Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

経済について考える。 思考実験

2020年05月12日 13時00分00秒 | 政治 経済
-1+1=0 規模1
-10+10=0  規模10
-100+100=0  規模100
-1000+1000=0  規模1000
-10000+10000=0  規模10000

まずは単純モデルを考える。細かい間違いには目をつぶる。

マイナスは借金、プラスは現金とする。借金と現金を合わせると0となる。規模とは、人口が増えたり社会が大きくなれば、貸し借りの数字は比例して増えるものと考える。

ここまでは、たくわえの多さについて述べた。この現金を使うことにはまだ言及していない。どんなに規模が大きくなろうとも、全ての人がまったく現金を使わないなら規模の大きさに意味はなくなる。

ここで現金の50%を「使う」ことにしよう。そうなると

-1+1=0 規模1   市場0.5
-10+10=0  規模10  市場5
-100+100=0  規模100  市場50
-1000+1000=0  規模1000  市場500
-10000+10000=0  規模10000  市場5000

たくわえの50%使うことを「市場」と呼ぶことにする。市場規模と現金の規模は比例する。市場規模と借金の規模は比例する。


ここでたちまち疑問が生まれる。
①どんなに規模がでかくなっても、全ての借金を全ての現金で返してしまえば0になってしまう。借金も消えるが現金も消えてしまう。ここにまず違和感がある。すくなくとも自然界にはこういうものは見たことがない。あるとすれば、物理学における陽子と反陽子、電子と反電子などの理論の中にだけある。

②現金を使っても、それは誰かの現金になるだけで、現金は借金が存在している限り消えない。従ってモノの売り買いは際限なく出来る。モノという資源は有限にもかかわらずである。借金や現金の仕組みと有限な資源との間には辻褄があわないことがある。ここに違和感を感じる。

もちろん我々は知っている
借金はいずれ返さなければならないというルールが世間にあることを。
資源とは自然界の資源だけではなく、知的所有権のような人間が作り出した付加価値もそう呼ぶことを。

しかしそうであっても取引は無限、資源は有限には変わりがない。また、全ての借金の返済するとこの世から現金がなくなるということにも変わりがない。

経済はこの2つの仕組みになってるので、いつも違和感を感じ、なにかペテンにかけられた気持ちになる。

まあとりあえずそのことは考えずに先を進めよう。

資源は有限だが取引は無限についてまず考えよう。
資源は自然界の恵みであり、同時に知的所有権のように人間の生産物でもある。つまり有限な資源という側面もあるが、人間の生産力というある意味無限の資源という側面もある。(ただし有限な資源を使って生産力を得ているから有限だし、人間の時間毎に作れる生産物には限りがある点で有限だ)

取引を需要と表現するなら、取引の無限性は需要の無限性と表現することができる。
需要に対して資源・生産力が追っついていなければいわゆるインフレになり、反対になればデフレになる。

取引(需要)とは、「使う」ということであり、使う=市場だとは上で述べた。
従って、取引=需要=使う=市場  需要=市場ということが出来る。
その考えに基づくとデフレとは
❶市場が資源・生産力と比べて縮小していることを表すし
また別のいい方をすれば、
❷資源・生産力が市場と比べて過剰であるということを表してもいる。

認識を❶としてみるか❷としてみるかによって、デフレにおける政策は変わることに留意いただきたい。❶の解釈に立てば、市場を大きくする政策を採ることになり、資源・生産力に合わせる形で取引を増やすまたはカネを使う。❷の解釈に立てば、資源・生産力を小さくする政策を採ることになり、取引やカネの使う量を合わせる形で資源・生産力を減らす。

❶を財政出動政策❷を緊縮財政政策という。



国は自ら借金と現金を作り出すことができる存在である。借金と現金の規模が「たくわえの規模」であり、そのたくわえの50%を使うことを「市場の規模」と上で述べた。つまり国は現金(借金)を作り出し、それを使うことによって市場の大きさを操作することは出来る。しかし資源・生産力を操作することはなかなかできない。つまり国は需要は操作できる。供給は操作しにくい。


次にバブルというものを考えてみよう。

バブルとは「局所的なインフレ」ということができる。世の中の物価相場と比較して、ある商品の物価だけが急激な値上がりをして、しかもそれでもその取引が冷めないことをいう。
これが起こる過程はいくつも考えられる。
❶その商品を作るための資源・生産力が著しく毀損している場合。
❷その商品に値段よりも価値があると人々が思い込んでいる場合。

