝に下るのであろう。大庭景親は殺されるが、弟俣野景久は逃げて平家軍に加わる。伊東祐親・祐清親子は船で伊豆半島を脱出、平家への合流を目指すが捕らえられる。祐親は殺されたとも許されたのち自分を恥じて自殺したともいわれる。
祐清は妻が頼朝の乳母比企の尼の娘だったこともあり、許されるが平家へ走る。篠原合戦を前に語り合う東国武士の一人伊東助氏=祐清である。
曽我祐信は範頼・義経に従い西国遠征にも参加している。平家物語第9巻、寿永3年(1184)一の谷の合戦で大手を攻める範頼軍の中に曽我太郎助信がある。
というわけで、曽我兄弟一万9歳・箱王7歳が雁の群れを眺めて実父のいないのを嘆いたという頃から、養父祐信もまた大変な日々を送っていたのだった。
曽我物語を読んで困惑するのは、曽我兄弟がロクでもないすねかじりのガキにしか見えないことだ。
親類縁者にたかって歩き、一緒に敵討ちをしようなどと云っては困らせるさせる。母親の先の結婚で産んだ息子(京の小次郎)など兄弟からすれば兄と思うかもしれないが、小次郎にすれば赤の他人の男の敵を一緒に討とうと言われても困惑するだけに決まっている。兄弟が頼朝の寵臣工藤祐経を殺したらどんな災難が降りかかるかわからないと三浦与一が訴え出ようとするのも当然のことに思える。
それに対し、北条時政・三浦義盛・畠山重忠など錚々たる面々はまるで兄弟の仇討を後押ししているとしか思えない。彼らには彼らの思惑があるのだが、それをいいことに、兄弟は家々を泊まり歩き、飲み食い、笠懸で日を送る。
曽我の里では養父祐信、祐信の先妻の子で嫡子祐綱がいるから出る幕がないということかもしれないが、手伝うという発想はない。それどころか、街道筋を見張るという名目で女遊びだ。曽我物語は十郎祐成と大磯の虎の愛情物語を謳い上げるが、若くて美人の遊女を独占するにはどれほどの金が掛かることか。酒もよく飲んでいる。
兄弟は和歌も詠み、それなりの教養を身に着けている。討ち入りの場での曽我の十人斬りでも明らかな武芸の達者。弟は箱根で稚児をしていた時代に教育を受けたのかもしれないが、それにしても、養父の薫陶があってのことと思われる。仇討に酔い、恩返しは知らないようだ。
弟箱王は箱根権現に寺入りする。稚児として上がり行く行く僧になるはずであったが、勝手に飛び出して元服した。
その烏帽子親が振るっている。北条時政なのだ。兄が弟を連れて行く。兄は北条館へ入り浸っていたようだ。時政は弟に時の字を与え、息子義時が四郎だからと五郎時致と名づけるのだ。烏帽子親というからには、引き出物・金子も渡したろう。この時政の肩入れは尋常ではない。十郎の大磯遊びのスポンサー候補だ。
ウイキペディア「工藤祐経」の項には
【『吾妻鏡』における祐経初見の記事は、元暦元年(1184年)4月の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は重盛の家人であった時に、いつも重衡を見ていた事から重衡に同情を寄せていたという。同年6月に一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年8月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。文治2年(1186年)4月に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした[注釈 2]。建久3年(1192年)7月、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。】 とある。
つまり祐経は武者というより、格式ばった席で恥をかかない家来として頼朝に仕えていたようだ。
平家物語では、平重衡が鎌倉に連れてこられた場面では千手の前という女性が出てきて重衡のモテ話となっている。
頼朝は京下りの者を官僚として大江広元・中原仲業等を重用している。彼らは例えば「男衾三郎絵詞」に見られるような日々武芸を磨き、馬や武具の手入れに余念ない東国の武士の暮らしとは全く違った生活を持っていた。
東国の武士たちにしてみれば、全くの京者たちには我慢ができたかもしれない。しかし工藤祐経は伊豆の者である。同質であるはずの中の異質さ、ここに北条時政・三浦義盛・畠山重忠などの祐経に対する反感の根源があったのではないか。
