平家物語第7巻「清水冠者」 寿永2年3月、頼朝との関係が悪くなった義仲は嫡子義重を鎌倉に行かせる。頼朝の娘大姫の婿としてだが、実際上の人質だ。この少年に海野や望月の少年たちが付き従う。
この時、義仲は依田の城にいた。頼朝が木曾追討として信濃に発向、それを知った義仲は依田を出て、越後国境まで北上する。頼朝は善光寺に入る。
どうしても首をかしげてしまう。依田にあって、周りには義仲与党が滋野氏の武者がひしめく。その中で義仲は何故逃げ出したのだろう。そうしてやすやすと頼朝を善光寺まで行かせたのだろう。白鳥河原で勢揃いした連中はどうしたのか。義仲と一緒に北へ行ったのか。本当に頼朝は善光寺まで来たのか?ともかく頼朝と手打ちをし、向後の憂いなく北陸路の戦いに赴くのはいい。ただどうも釈然としないのだ。
丸子郷土博物館の史料から
岩波ワイド文庫版「平家物語」では依田・丸子は探せなかった。「木曽殿の家の子」と名乗る長瀬判官代重綱は宇治川の合戦に畠山重忠と組合い、壮絶な最期を遂げる。
依田城入口
山の麓の岩屋観音には義仲ゆかりの伝承がおおい。
義仲のみならず、悪七兵衛景清までいたのには驚いた。
川は千曲川の支流の依田川