Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

総裁選とやら

2021年09月05日 02時44分00秒 | 政治 経済
菅首相続投の話から、二階切りに動き、そしてあれよあれよという間に菅の総裁選不出馬となり、自民党内では(総裁選の)流れが変わったと言い、不出馬を表明した下村も出馬を再検討すると言い出す始末になる。
さて、出馬を目されている人を挙げれば、岸田、石破、河野、高市あたりである。
河野と高市には麻生派と安倍が推しているようで、石破は石原が、岸田はなんだろう?まあいろいろ派閥による画策が進んでいるようである。
政策的には高市が政策の抜本見直しを主張。これはかつての安倍が二回目の総理になる前に主張したことをさらに踏み込んだ内容のものである。後の三人の政策はよくわからない。
さて、派閥や議員の言う「流れが変わった」と熱く語るほど、国民はおそらく期待してはいないだろう。かつてであれば、高市早苗はいい線行ったかもしれないが、どうせ安倍のように首相になるまえとなった後では言うこととやる事はバラバラになるであろうことは容易に想像できる。
というのは、この人の政策の言葉は軽いからである。重みと決意を感じない。つまりは未だこんな危機感しか自民党はないのだ。
二階を下ろしたというが、どこまで信用して良いものだろうか?
政治家の言う事ややることは、今や与党も野党も一切信用できない。彼らの考えることは、二階を切る演出をしたら国民の支持が上がるとでもたかをくくっているのだろう。菅のあんなパフォーマンスが本当だとはとてもじゃないが思えない。

だが、ネットの反応は少しだけ変化しているようにも感じる。すなわち高市待望論である。

私の感想としては、また国民は自民に騙されるのか、である。
今の状況は全く変わっていない。先行しているのは行動ではなくて、言葉だけである。自民党は変えます、という言葉だけ。口先で政権を獲得し口先で政権を失う、というのはかつての民主党だったが、いまや自民もそれとかわりない。
何かが変わったと錯覚しているとすれば、それは国民が乗せられているだけである。二階を切った。状況はいい方に流れている、、、、と。なんとナイーブな感性なのだろう。

政治家がかわるとすれば、自信が落選するか、徹底的に敗北して下野して冷や飯をくうことである。
代わりの政党がない、と言う言葉はよく聞くし、そうだと思うが、それだからこそ自民をのさばらせた。民主党に政権を奪われた時も、ろくに反省をしなかったのだこの党は。

ならば今度も下ろしてやれば良い。泡沫政党にでも入れれば、票が割れるだろう。誰も勝てない状況で連立を組むことが求められるだろう。それなら民主のようなアホなこともできないし、仮に自民がそこそこの票をとっても過半数に届かないのであるから、政権運営は苦労するだろう。

苦労するがいい。何しろ向いている方が違うんだから。国民の方を向かずに政局と自らに対するリベートをこの事態になっている今ですらやる議員などになんで過半数をやれるのか。




コロナ下のオリンピックに思うこと。

2021年07月22日 22時18分00秒 | 世間話
私は先の戦争中には生まれていないけれども、昨今のコロナ自粛の雰囲気を体感して、少し戦争中のとこがわかったような気がする。

日本は、我慢をする文化があると言っても良い。そして、私も彼も我慢しているんだから、あなたも我慢しなければならない。という全日本我慢選手権大会を半ば強いられる社会がそこにはある。

コロナだから自粛を。県をまたいで移動してはいけません。マスクを必ず着用。出かけないで。緊急事態宣言につき。ワクチンを!

これって、欲しがりません勝つまでは、と何が違うんだろうか。

共通しているのは、こういう状況で個人的な動きをすると、直ちにワガママだと批判されることである。
しかもコロナ自粛はもうまる2年の我慢を強いられているので、国民はピリピリしている。そのストレスは他人に向けられることになる。
  海開きで、他県の人(東京)が遊びにきているのをニュースでやってるのを見たが、あれも叩かれるのだろう。オリンピックの強行も叩かれる。バッハの発言も叩かれるし、小山田の過去のいじめ問題でも徹底的に叩かれる。しまいにはニュースキャスターが叩かれるのを恐れて、じぶんの幼少の頃のいじめのような経験を自ら暴露してしまう。西村の銀行に圧力をかけてもらう発言も叩かれ、ウガンダの選手が勝手に選手村を抜け出して難民申請するのも叩かれ、選手団がナンタラ式とかいう選手村からでないルールを破って国民と接触する行動も叩かれる。ワクチンを撃たない人間も叩かれる。

世界ではLGBTに異論があるハンガリーがEUに叩かれ、人種差別だのなんだので叩き続ける。

郷に入れば郷に従えという言葉があるが、バッハや選手団には通用しなかった。彼らは日本的社会をきちんと理解していたのならば、バッハは迎賓館で宴を催すことは空気を読んで事前に辞退しただろうし、選手団も選手村からは一歩も出ないだろう。

彼らには、欲しがりません勝つまでは、というスローガンは理解不能なのだろう。

そして我が国民は、戦争中のこのスローガンをコロナ下においても同様に全国民に強いている。

東日本大震災のときは、これを「絆」という言葉で表現したし、かつては「村八分」という言葉で表していた。そして今日「欲しがりません勝つまでは」というのが新たに付け加えられた。

良い悪いではなく、我々の国民性はこのようなところにあるということを知っておかねばなるまい。

俺たちは我慢をしているんだから、お前を我慢をしなければならない、という無言の空気や圧はこの国ではとてつもなくでかい。それが「世間」とか「世間体」「常識」と言われているものだ。

それから外れたものは、我々は徹底的につまはじきにするという癖があることを知っておく必要はある。

憲法改正、LGBT、差別問題、さまざまなことが声高に叫ばれているが、この世間というものの息苦しさについて問題視し、声高に改正を叫び運動をするものは、我が国にはほとんどいない。



ワクチン接種と反ワクチン

2021年07月09日 09時58分08秒 | 歴史

医師の主張は、統計的なデータと死亡率によって、ワクチン接種による副作用のリスクよりも未接種によるウイルス感染死亡のほうが割合が高いから、ワクチンは打つべきだというものである。この他にも、集団でワクチンを一斉に打ち、できる限り他人にウイルスを感染させないという行動が重要とも説く。
これを世間では「ワクチン派」と括っている。

一方ワクチンによる副作用や副作用による死亡を恐れ、ワクチン接収を見合わせるあるいは接種をしないと決めた人々もいる。
これを世間では「反ワクチン派」と括っている。

ネットではワクチン派と反ワクチン派の対立が顕著にあらわれているが、この現象はいったい何なのかを考えてみる。

①「ワクチン派」「反ワクチン派」で一括りにすることについて

括る(くくる)というのは、さまざままもの、バラバラなものを一つにまとめるという意味である。つまり人の意見は十人十色でバラバラ。このままでは主張があいまいに過ぎるので、(乱暴だが)一つにまとめるという便宜である。つまり都合の良い思考の省略である。
言葉というのは、あるものを括ったり、一線を引いたり、区分けしたりして、別々に分類しようとする性質がある。これは都合の良いこともあるが、都合の悪いことも当然ある。