加えていえば、祐経による祐泰暗殺の手口はどうも陰湿である。狙撃犯を雇い、狩りだ、相撲だとは思わないが、所用あって出かけた通り道を狙って襲撃した。敵役の資格はある。
曽我物語では、敵討ち当日、三浦や畠山は兄弟の祐経襲撃の計画を察しており、更に尻押しするような言動がある。騒ぎが起こっても静観を決め込む。実は大変な出来事であったこの事件の手引きをしたと取られても仕方のない言動なのだが、彼らに御咎めはなかった。
この事件は将に鎌倉殿が征夷大将軍となり、坂東の武者政権を確立したと言われる建久3(1192)年の翌年、武威を諸方に示すべく行われた巻狩り最終日の出来事である。頼朝嫡男頼家が鹿を初めて狩り、新田忠常が猪に飛び乗り退治した話あり、大団円となるはずだった。
しかしテロリスト2名が潜り込み、鎌倉殿寵臣を暗殺、おとなしく引き上げるどころか、名乗りを上げ、取り押さえようとした名立たる御家人衆はたった二人の侵入者に振り回され、漸く一人は討ち取るものの、頼朝の宿舎に逃げ込むものまでいて、テロリストに頼朝の宿舎まで入り込まれる始末だ。鎌倉へは頼朝が殺された、などと云う誤報が届くという大混乱ぶりだ。これでは征夷大将軍の威勢もあったものではない。将に頼朝の顔に泥が塗られたのである。
捕らえられた曽我五郎時致は仲介を排し、頼朝の直の尋問に答える。五郎の率直かつ堂々とした態度に打たれ、頼朝は五郎を許そうとまで思ったが、工藤祐経遺児の懇願と仇討の連鎖となるのはまずいという梶原景時の言葉を受け殺した、となっているが、とても額面通りには受け取れない。
五郎が頼朝への遺恨として、敵の祐経を寵愛して使ったこと、祖父の伊東祐親が殺されたこと、を上げている。
同心者は兄弟の他いない、と言っている。
昔からこの事件は単なる仇討ではなく、頼朝を狙ったクーデター、或いは御家人間の衝突であったという説は多いらしい。
クーデター未遂の場合、真っ先に疑われるのは北条時政、ついで兄弟の支援者、三浦・畠山・土肥あたりだろうが、彼らは処罰を受けていない。疑いがあったなら、あの頼朝が許すはずは・・と思ってしまう。単に兄弟に同情しただけと解されたのだろうか。
御家人同士の衝突説だと、巻狩りの後、大庭景義・岡崎義実が相次いで出家し鎌倉を追われているらしい。大庭氏はほとんどが平家方なのだが、景義のみは頼朝方だったらしい。岡崎義実は三浦義明の甥に当る。石橋山で戦死した佐奈田与一の父である。ただ彼らと曽我兄弟がどう絡むかわからない。
更に範頼と常陸の御家人が結んでのクーデターとの説もある。この説は、事件後範頼が殺され、常陸の八田氏が誅せられたことから逆に出てきた説ではないのか。常陸の佐竹は義経追討の事寄せ奥州を征伐した頼朝にとって長年の誅すべき相手であり、義経征伐を断った範頼はいつか殺すべき相手として頼朝の脳裏にあったかもしれない。
曽我五郎は頼朝の堀親家という御家人を追って頼朝宿所へ入った。逃げるにあたって主君のところへ、というのはありえないことであり、それ自体スキャンダルだ.。
何が何だかわからないが、取敢えず、何があったにせよ、曽我兄弟の仇討、ということで事を収めた鎌倉殿の手腕なのだった。
平家物語では、頼朝の平重衡への言葉として「父の恥をきよめんと思ひ立ちしうへは云々」とある。父義朝の敵討ちを意図した挙兵、と読める言葉である。彼は敵討ちを全面否定できないのである。
養子がしでかした騒動に恐れ戦いたに違いない曽我祐信だが、曽我の里は安堵され、租税も免除、兄弟の菩提を弔うように、と言われたのだった。
曽我兄弟祖父祐親に関して嫌な話がある。祐親の娘八重姫が頼朝の子を産む。しかし祐親は平家を憚り、子を殺し、娘を他家に出し、更に頼朝を殺そうとしたというのだ。
伊東市の曽我祐親の墓の案内板には「伊東祐親は流罪にされた頼朝を伊東で預かるが、自分の娘との間に生まれた頼朝の一子を平家への忠義のために殺害してしまう悲劇的な人物である。」とある。伊東市教育委員会公認と言える御説なのだが、どうなのだろうか。
まず、伊豆の国市韮山の蛭が小島が頼朝の配流地であった場合、伊東館があったという伊東市物見台公園までの直線距離は16-17kmである。しかし山越え、事実上倍の距離が見込まれるだろう。まず娘は夜な夜な通えない。江戸時代の一日の旅程は8里、約32kmだし、頼朝が馬を使えば一応可能だとしておこうか。しかしどうやって知り合うのだ?
