養老孟司がかつて押井守と対談をした時に「現実」と言う概念がテーマになったとき、彼はポパーの世界1、世界2そして世界3という話をした。その内容があまりにも斬新だったので、ポパーのその本が読みたくなって図書館へ行き検索したら本書がヒットして借りてきた。
なんと、この本のメインは非決定論の擁護というもので、世界1〜3の話は本書の付録であったことに驚いた。
要約すると世界123の数字の順序は、それが現れた時期の順であり1ほど古く3ほど新しい。
世界1はいわゆる岩石や樹木や物理的力の場といった世界で、化学や生物の世界も含まれる。
世界2は心理にかかわる世界で、人間の心や動物の心についての研究者によって研究されている。それは、不安や希望といった感情の世界、行為に向かう性向の世界、また深層意識的な無意識的な経験も含めた、あらゆる主観的な経験の世界。
世界3は人間精神の産物の世界である。芸術作品、倫理的価値、社会的諸制度、科学図書の世界、つまり書物、科学的問題、そした誤った理論も含めてだが、理論など。
ここで1の世界は認めても良いが、2と3は世界とは言わない、とか、3は2に含まれる概念じゃないのか?などという疑問はここでは触れない。触れると本をそのまま抜粋することになるし話が長くなる。
ポパーはその3つの世界は相互作用すると言う。2は頭の中の思考だが、それを文字や数字といった記号として記録された時、あるいは文字として整理されて分類された時に生まれるものを3といっているようだ。
例えば2の思考は、言葉を全く発せずとも自分の主観的な考えで世界を構築できるが、一度文字として記録すると、第三者に参照可能なものになる。つまり世界3と相互作用してしまう。その「相互作用」と言う言葉は、「その文面を用いて他人と議論が起こる」と言い換えてもいい。
また、記録したものは、そこから新たなものを生み出すということがある。例えば数字というものを頭の中で考えてたとして(世界2)、それを紙に記録したとする。そしてその数字をみた私が、あるいは他人が、その数字を奇数と偶数の2種類に分化・分類したとしよう。この時「奇数」「偶数」というものは発明されたことになり、生まれたといって良い。ポパーのいう世界3とは、こういったものらしい。なので倫理的価値、社会制度、芸術作品などがこれにあたるわけだ。
今までの私の常識では、世界1と世界2という区別はなんとなく自然に受け入れられた。世界は二元論として認識されてはいたが、この世界3のポパーの解釈は斬新だった。これを世界2から分けて世界3としたのが画期的であるといっても良い。
そして世界3は、いわゆる「理論」というものだが、この理論を使って製品を作り出したとすると、それは「理論」ではなく「科学技術」と名前がかわり、科学技術で生み出された製品は、例えば車などは、世界1のモノとなってしまうのだ。(世界2によって構造的に明らかにされた世界3の理論を用いて製品を作ったら、その製品はモノなので世界1に相互作用をしたわけである)
この話が面白いのは、理論を利用して製品化されたものは科学(技術)といい、感性を利用して製品化されたものは芸術と名前を変える。細かくいえば、科学技術の製品にも感性を反映させた遊びがあるし(車のデザイン等)、芸術にも理論を反映させた遊びもある(音楽理論等)ので、科学や芸術が製品化された時にかならずしも理論と感性に完全に寄っているわけではないということである。
我々は言葉によって一律に概念を区切るということをやっているが、当初は便宜的に区切っていたものが、後になると全然別のものと当然のように認識してしまうという誤りを犯すことがある。科学と芸術は、今やかなり真逆なものとして捉えられているのではないか?
話が逸れた。
世界2から世界3が生み出されるということについて、考えてみよう。
世界3の理論が「正しいか」どうかを判定する時、我々がよく用いるのは観察や自然界での振る舞いが、その理論と合致するかである。ガリレオがピサの斜塔から異なる重さの鉄球を落とした実験はまさにこれであろう。つまり世界3の理論は、世界1の物理的な世界において一致するのか観測をするわけである。
つまり、最初に世界2の主観的思惟または直感などの感覚から、言語化文字化記号化されたものを、よくよくさらに読み解いていくと、先程の奇数偶数ではないが、何かしらの新たな理屈や原理めいたものが発明されてくる。そして、まさにこの思惟を通じて理論化する過程というのは、実は脳の構造を無意識のうちに外界の世界に作っているという行為ではないだろうか?
人間がコンピュータを作っていたら、実はその構造とほとんどそっくりなものが、脳の大脳新皮質の機能にあった、というような事をここでは言っている。これはべつにコンピュータに限ったことではなく、宗教における二元論だって、脳の構造が二元論に傾くという機能を一部には持っているという証左なのだろう。カーナビの真ん中に矢印があるという、カーナビの構造も、我々人間が空間認識をするときに、脳の機能、あるいは構造において、地図と矢印のようなものが、内部的に備わっているのだろう。それを人間が外界に便利な物として発明するとき、それは自分の脳の内部構造を外界に別の素材で作っていると言うことができるのだ。
構造主義という思想があるが、今になって私はその意味の一端を新たに発見した気分である。
勉強においてインプットとアウトプットという言葉がある。私は歴史が好きだから歴史の本を読むとか動画を見るというインプットはよくやってはいるが、じつはこれだと知らなかった事についてはされなりに知ることはできるが、理論として新しいことに気づくということは殆どない。
経験的にそれらの気づきというのは、アウトプットの中から生まれていたような気は確かにしていた。
教科書に年表があったが、あの年表は編者が整理した年表であり、私が整理したものではない。そこで私は自分なりの(ヘタな)整理によって独自の年表を作ったことがある。つまりアウトプットしたわけだ。もしくは、世界2の思惟を紙に記号化することによって、その記号化したものをさらに掘り下げていくと、なにか一つの流れや法則や順序めいたものがみえてこないか?という、上に書いた「理論の発明」と同じプロセスをやっていたことに、本書を読んでいて気づいた訳である。
つまり、アウトプットなる言葉は、別の言葉を使うなら、世界2から世界3を発明するという行為とレベルの差こそはあれほぼ同義であるということだ。そしてそのアウトプットなる言葉は同時に、自分の脳の構造の一部分を外界に作り出しているという事でもある。
こうなると、インプットとアウトプットが意味するものが、一段階深いものとして再認識することができる。
歴史をより知りたいのであれば、世界2を磨かねばならぬ。それは主観的な心を含んだ深層意識的なるものも含んだ経験と知によるものの「磨き」である。
それは単なる歴史資料や歴史の本という情報を読むだけにとどまらず、人間の心をしるとか、その歴史のあった現地に行く経験であるとか、不安や希望といった人間の感覚などの経験を通じた重層的な理解などが「磨き」にあたる。これをインプットという。
それら絶え間ない磨きともともとの脳の構造から我々を突き動かすナニカの力によって、我々は文字化された「まとめられた(年表にあたるような)モノ」から新たな理論を発見、あるいは発明する。
奇数と偶数という分類法はそれは素晴らしい。天才的分類と言わざるを得ない。わたしにはとてもそういう洗練された分類はできないが(だからアウトプットよる成果はいつも先達の轍がある発見であり、発明とにはならないわけだが)、こういう分類の工夫などをすれば、すくなくとも今よりかは歴史の智に対してさらなる前進を加速するための貢献になるだろう。◯◯時代という区分を考えた人は凄い人だが、自分なりの分類によって、自分の気づかなかったことを発見できるような気になったことは確かである。
ポパーは凄い。これがなんと付録なのだ。ちなみに本文である非決定論の擁護については、難解すぎて読む気にはなれなかったということを付言しておく。