②人間は自分を依怙贔屓してみる癖がある

自分のツバは汚くないが、一旦外に出したツバは汚く感じる。理屈では滅菌してたら汚くないことになるが、それでも汚く感じる。人間には理屈では割り切れない感情・好き嫌いというものが存在する。それで自分の行動を変えちゃうのである。理屈とは違った行動に走るということである。


③ワクチン派は主に臨床データ・統計を根拠あるいは理屈にして主張している。反ワクチン派は理屈はあるけれど、感情または好き嫌いで打たないと主張していることについて

こういう論調はすぐに「こっちは正しい」「あっちは間違っている」という方向に議論が行きがちだ。良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。忘れてしまうから「こっちは正しい」というような「基準」があたかも存在するかのような認識になってしまう。ある人が意見を言うとき、その人の中でどのくらいの割合で理屈と感情を織り交ぜて主張しているのだろうか。これはグラデーションのように境目は本来は存在しない。その時々の適度な理屈と適度な感情を織り交ぜて意見をだしている。


さて、ワクチン派と反ワクチン派の闘争?だが、彼らはいったい何と戦っているのだろうか?
たぶん良し悪しなのだろう。人間は理屈と感情というものを持っているということを忘れてはいないだろうか?
理屈と感情をあわせもっているということを前提として考えてみると、反ワクチンの感情と、そしてワクチン派の感情は何を主張したいのかを考えてみる。

まず。反ワクチン派の人が思っていることは、医師に対してまたは臨床的なデータや統計の結論に対して不信感を持っているということだろう。副作用とは現在までに確認されている副作用であり、未だ認知されていない潜在的あるいは長期的に作用する副作用について明らかにされていない。しかし言葉は、一括りにするので、現在における副作用は何%。死亡率は何%。感染率は何%と区切る。区切らないと分析ができないので当然だが、分析から落っことしたモノがたしかにそこにはある。未だ確認されてない副作用、これが落っことされている。それがどの程度あるのかは知らない。しかし医師やデータ・統計に関する不信感が、統計リスクを無視しても「打たない」と主張するほどに、不信感があると考えた方が、この騒動に説明がつくのではないか?

一方で、ワクチン派の思っていることは、なんで曖昧な感覚に依存して
「打たない」という行動にでるのか。バカなんじゃないか?と感情的に思っていることだろう。先ほども書いた通り、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物であるのだが、理屈に傾いた人は感情を軽視したり、感情が理解できなくなったりすることがある。その理解できないことも本当は理屈で考え抜いて結論を出さなければならないのだろうが、人間は理屈と感情を併せ持つ生き物なので、おもわず「バカなんじゃないか?」という感情的な結論をだしてしまうわけだ。

つまり、「良い悪いではなく、人間は理屈と感情の両方を持っているということは知っておかねばならない。」というこのことを両方とも忘れいてるのである。




陰謀論2

2021年06月06日 11時38分00秒 | 世間話
最近やたら陰謀論という言葉を目にする。
結論から先にいうと、人々が組織(国、メディアなど)からもたらされる情報について信じなくなってきたのだろう。理由は至極簡単である。そいつらはウソをつくという事が分かってきたから。

この事に目をつぶって、枝葉末節の議論をしても仕方ない。

さて陰謀論についてだが、事例には事欠かない。2001年世界貿易センタービルテロ事件。日航機123便墜落事故。ナチスのガス室など。

陰謀があったとする議論も、陰謀など荒唐無稽だとする議論も、第三者から見ると極端に見えるのには多分意味がある。これは上から目線で言っているのではない。冒頭に書いたように、「人々が組織からもたらされる情報に不信感を持っている」場合、情報をもたらす組織側と、もたらされる受け手との間に、ひとつの極端な傾向が現れるものである。それは、

自己正当化と利用されてなるものかという不信との間の対立である。

これは善意の自己正当化も含むし悪意も含む。同時に善意の不信と悪意の不信も含む。なにを善悪と定義するかはおいておく。
組織の自己正当化とは、あるいみ弁明であり、ある意味プロパガンダである。「陰謀論など荒唐無稽だ」と強く主張する背景としては、そんな作り話で我々組織が貶められてたまるか、という憤りの弁明である側面があることは認める。これを善意の正当化と呼ぶことにする。しかしながら組織は自己正当化をきらびやかに印象づけるために誇張した弁明を時に行う。それは弁明を聞いた側が、その物語を強烈に印象づけられるという目的の為だ。これは少々厄介な問題である。善意であれ悪意であれ、物語は注目されるために誇張される傾向がある。その効果を我々はプロパガンダと呼んでいるのだが、プロパガンダはなにも組織側だけにあるのではない。
陰謀論を唱える側が、しばしば「全部なかった」とか「一件もなかった」という主張をすることがある。揚げ足を取られることもしばしばあるこの主張だが、唱える側はそれもある程度は承知でやっているのかもしれない。
例えばある人が不当に貶められたとする。懲役1年の罪がそれこそ死刑に値する罪であると貶められたとする。冤罪ではなく、罪の軽重の問題だ。この者はどのように主張し戦うのだろうか?
①わたしは本来は懲役1年です!
②わたしは無実です!
という二つの戦い方があるが、一般に裁判という形式を取る場合、ほぼ全てが②の形式で戦うことになるだろう。
それは前述した「全部なかった」という陰謀論側の主張と構造的にはかわらないものである。これと似た構造は、交渉においても現れる。
いくらで売る?いくらで買う?
売り手「70万で売る」(落とし所は50だろうな)
買い手「30万でしか買えない」(落とし所は50くらだろうな)
いわゆる駆け引きである。

陰謀論側は、不当に貶められた認定された事実の汚名をそそぐために、可能な限りの減刑の論理を展開する。だから「全部なかった」という展開になりがち。

陰謀していることを疑われた組織側は、不当に貶められた疑惑をそそぐために、可能な限り相手の論理の荒唐無稽さを印象付ける論理を展開する。だから「無知の戯言」という展開になりがち。

言論に駆け引きが行われているのであるが、駆け引きが存在する理由は冒頭にも書いた不信感である。

不信感は売買交渉の例の時に書いたように、利益に直結する不信感もあるし、主張の信念や学問的態度の一貫性がゆらぐという名誉に関わるものもある。

世界貿易センタービルのテロを米国政府は事前に知っており黙殺した、とする陰謀論は、まさに国に対する国民の不信が反映している。
国側は冤罪か、あるいは自国の軽犯罪が不当に重罪として喧伝されることへの強い弁明として「そんなことは『まったく』ない」と反論する。これは陰謀論者に対する不信が反映している。