蛭が小島が流刑地だというのは後世の比定らしい。配流地は伊豆としかないらしい。伊豆最大の平家方豪族伊藤祐親が監視役を引きうけるのは不自然ではない。その場合、自分の本拠地伊東に住まわすだろう。娘と知り合うチャンスはある。
しかし、祐親が3年の京都大番役を済ませて帰ってきたら3歳の若君がいた、というのはどうも。数え年なのだろうから、祐親が京都に出かけた直後、仲良くなって子供ができ・・ということなら一応つじつまは合うが、その間、京都と伊東の間で通信はなかったものか。祐親の他の娘たちの婚家は北条・三浦・土肥である。娘は合従連衡の大事な手駒だ。勝手な恋愛は許されない。この場合むしろ祐親の積極的仲介が想像されてしまう。頼朝は流人であるとともに貴種でもある。祐親の打った手の一つだったかもしれない。
祐親次男祐清の妻は比企の尼の娘、その縁で祐清は頼朝の援助をしていた。息子の援助は黙認し、孫を殺すほど平家を憚るというのは矛盾だろう。
頼朝も伊豆で青年期を過ごす。祐親の娘かどうかはともかく当然女はいただろう。しかし、孫殺しの話はそもそも無理があるように思える。
頼朝が政子と結ばれ北条の婿となったのは明らかであり、祐親が頼朝を殺そうとした話は「うわなりうち」だったという説もあるようだ。うわなりうちとは先妻が後妻を襲う、というものらしいが、よくわからない。
頼朝は伊藤祐親にわたくしの意趣がある。と云ったそうで、何らかの因縁を感じさせるが、別に女や子供の事を考えなくても、祐親の言動に流人の頼朝のプライドを傷つけるものがあり、その事を言ったと解することも可能だと思う。
頼朝の挙兵後、伊藤祐親は平家方として頼朝の征伐に動き、北条は頼朝をバックアップする。平家物語では、大庭景親からの飛脚で、頼朝の挙兵が平家に知られるが、大番役で京にいた畠山重忠の父の重能はどうせ北条以外同心すまい、と言っている。
蛭が小島と北条の里とは直線距離2kmを切るからいいのだが、頼朝が伊東にいたとすると今度は政子とどうやって知り合ったのだ、ということになってしまう。どこかの時点で頼朝は伊東を抜け出し、北条方へ行ったと思われるが、不明である。頼朝と政子の第一子大姫は治承2年(1178年)の誕生となっているからその1年ほど前となるのだろうが。治承4年の頼朝挙兵時にはこの婚姻は東国に知れ渡っていたと思われる。
さて、子殺しの話であるが、子供千鶴丸は柴漬けにされたという。簀巻きにされて水に放り込まれたとある。
平家物語の壇ノ浦の後、源氏による平家残党探索で、子供が殺されていく場面がある。第12巻六代だが「むげにおさなきをば水に入れ、土にうづめ、少しおとなしきをば押し殺し、刺し殺す。母の悲しみ、乳母がなげき、たとへんかたぞなかりける」
よく言われるのは、清盛は頼朝・義経らを殺さずに失敗した。頼朝が自分が同じ目に合わないように平家の子らを殺したということなのだが。しかし、本当に広範囲に行われたことなのか?なかったこととは思わない。しかし片っ端から行われたこととも思われない。
宗盛の子が殺されたのはほぼ確実だが、重盛の孫、維盛の子の六代は 文覚の口添えがあったとはいえ当座許されているのだ。
重衡も自分は子供がいないからかえって憂いがない、などと云っているが、いないのは正妻との間だけだったらしく、さすがモテ男、子供はいた。出家し箱根山で僧侶になっている。平家公達の子であっても出家を条件に許された例が多いのではないか。
幼児が殺されるのはよくよくの事ではなかろうか。
伊東祐親の場合は、まして自分の孫でもあるのだ。頼朝との確執をドラマティックに書き立てる物語だろうと思われる。
最終日だ、場合によってはもう一日伸ばしてもいいかと思っていたが、帰る。
修善寺道路というのは相変わらずよくわからない。道の駅へ入りたかったが、近くへ行っても入口が分からずうろうろしてやめる。
三島を通り東名に乗る。由比PAで振り返れば富士山がある。
磐田インターで降りる。行興寺という寺だが熊野の旧跡がある。熊野は「ゆや」と読む。
平家物語第10巻 海道下 平重衡は一の谷の合戦で、乳母子に替え馬ごと逃げられ、源氏に捕らえられてしまう。梶原景時に連れられて鎌倉まで下向する。その道行が海道下である。「池田の宿にもつきたまひぬ。かの宿の長者、ゆやがむすめ、侍従がもとへその夜は宿せられけり。」池田の宿の遊女の長ともいうべき女が重衡に歌をよこす。どんな女人か?と梶原に聞く。梶原は宗盛の愛人だった人で海道一の歌詠み、と答える。
さて この重衡、子供のいないのが却って幸い、みたいな事を言うのだが、重衡の子供が箱根の僧になっているらしい。子のない嘆きは正妻にいない、というだけの事だったのだろうか。
範頼もこの辺りで生まれているはずだ。
熊野の長藤は花咲揃ったらどんなだろうと思わず思う大きな藤だ。それが何本もある。
池田の宿は天竜川の渡しの宿だ。資料館もあったのだが正月で休みだった。
浜松ICで東名に戻り帰る。