飛鳥寺
門前に着いた時間が早かった。まだ開いていない。待ってもよかったが、駐車場わきの住職が書いた案内板を読むうち嫌になった。飛鳥大仏は見たかったのだが。
飛鳥寺の西側、甘樫丘が見える位置の畑地の中に蘇我入鹿の首塚がある。
五輪塔で少なくとも飛鳥時代に遡るものではないのは明らかだが、そう伝承されているらしい。
入鹿もまた、中大兄・中臣鎌足たちと共に唐への留学生僧旻に学んだ。旻は入鹿を一番秀でた弟子と認めていたという。
飛鳥寺からわずか600mほど南下すると(真直ぐ行ける道がないので迂回するが)飛鳥板葺きの宮跡がある。
こここそが入鹿の終焉の地、乙巳の変(大化の改新)、入鹿暗殺事件の現場なのだ。
飛鳥板葺宮跡となって入るが飛鳥浄御原宮でもある。同じところに遺構が重なってあるのだ。
この板葺きの宮は、川原寺の写経室から見えるという。
川原寺跡
川原寺も大きな伽藍を持つ大寺だったのだろうが、今は平安期に復興され弘法大師の伝承を持つ弘福寺(ぐふくじ)という小寺に過ぎない。しかし、境内に飛鳥時代の川原寺の礎石を持つ。めのうの礎石と称するが、これは大理石である。この礎石は、天智が、滋賀の石山寺付近から運んだと伝えられているらしい。藤原京の資料館で藤原京造営の木材が滋賀県から主に水運を利用し、運ばれていたという展示があった。同じようなルートで運ばれてきたのだろうか。
図のように川原寺の南に橘寺がある。
(古寺巡礼http://www9.plala.or.jp/kinomuku/index.htmlから)
川原寺から見た橘寺
厩戸皇子(聖徳太子)の誕生地と伝えられる橘寺
案内板によれば玉虫厨子もここにあったという。
橘寺から岡寺へ。
飛鳥川を渡る。
歩けばそれなりの距離があった。というよりこんな山だったなんて・・・
岡寺参道入口ともいうべき鳥居まではくればあと少しと思うではないか、ところがそこから登る、登る。
坂の途中の岡本寺
岡寺三重塔
草壁皇子がいた所というのを期待したが、何もなかった。ここまで高いところに宮があったとも思えない。
創建時の岡寺は現岡寺隣の治田神社境内だったと云う。
高さは同じだ。