不信がある社会において、
ごめんなさい、の次に来るものは「許さん、どうしてくれる」であり、「なら賠償だ」だからである。

テレビなどで、昨今「日本のここがすごい」とか「日本は遅れている、もうダメだ」という言説。某国が「慰安婦がどーの」などの喧伝に対する我が国の反論。
「ヘイトスピーチだ」に対する、それは差別じゃない、酷いことをしてるから白い目で見られるのは当たり前とか。これらの枝葉末節な議論に通底することは、

他者に対する不信感。

不信感を不当に煽る勢力もあれば、過去からの不信の積み重ねで信用を失った勢力もいる。そのどちらも持っている勢力もいる。別に勢力で区切らずに、個人においてもおなじであろう。

契約書が分厚くなるのも、条約の文言に解釈の余地を大きく残すのも、約束に公正証書をまくのも、裁判が三審制であるのも、憲法が存在するのも、たぶん不信の成せる技なのだろう。

キリスト教は神を信じることと愛を説く。神にしてもひたすらの盲信を説き、不信は許されない。人々に不信を許さない教義をあえて人が作った理由は、これが争いを生むと思ったからなのか?
そして、その不信を利用して教団の利益に誘導した勢力が、結果として平和につながる方便を破壊したという事実。
宗教が怖いのか?はたまた人間が怖いのか?





磨いてみた。

2021年06月02日 19時01分00秒 | 地質
これは何だ?


この右上の石を磨いてみたらこうなった。
ペグマタイトだと思っていたが、これは蛇紋岩なのか?だけど岩脈の白い部分がアスベストには見えない。ささくれ立った結晶が見当たらない。むしろこの白い岩脈は曹長石ではないのか?

わからない、石の判別は難しすぎる


ペグマタイト

2021年06月02日 02時13分00秒 | 地質
嶺岡山地で拾ってきた岩石を調べてみたら、どうやらペグマタイトであるらしい。ペグマタイトとは大きな結晶からなる火成岩の一種であるという。


これは普通角閃石のペグマタイトかもしれない。普通角閃石の特徴は細い海苔のような縦長の長方形の黒いやつだ。


こちらもペグマタイト。曹長石あるいは長石の比率が高く白い。黒いのは磁鉄鉱を含んだ鉱物かもしれない。やや花崗岩のように石英や長石が見られるが、黒い結晶が多い。普通角閃石と磁鉄鉱が混ざっているのか?


そう言えば、先日拾ったこれもペグマタイトと言える。黒雲母の結晶が大きい。

このようにペグマタイトの定義は極めて曖昧で、結晶が大きく育ったものを大雑把には指すので、いい加減な概念ではあるのだが、嶺岡山地は山体そのものがほとんどかんらん岩、あるいははんれい岩や玄武岩のような二酸化珪素の割合が低く、鉄やマグネシウムなどが比較的豊富な鉱石がおおく産出される。

まあ硬い。結晶と鉄の割合が大きいのでハンマーで叩いても容易に割れないし、岩石も重い。









嶋穴駅 上総国

2021年05月28日 14時15分00秒 | 歴史


古東海道の駅に嶋穴という場所がある。現に千葉県の市原市にある地名なのだが、ここはかつて上総国の古東海道の駅であった。この道は後の豊臣秀吉が北条征伐の後に房総に進軍した道としても使われている。
嶋穴の地が史料に現れるのは延喜式においてであり10世紀にはすでに存在していた。


市原市を南北に流れる養老川。古養老川は現在の位置よりも南側に流れており、嶋穴駅は川の右岸にあった。ここは海上潟とも呼ばれは天然の良港があったという。
『万葉集』巻十四の東歌の冒頭に、「夏麻引く(なつそひ) 海上潟の 沖つ渚(そ)に 船はとどむめ さ夜更けにけり
との歌があるのが根拠であるとされる。海上潟は、古養老川の河口近くに形成された潟湖と推測され、東京湾と古養老川を結ぶ水上交通の拠点となっており、水運に長じた海人が少なからず居住していたであろうとのことである。

現在の養老川を数キロ上ると海士有木(あまありき)という地名があるし、その付近を通る国道297号線は古代の道と重なる部分が多い。当然のこととして、この養老川の付近には律令時代の国分寺や国衙がおかれていた地域とも重なる。



島穴神社。かつての嶋穴駅はこの寺の最寄りであり




現在、駅と思しき場所には石碑が建立されている。この石碑は嘉永元年1848のもの。


先日の大雨で川の水が増水しており、道路スレスレまで水位がのぼってきている。この地はほぼ海抜0メートルであり、さらに前述したように古養老川はこのあたりに流れていたことを考えると、この地の水捌けは極めて悪く、川の流れは幾度となく変わってきたのだろうと思われる。


現在、島穴神社と嶋穴駅は線路によって左右に分断されてしまっている。写真の中央左の森が島穴神社であり、中央右にすこしある木々の場所が嶋穴駅と比定されている場所である。







麻生のバカ

2021年05月23日 02時00分00秒 | 世間話
1〜2分聴いたら嫌気がさした。
誰かこいつを黙らせて欲しいものである。自民党はもう一回下野したほうがいいんじゃないだろうか。

「義務教育は小学生まででよいのではないか?だれが微分積分や因数分解やサインコサンタンジェントなんか使う?」などと知性のかけらも無いことをよりにもよって政策を決めたり法律を作るものが軽々しく言うなんて。

どうせこういう浅はかな人の頭の中での「役に立つ」という言葉の意味は、働いて金を稼ぐ為に(役に立つ)とか、そういう意味だろう。

だとすると、およそ教養なんてものは役に立たない最たるものであろうし、学問においても地質学や植物学、言語学や歴史学、考古学や文学も役に立たない。

仕事をして金を稼いで税金を納めるだけのマシーンでも作りたいのか?このバカは。

そういう生活スタイルだけを求めるのにストレスがかかった世の中になってきたから、ゆとりをもった生活とか時間が自由になる働き方とか、カネよりも、自由や時間を欲する国民が多くなってきたのではないのか?
つまりは政治家の怠慢である。生きづらい社会をつくっておいて、それで良いとか言ってるだけにとどまらず、生きづらい社会をもっと加速させようとする言説を吐く。猛省を促したい。

物事を役に立つと役に立たないと分ける行為そのものが、人間を不自由にしていることを自覚していない。

役に立とうが立つまいが、人間が情熱を燃やせるものであれば、それが仮に経済に寄与しようがしなかろうが、その人間にとってはリアルな現実であり、リアルな充実である。
麻生や私自身が微分積分を使わなかったとしても、それに興味があるであろう人が存在しうる以上、その選択肢をいたずらを奪うのはよろしくない。
しかも麻生は、やりたいやつがやればいい、やりたくなければやらなくてもよい、とか教育を受ける者の自由意志を尊重しているようだ。そういうのはそもそも教育ではない。自分の意思に従い行う勉強というのは教育ではなく学びである。麻生は教育と学びをごっちゃにしているのだ。

しかも義務教育についての誤解もありそうだ。義務教育とは、親がこどもに教育を受けさせる義務がある、ということである。つまり子供の気づきの機会を親がいたずらに奪うなというものである。

  勉強を子供の判断に委ねるのであれば、「何で掛け算なんか学ばなきゃいけないんだ?」という大人になったら抱かないであろう疑問を、子供は未熟であるがゆえに抱いてしまう。このことをどのように考えているのだろうか。

  食べ物の好き嫌いをこどもの判断に委ねるのであれば、偏った食べ物しか食べなくなるリスクがある。色々な味の経験をした上で、それでも嫌いというのならともかく、未熟なものの判断に委ねるようないけんを垂れ流すこの男の言説は信用できない。

  別に微分積分だろうが、漢文だろうが、文学だろうが、ただの例に過ぎないんだろうが、学問に対する無理解と無知がそういう意見を垂れ流させるのだろう。
  こういう人間は、たとえばピカソの絵とか、芸術分野のような、自分の理解が及ばない事柄に対しても、臆面もなく意味がないとか、役に立たないとかいうのだろう。自分の知識不足や経験不足を「意味がない」と切り捨てていることとほぼ同義であり、自分の知らないことについて実は深遠なものがあるのではないか?というリスペクトが微塵もない。なんと傲慢なことか。

  あるいは教育というものを舐めている証左であろう。ここをこう変えれば、教育はもっと良くなるというように、単純に物事を考えているんだろう。まるで故障した箇所を直せば、機械は元通りに動くというように、、、単純に、、、。

 教育というのはどこまでも「押し付け」である以上、学びとは一線を画しているし、であるからこそ慎重に考えなければならないことだ。麻生のように軽々しく、こんなものはこうしたらいいんですよ、と軽薄に答えられる類のものではない。

  すると現代の人は、すぐ
じゃあどうすればいいんですか?

と問う。その問い自体も軽薄なのだ。
どうしたら社会は良くなりますか?とか
どうしたら戦争がなくなりますか?という問いも、みんな軽薄な質問なのである。
役に立つものはなんですか?という質問と同類なのである。
  世の中には言葉で説明してわかるという事柄は意外と範囲が狭いのである。「大人になればわかる」という言葉の意味するものは、そういうことだろう。字句どおりに成人すれば分かるということを指しているのではない。「子供の心を忘れてしまった大人」という言葉の意味するも同様だ。
だが人は言葉で説明すればわかると思い込んでいるフシがある。



千葉嶺岡山地の地質

2021年05月17日 18時52分00秒 | 地質

千葉県立中央区博物館を訪れた。
ここは地質に植物、動物など様々なものが展示されており、地質だけで2時間ほど費やした。まともに全部見ようと思うなら、1日がかりとなってしまう。
展示物を見て説明を読むだけでもそのくらい時間がかかるが、その情報を吟味して意味の一端を知るには、写真を家に持ち帰って調べた後になんとなく見えてくる。




千葉の房総には千葉の最高峰の愛宕山がある。この400メートルほどの山から東側一帯は嶺岡山地といい



古第三紀始新世(約4000万年前)及び、新第三紀の中新世(約2000万年前)あたりの地層が露頭している。
一般的に恐竜の時代は白亜紀までで(6600万年前)あり、古第三紀は暁新世の一部を除き恐竜は絶滅した時代である。つまり地質的にはやや新しい時代だ。

日本海の形成から日本列島の形成はおよそ新第三紀の中新世だといわれている(2000〜1500万年前あたり)

千葉県には残念ながら恐竜の化石はほぼ見つかっていない。見つかったとしても骨の一部くらいが銚子あたりで発見される程度である。すくなくとも露頭している地層では・・・

さて、今回問題にしてるのは上の写真にある「ダナイト」と「ハルツバージャイト」である。嶺岡山地の地形ジオラマの写真によると、紫と水色で塗られている地域である。両方ともかんらん岩であり、色はオリーブ色であり緑色。このかんらん岩は超塩基性岩に分類され、ようするに水晶質である二酸化珪素の含有率が低く45%未満という岩石である。別の言い方をすれば、かんらん岩は上部マントル物質そのものである。

大陸プレートの地殻を形成するのは玄武岩でこれも塩基性岩に分類され、二酸化珪素の含有率は45〜52%未満。色は全体的に黒っぽいがまあ色だけでは当てにならない。(ちなみに水晶とは二酸化珪素のことである)

つまり嶺岡山地の頂上付近のダナイトがある場所は、ほぼ上部マントル物質が露頭している場所といえる。




話は変わって、ここに蛇紋岩というものがある。この岩はかんらん岩などが水と反応して蛇紋岩化作用を受けることで生成する岩石らしい。かんらん岩と水から蛇紋岩と磁鉄鉱が生成される反応が一つの例としてあるようだ。

かんらん石  Mg2SiO4 及び Fe2SiO4
蛇紋岩 Mg3Si2O5(OH)4
2Mg2SiO4+3H2O→Mg3SiO2O5(OH)4+Mg(OH)2

化学式はシカトしても構わない。かんらん岩が水と反応して、蛇紋岩と磁鉄鉱が生成するというのを視覚で確認できればよい。(実際私もそれくらいしかわからない)

さて、この嶺岡山地に降った雨や水は、川を流れて加茂川などを通って鴨川市内を抜けて太平洋に注ぐわけだが、実は鴨川の海岸を含む千葉県の夷隅や九十九里、館山や木更津、富津、鋸南に至るまでの広範囲において、千葉県は砂鉄の産出量がとても多い。


これは夷隅の浜の砂鉄。黒い砂がそれである。要するに、この黒い砂鉄(磁鉄鉱)はかんらん岩と水の反応による生成物ではないのか?それが千葉沿岸の浜に堆積したものではないのか?というのが私の推測である。


 
夷隅の丹ヶ浦で採取した砂鉄。










茨城県つくば 地質標本館

2021年05月09日 02時58分00秒 | 地質
つくばにある標本館。ネットで予約する必要があるが入場料・駐車料金共に無料。館内には詳しい学芸員さんがいていろんなことを教えてくれる。


標本館は一階と二階。足早に回るだけなら1時間もかからないが、鉱物や地質の事を詳しく見たり、学芸員さんに詳しく話を聞こうとおもったら、何時間でも潰せる場所である。



カコんでセンコウ、ハンゴロシ
流産、安産、元気な子
と高校の時に暗記させられた記憶がある。
深成岩と火山岩の覚え方であり、順番に

深成岩
花崗岩  閃緑岩  はんれい岩
かこ     せん    はん

火山岩
流紋岩  安山岩  玄武岩
りゅう   あん    げん

当時はなんの役に立つのかわからないまま覚えたものだが、現在においても経済的には何の役にも立たない。地球の成り立ちがわかるという知的好奇心のためにしか役に立たないが、それがいいのだ。

火山岩と深成岩は単に冷え方の違いであり、急速に冷えるのが火山岩。ゆっくり冷えるのが深成岩である。
流紋・安山・玄武あるいは花崗・閃緑・はんれいの順は、大雑把にいえば水晶質の含有の割合が高い順序でならんでいる。流紋や花崗が水晶質が多く玄武やはんれいは少ない。ようするに溶岩がネバネバしてれば水晶質がおおく、色は白や透明。溶岩がサラサラした場合は水晶質が少なく、色は黒くなるということだ。それらが冷え方の違いによって、名前が変わるというそう言う事に過ぎない。

更には「石」と一般的に言われているものは、鉱物起源のものもあれば生物起源のものもある。溶岩からできる石、地中の超強力圧によってできる石、砂や泥の堆積物が圧力によって石のようになったもの、そして有孔虫やプランクトン、またはサンゴや貝などが石化したもの。これらを我々は大雑把に石と呼ぶ。

繰り返すが、こんな事を知っていても社会においては一銭の得にもならないが、私の人生を豊かにするという点においてはかけがえのない事である。
このようなものを見て、人生を無為に過ごすというのは贅沢というものであろう。







記事は「見出しで判断するとエラいことになる」

2021年02月11日 23時08分00秒 | 世間話

森喜朗の発言のおおよその内容と、釈明会見での記者とのやりとりを↑の記事で読んでみた。
読んだ後の感想だが、テレビで森を叩いた報道姿勢とこの全文のやり取りを私なりに比較してみたらテレビが如何に大袈裟に物事を捉え、それを拡散し、その後の森叩きが如何に執拗なのかと気付かされた。

森の↑の全文を読んでみると、彼は言葉を慎重には選ばない話し手であるということがすぐにわかる。悪い言い方をすると、言葉をテキトーに使っているとも言えるわけで、揚げ足を容易に取れる話し方である。

かつて森は、日本は神の国という発言をして叩かれた。なんでこの発言が叩かれたのか私は今でもわからない。この発言を問題だとして叩いたマスコミはなんで神の国が問題発言だったのかを当時は報道したのかもしれないが、私はそれを覚えていない。


さて、森の発言から森の考えていることを推測すると、だいたいにおいて以下のようなことがわかるとおもう。
①山下は頑張っているが、これから大変である。
②理事会での会議をまとめるのは容易ではないので森から山下へ助言をした。
③女性は会議が長くなるから、時間を決めて議論しないとまとめるのが難しい。
④とはいえ女性は優秀である。わたしも話は長いと付け加える。
⑤タレントの聖火ランナーにはファンが集まるのはいいが、現行のコロナ下ではいろんな問題が出かねないから慎重に色々と決めていかなければならない。
⑥①〜⑤までの様々な問題があるので、山下さんは大変だ。是非頑張って欲しい。

おまけ  橋本や竹田元会長も頑張っておられたという擁護。NHKのかつて叩かれた籾井会長も頑張っていると擁護。

つまり森の意図は、コロナ禍においてオリンピックの準備をするのは困難が多く、それを竹田元会長に代わって行うのは大変である。それはマスコミの攻撃を受けないようにということもあるし、国民のオリンピック開催への不安による反対の攻撃を受けないようにということもあるが、そういう対外的なことだけではなく、理事会での議論や決め事なども、無限に時間があるわけではないから、それらの取りまとめの指揮を携わることも大変だと説く。さらにタレントの聖火ランナー起用でファンが詰めかけてコロナ禍に拍車がかかることなども懸念して、大変であることと、一生懸命取り組んでいる方々を労う発言は随所に見られる。
そして、竹田、籾井、橋本はすべてテレビに不祥事のあった人として報じられているが、森はその人たちの名前を出して尽力していることをあえて発言し、かれらの不祥事は本当は不祥事ではなかったと擁護したい意図を感じる。

そういえばロンドンブーツの田村が「田んぼを走ればいい」という発言を受けてか、あるいは森の「女の話は長い」発言をうけて、聖火ランナーを辞退したそうだが、↑の本文を読めば、田んぼを走るという意図は、ファンが詰めかけてコロナ感染を避けるための案をださなければならないという主張として普通は読める。しかし当の本人の田村淳はたぶんこの↑の全文を読んでいなかったのだろう。芸能人は人気商売でファンもあつまるから田んぼをはしれ(田舎を走って人集めしろ)というように解釈したのだろう。

報道という言葉を扱うプロが、発言の行間を読むことなく、その話し手の意図を読み解くのでもなく、まるで言葉狩りのように、あるフレーズが出たからアウトな発言とか、けしからんとか、好意的に見ても頭が悪いとしか思えない。悪意的にみるなら、人を陥れるためにやってるとしか思えない。


私は今の自民党は大嫌いだし、次の選挙で負ければいいと思っているし、森はどちらかと言うと嫌いな政治家ではあるが、彼の発言を意図的に曲解して貶めるという卑怯なやり方はしたくない。
自分の見たいものだけをみたければ、彼を叩くのに便乗すればいいが、さすがに全文を読んでみたら、テレビの解釈のほうが極端でおかしいということに気がついた。



仮想通貨とやら

2021年01月06日 13時13分00秒 | 世間話
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN04AHH0U1A100C2000000

ビットコインに代表される仮想通貨の価値が上がったニュースやネットに取り沙汰されている。正確には仮想通貨の価値を上げようとネットで散々取り上げている勢力がいて、それに乗せられている人がいる。
  このニュースはその価値が暴落したものだが、当然と言えば当然の帰結だろう。

  これは株式の仕手のやり口とおなじであろう。投機商品にはいつもこの手のものがつきまとってくる。

  結論から先にいえば、仮想通貨という通貨システムは膨大なエネルギーの消費の上に成り立っているシステムである。考えられないほどの大量の電気と熱によって成り立っているこのシステムが保つはずがないというのが私の意見だ。以下に仮想通貨のマイニングにおける資源浪費について説明しよう。

  仮想通貨にはマイニングというものがあり、それはコンピュータによって仮想通貨の取引などを絶え間なく演算しつづけるために行わなければならないものだ。詳しい説明は割愛するが、コンピュータがある難しい演算を解くことによって、仮想通貨による報酬が貰える。これがマイニングによる仮想通貨の「掘る」という行為である。
マイニングをするコンピュータは基本マイニング専用機であり、他の用途には転用できない。消費電力はモノにもよるが、だいたい一台あたり1600wくらいのものが多い。電子レンジやドライヤーやアイロンが1000w位であることを考えると消費電力は高いことがわかるだろう。
  仮想通貨を掘るための演算には難易度があって、これは時が進むごとに上がっていく。つまり今日よりも来月のほうが基本は難しくなる。マシンが変わらなければ難易度が時とともに上がっていく以上、演算による報酬は下がっていく。報酬をあげるにはマシンの性能を上げるために、あらたにマイニングのコンピュータを買わなければならない。そして良い性能のコンピュータの消費電力は基本は高い。

とある仮想通貨の話だが、150台のマシンを24時間365日やすまずにマイニングさせたおおまかなデータを以下に記す。

150台×650w/h 
開始当初の収入  約700万円
開始当初の電気代  約150万円

半年後

収入 約180万
電気代150万

工事費などやメンテ費は除く。コンピュータ一台の値段が仮に30万だとして150台で4500万である。開始当初の収支が700-150で550万だとして、半年後は180-150の30万とする。演算の難易度は時とともに上がることを前提とすると、初期投資を回収できないことになる。

こういうことはマイニングではザラにあることである。

さて問題です。仮想通貨は誰にとって得なのでしょうか? 為替で売り買いする人?マイニングする人? 

答えは、マイニングの機械を作っている業者(cpuを作っている会社も含む)、その電気代を徴収する電力会社、そしてマイニングの仕掛け屋であろう。
株式では、非公開株を上場するという触れ込みで資金を集めるということをよくやる。この儲け話に人は飛びつくが、仕掛け人のほうがもっと儲かるし、その株式を発行する会社も儲かる。仮想通貨でもそれがあって、仮想通貨は取引所で取引されるために格上げされるひつようがあるのだが、それは株式と同じような非公開株が上場するようなものだ。
  一時期ガクトコインという仮想通貨が、それをやって資金集めの儲け話としてガクトをつかって大々的にやっていた。あの通貨はたしか取引所にはあがらなかったか(そういう詐欺もある)、もしくはあがったとしても通貨がカスみたいな値段で、結局は投機した人が大損をしたという結末だったが、そういうことで儲ける勢力もいるのである。

ちなみに仮想通貨やマイニングの機器などは、中国がかなりのシェアを持っている。アメリカも持っているらしいが、中国のシェアの方が上である。さて、金はどこに流れ込んでいるかお分かりだろうか?

さらに中国では、自国内に仮想通貨の取引所は存在しない。つまり自国のなかでは仮想通貨は流通させていない。にもかかわらず、中国国内には仮想通貨のマイニングの工場は数多ある。電気代がどこの国に落ちるのかお分かりだろうか?

150台のマイニングの機械の電気代が月180万ほどもするという事実。そしてその電気を作るために火力発電をうごかす。こんな通貨決済システムを動かすために、膨大なエネルギーと熱を放出しているわけである。

通貨とは決済システムである。お札を刷って市場に流通させる、電子通貨にして市場に流通させる(◯◯payとかいうアレ)、仮想通貨にして流通させる。全部決済システムだが、それにしては仮想通貨はその流通を維持させるためにエネルギーを使いすぎるではないか。構造としてはもたないものが、宣伝では仮想通貨ビットコインはこれから15倍に上がる!とか平気で書いている。ウソつけ!PCメーカーと仕手筋と電気会社が国民一人一人から金を掠り取ろうという魂胆が見え見えである。
あぁ、そういえば太陽光賦課金ということで、国民全員からお金を吸い取って、メガソーラーとかの買取42円とかやって、ソフトバンクが儲けた話があったが、あんな構図とよく似てるよなー。ちなみに今東京電力では1000wの値段は約24円です。それを42円で15年も買い取らせるという政策を打ち出したのは時の政府です(民主党菅内閣)

皆さま、資本家に搾取されないように気をつけましょう。









陰謀論を巡る態度

2020年12月12日 04時27分00秒 | 歴史
世に陰謀論なる言葉が存在する。この言葉の定義はどうやら陰謀という言葉とは違い、始めっからウソというニュアンスを含んだ否定的な言葉であるようだ。ウィキペディアからその説明を引用してみよう。

陰謀論(いんぼうろん、Conspiracy theory)または陰謀説(いんぼうせつ)とは、ある出来事や状況に対する説明のことであり、他にもっともらしい説明があるにも関わらず、邪悪で強力な集団や人物による陰謀や謀略が関与しているとするものである[2][3][4][5]。この言葉は、偏見や不十分な証拠に基づいているという否定的な意味合いを持って使用されることが多い

実際の陰謀は、たとえ非常に単純なものであっても、隠蔽するのは困難であり、日常的に予期せぬ問題が発生する[41]。対照的に、陰謀論では非現実的に陰謀が成功することが示唆され、陰謀の首謀者とされる集団(例えば官僚組織など)は、ほぼ完璧に近い能力と秘密主義に基づいて行動できるとされる。事象や状況の原因は、複雑な要因や相互作用する要因、および単なる偶然や意図しない結果などを排除するために単純化される。ほぼすべての発見は、首謀者によって意図的に計画されたものとして説明される[41]

だそうである。トランプの主張している選挙の不正や、第二次世界大戦での日本軍が証拠を全て処分・焼却したから証拠はないが◯◯は事実であると主張することなどは、いわゆる陰謀論といわれている。(後者の日本軍の場合のケースは巷では陰謀論とはいわれておらず、真実などといわれており、それを主張したいものは頑として陰謀論とは認めないであろうが)

陰謀論という定義は、wikiの説明を読めば、その行間に「陰謀論者はバカだ」というニュアンスが強く漂っている。つまり陰謀論とは元々バカにした言葉なのだ。陰謀にはそのようなニュアンスはない。ただし陰謀+論 となると、とたんに否定的な言葉となる。
ああ、そういえば世間にはこれとよく似た別の言葉あることに気がついた。それは「歴史修正主義者」という言葉である。
歴史+修正+主義者とバラバラにするとそれぞれの単語には否定的ニュアンスはないが、歴史修正主義者となると、これは陰謀論のようにバカげたという否定的な意味になる。もうひとつあげるとネトウヨなんかもこれらと親戚筋の言葉で、ネット+右翼でまあ右翼という言葉は否定的ニュアンスをもつが、いまやネトウヨという言葉は、それこそネット+右翼という意味を超えて、オツムの弱いバカという定義にされてしまっている。

それにしても思うのは、いったい誰がこのような造語を作ったのか、またはそれを利用したのかということである。

これらの言葉は全て「レッテルを貼る」ために生み出された、あるいは利用された排他的な言葉であろう。陰謀はこの世には存在する。論説もこの世にはある。しかし陰謀論は「バカで荒唐無稽な意見」というように意味を矮小化している。そのように言葉を利用している。それはつまり、副次的作用として、陰謀という言葉の元々持つ意味そのものも矮小化させる働きもしている。これは、陰謀を行う側にとっては、陰謀を行なったとしても、それを陰謀論と揶揄しその存在をあたかも荒唐無稽のようにバカにして矮小化して、陰謀そのものを隠蔽する方向にも利用できる。(戦争中や平時での情報戦とか、あるいは世の治安が悪くなればこういう造語は乱発される)
つまり造語が生み出される背景というのは、だいたいにおいてはなんらかの意図に基づいた主目的と、副次的にあらわれる副作用の両方が働くのであろう。

さて、陰謀論の親戚語のような歴史修正主義者という言葉についても同様に考えてみよう。我々が中・高等学校で習った歴史のある箇所は、近年の史料あるいは考古学の発見などによって、書き換えられているものがある。1192作ろう鎌倉幕府と覚えたものだが、いまでは1185と習っているそうだ。これを歴史修正主義とは言わない。歴史+修正+主義という単語の結合の意味として歴史修正主義という言葉の意味を探るとするならば、1192を1185に修正するのは、間違いなく歴史修正主義である。しかし、陰謀論と同じくこの言葉は「レッテルを貼られた」言葉であり、造語である。1192を1185に変えたのは、バカで荒唐無稽ではないから、これを歴史修正主義といったら、学者におそらく怒られるだろう。
どうも世の中には、いい修正と悪い修正というものがあるらしい。学者の論説、あるいは学説が定説になってきたもので修正すれば良い修正になり、素人の論説や疑問に基づく仮説は、悪い修正になるのだろう。

善悪と書いたが、なぜなら歴史修正主義という言葉は、バカにされている否定的な言葉であり、悪いニュアンスをもつレッテルを貼られたことばでえるので、良い修正と悪いの修正の基準はこの世にあるらしいということになる。

しかしそうなると、あたかも学者の定説であるかの如く、金で買収でもされた学者が、それっぽく何かを我々素人に説いたとすると、その学者が今までの歴史観を修正した主張であっても、良い修正と演出することは可能である。また逆も然りで、定説に則っていた学説だとしても、金で買収された何者かが、その説を歴史修正主義と貶める演出をすることは可能である。
つまりは真実を歪曲することもできるし、ウソを真実だと捻じ曲げることもできてしまう。

一般的に、このような「あるようなことをないかのように」あるいは「ないことをあるかのようなことに」する活動というものを陰謀という。陰謀論ではなく陰謀である。

まったく陰謀論とか歴史修正主義とかネトウヨとか、言葉を混乱させる造語を人はよく作るものである。そういう造語を作る目的は、陰謀に使われている可能性があることは述べた。

はなしを最初に戻そう。
トランプの不正選挙の話である。
不正なんかあるわけがない、これは陰謀論だ、と安易に切り捨てる人がいる。不正があったことは間違いない、と安易に信じ切る人もいる。不正があったかもしれないし、なかったのかもしれない、と思う人もいる。私の立場は最後のものだが、しかし、、。
こうも猫も杓子も「陰謀論」とか「歴史修正主義」だと血眼になってレッテルを貼り貶めることに邁進してブレない論者をおおくテレビや言論などで見ると、その発言者のあまりの排他性をみるにつけて、
あれ?ここまでの排他性を病的に主張して相手を貶めるってことは、ひょっとするとそのこと自身によって、陰謀とか実はあるんじゃないの?と疑いたくなるものだ。

事実、歴史修正主義とか陰謀論とかを排他的に主張・展開している団体や個人は多い。差別のないところ、あるいは少ないところに、大きな差別があるかのように主張し、その主張が極めて排他的であるのもたまに耳にする。歴史修正主義に限定して言えば、ナチスの歴史に擁護的な解釈をドイツで学者が主張すると、その者は訴追されて失職してしまうという例がいくつもある。これは排他的な動きの一つである。

かりにこの学者の主張がマヌケなものであったとしても、無視するでもなく馬鹿にするだけでもなく、訴追して失職という排他性を実際に伴っているわけである。
ここまでこわばった排他性をみせつけられると、あれ?ひょっとして、、、ホントは、、、と疑いをもちたくなるだろう。

つまり一度政治的あるいは何かの力によって極悪党と認定されたものは、その後新たな史料や証拠に基づいたものがあったとして、その人の悪党性を詳細に認定し直したとする。その詳細の認定の結果は、これまでが悪党度1000だったものが、悪党度950になるようなものだったとする。
しかし、前住したように、この世にはないものをあるかのように、また、あるものをないかのように、という陰謀はあったりする。学者が学者の良心に従い、きちんとした証拠と史料をもってその学説を「修正」したとしても、その修正は歴史修正主義と貶められる陰謀の餌食になる可能性もあるし、逆もまた然りであるつまり悪党度1000を1500にするという修正もである。

つまり、なにが正しい修正で、何が修正主義なのかという判断。
なにが陰謀で、なにが陰謀論なのかという判断。
これらは容易に下せるものではない。
それを容易に、そして頑なな排他性をもって下す者がいたとしたら、その者の主張は甚だ怪しいと疑わざるを得ない。
それこそが学問に対するまじめな態度だと思う。






カール・ポパーの本

2020年11月22日 22時39分00秒 | 歴史
養老孟司がかつて押井守と対談をした時に「現実」と言う概念がテーマになったとき、彼はポパーの世界1、世界2そして世界3という話をした。その内容があまりにも斬新だったので、ポパーのその本が読みたくなって図書館へ行き検索したら本書がヒットして借りてきた。

なんと、この本のメインは非決定論の擁護というもので、世界1〜3の話は本書の付録であったことに驚いた。

要約すると世界123の数字の順序は、それが現れた時期の順であり1ほど古く3ほど新しい。
世界1はいわゆる岩石や樹木や物理的力の場といった世界で、化学や生物の世界も含まれる。
世界2は心理にかかわる世界で、人間の心や動物の心についての研究者によって研究されている。それは、不安や希望といった感情の世界、行為に向かう性向の世界、また深層意識的な無意識的な経験も含めた、あらゆる主観的な経験の世界。
世界3は人間精神の産物の世界である。芸術作品、倫理的価値、社会的諸制度、科学図書の世界、つまり書物、科学的問題、そした誤った理論も含めてだが、理論など。

ここで1の世界は認めても良いが、2と3は世界とは言わない、とか、3は2に含まれる概念じゃないのか?などという疑問はここでは触れない。触れると本をそのまま抜粋することになるし話が長くなる。

ポパーはその3つの世界は相互作用すると言う。2は頭の中の思考だが、それを文字や数字といった記号として記録された時、あるいは文字として整理されて分類された時に生まれるものを3といっているようだ。
例えば2の思考は、言葉を全く発せずとも自分の主観的な考えで世界を構築できるが、一度文字として記録すると、第三者に参照可能なものになる。つまり世界3と相互作用してしまう。その「相互作用」と言う言葉は、「その文面を用いて他人と議論が起こる」と言い換えてもいい。
また、記録したものは、そこから新たなものを生み出すということがある。例えば数字というものを頭の中で考えてたとして(世界2)、それを紙に記録したとする。そしてその数字をみた私が、あるいは他人が、その数字を奇数と偶数の2種類に分化・分類したとしよう。この時「奇数」「偶数」というものは発明されたことになり、生まれたといって良い。ポパーのいう世界3とは、こういったものらしい。なので倫理的価値、社会制度、芸術作品などがこれにあたるわけだ。

今までの私の常識では、世界1と世界2という区別はなんとなく自然に受け入れられた。世界は二元論として認識されてはいたが、この世界3のポパーの解釈は斬新だった。これを世界2から分けて世界3としたのが画期的であるといっても良い。

そして世界3は、いわゆる「理論」というものだが、この理論を使って製品を作り出したとすると、それは「理論」ではなく「科学技術」と名前がかわり、科学技術で生み出された製品は、例えば車などは、世界1のモノとなってしまうのだ。(世界2によって構造的に明らかにされた世界3の理論を用いて製品を作ったら、その製品はモノなので世界1に相互作用をしたわけである)

この話が面白いのは、理論を利用して製品化されたものは科学(技術)といい、感性を利用して製品化されたものは芸術と名前を変える。細かくいえば、科学技術の製品にも感性を反映させた遊びがあるし(車のデザイン等)、芸術にも理論を反映させた遊びもある(音楽理論等)ので、科学や芸術が製品化された時にかならずしも理論と感性に完全に寄っているわけではないということである。
我々は言葉によって一律に概念を区切るということをやっているが、当初は便宜的に区切っていたものが、後になると全然別のものと当然のように認識してしまうという誤りを犯すことがある。科学と芸術は、今やかなり真逆なものとして捉えられているのではないか?

話が逸れた。
世界2から世界3が生み出されるということについて、考えてみよう。
世界3の理論が「正しいか」どうかを判定する時、我々がよく用いるのは観察や自然界での振る舞いが、その理論と合致するかである。ガリレオがピサの斜塔から異なる重さの鉄球を落とした実験はまさにこれであろう。つまり世界3の理論は、世界1の物理的な世界において一致するのか観測をするわけである。
つまり、最初に世界2の主観的思惟または直感などの感覚から、言語化文字化記号化されたものを、よくよくさらに読み解いていくと、先程の奇数偶数ではないが、何かしらの新たな理屈や原理めいたものが発明されてくる。そして、まさにこの思惟を通じて理論化する過程というのは、実は脳の構造を無意識のうちに外界の世界に作っているという行為ではないだろうか?
  人間がコンピュータを作っていたら、実はその構造とほとんどそっくりなものが、脳の大脳新皮質の機能にあった、というような事をここでは言っている。これはべつにコンピュータに限ったことではなく、宗教における二元論だって、脳の構造が二元論に傾くという機能を一部には持っているという証左なのだろう。カーナビの真ん中に矢印があるという、カーナビの構造も、我々人間が空間認識をするときに、脳の機能、あるいは構造において、地図と矢印のようなものが、内部的に備わっているのだろう。それを人間が外界に便利な物として発明するとき、それは自分の脳の内部構造を外界に別の素材で作っていると言うことができるのだ。

構造主義という思想があるが、今になって私はその意味の一端を新たに発見した気分である。


勉強においてインプットとアウトプットという言葉がある。私は歴史が好きだから歴史の本を読むとか動画を見るというインプットはよくやってはいるが、じつはこれだと知らなかった事についてはされなりに知ることはできるが、理論として新しいことに気づくということは殆どない。
経験的にそれらの気づきというのは、アウトプットの中から生まれていたような気は確かにしていた。
教科書に年表があったが、あの年表は編者が整理した年表であり、私が整理したものではない。そこで私は自分なりの(ヘタな)整理によって独自の年表を作ったことがある。つまりアウトプットしたわけだ。もしくは、世界2の思惟を紙に記号化することによって、その記号化したものをさらに掘り下げていくと、なにか一つの流れや法則や順序めいたものがみえてこないか?という、上に書いた「理論の発明」と同じプロセスをやっていたことに、本書を読んでいて気づいた訳である。

つまり、アウトプットなる言葉は、別の言葉を使うなら、世界2から世界3を発明するという行為とレベルの差こそはあれほぼ同義であるということだ。そしてそのアウトプットなる言葉は同時に、自分の脳の構造の一部分を外界に作り出しているという事でもある。

こうなると、インプットとアウトプットが意味するものが、一段階深いものとして再認識することができる。
歴史をより知りたいのであれば、世界2を磨かねばならぬ。それは主観的な心を含んだ深層意識的なるものも含んだ経験と知によるものの「磨き」である。
それは単なる歴史資料や歴史の本という情報を読むだけにとどまらず、人間の心をしるとか、その歴史のあった現地に行く経験であるとか、不安や希望といった人間の感覚などの経験を通じた重層的な理解などが「磨き」にあたる。これをインプットという。
それら絶え間ない磨きともともとの脳の構造から我々を突き動かすナニカの力によって、我々は文字化された「まとめられた(年表にあたるような)モノ」から新たな理論を発見、あるいは発明する。

奇数と偶数という分類法はそれは素晴らしい。天才的分類と言わざるを得ない。わたしにはとてもそういう洗練された分類はできないが(だからアウトプットよる成果はいつも先達の轍がある発見であり、発明とにはならないわけだが)、こういう分類の工夫などをすれば、すくなくとも今よりかは歴史の智に対してさらなる前進を加速するための貢献になるだろう。◯◯時代という区分を考えた人は凄い人だが、自分なりの分類によって、自分の気づかなかったことを発見できるような気になったことは確かである。

ポパーは凄い。これがなんと付録なのだ。ちなみに本文である非決定論の擁護については、難解すぎて読む気にはなれなかったということを付言しておく。





AEROWATCH

2020年11月09日 19時09分00秒 | 世間話
写真の懐中時計は蓋が両開きのスケルトン。メーカーはスイスのエアロウォッチ社のものである。現在国内で買うと定価では37万円するとか。現地の価格では2220スイスフラン(27万円)だそうである。
こんな高級な懐中時計をなぜ私が所有しているのかといえば、この時計は買った当時は6万円だったからだ。
おそらく2002年ごろと思われる。スイスのチューリヒかインタラーケンで購入。あの頃からは価格が4倍以上になったわけである。