❶は需給バランスが悪いことによって起きる現象。
❷は売れ過ぎる商品である。価格を上げても売れ過ぎる商品である。

❷が厄介で、大抵は人間の思い込みに根ざしたものだ。この商品は「9将来さらに価格が上がるに違いない」という幻想を集団が本気で思い込んでいれば、この装置は起動する。投機商品に多い傾向がある。金融商品、金融派生商品にこの傾向がある。

❶によるバブルは主に自然界の資源が足りなくなってきた時に起こりやすい。
❷は大抵が人間の生産物によって引き起こされる。◯◯権などという人間が作り出した権利という商品は、人間にある思い込みをさせる傾向が強い。
人間を騙すために、人間は偽りの生産物を作ったりする。

生産物は偽りのだろうがホンモノだろうが生産物と割り切るか、偽りの生産物は生産物とは認めないと頑張るか。
そして、それらが混ざった「生産物」を買う人がいたとして、それを「市場がある」と認めるか、「偽りの市場」として退けるか。

経済は本質的には、法律に違反しない限りは、全ての生産物を認める傾向にある。従ってそれらが取引によって市場が拡大するこということを認める傾向にある。

私には違和感ばかりで、どうも経済にはあまり関わりたくないと思う次第である。







種苗法改正

2020年05月12日 03時18分00秒 | 政治 経済
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200511-00072491-gendaibiz-pol&p=1

コロナ禍の3月3日にシレッと種苗法改正を閣議決定したのとこと。この混乱期のなかにどれだけこの法改正が議論されたのかは分からないが、おそらく拙速にやったと思う。なぜこの時期に通そうとするのか?今はそれどころでは無いはず。
それどころでは無いはずなのに、あえて通そうとする意図は、そりゃ後ろ暗いものと勘ぐられても仕方がなかろう。この時期に通される法案の殆どは疑ってかかるべきなのだ。

ハッキリ言って、現在の不安過多の状況下にあって、国民が種苗法の是非を調べてその良し悪しを吟味する余裕はない。だから今は全面反対でよろしい。そういう重要そうな法案は、もっと落ち着いてからやるべきなのだ。

この政府はどうかしている。急ぐべきものを急がず、吟味しなければならないものをサッサと通す。こりゃ火事場泥棒と言われても仕方ない。

とにかくふざけてる。


何度でも官邸や全省庁に文句のメールを出して国民の圧力をかけるべきである。


高床式倉庫

2020年05月08日 23時24分00秒 | 歴史
スイス南部のヴァレー州、ヴァルザー人の集落にはmazot(マゾット)と呼ばれる高床式倉庫がある。

ヴァルザー人の居住する地域は以下の地図を参照。


そして我が国の高床式倉庫である。



注目すべき箇所はネズミ返しと木の組み方である。


ほぞ差し(升の組み方)や


相欠きという組み方を駆使して作られている。

mazotと高床式倉庫は実に様式が似ている。かたや極東の東端、かたやヨーロッパという西端である。


これはスペインのオレオ hórreo 
石とレンガの屋根で作られており、mazotや高床式倉庫とは建築様式は異なるが、ネズミ返しはついているし、高床式ではある。



これは東南アジアに広がっているロングハウス(長屋)だが、こちらになネズミ返しは見られない。高床式というのだけが同じである。

高床式のネズミ返し付きの倉庫というのは古代において相当一般的なものだったのだろう。古代人にとって食料貯蔵庫はネズミとの戦いだったことが容易に想像がつく。掘立柱の建物にしてネズミ返しをつけるという発想は古代人の誰でも思いつくものであったのだろう。
掘立柱が6本というのも、建物の安定性と対ネズミ対策ということで、これも一般的発想だったろう。大陸のこれらの建築様式は2000年以上前からあるらしい。弥生時代が紀元前500年ごろから始まったことを考えても、おそらく大陸では2500年以上前からこの様式を使っていたに違いない。
ただし縄文人も掘立柱建物という建築様式は持っていた。それを倉庫として使っていたかどうかは不明ではあるが、まあ技術だけを考えるならば4000年以上前から床を上げるという技術は持っていたことになる。

しかしそれにしてもmazotを見る限り、この手の建築様式はユーラシア全土を席巻したと見てよかろう。もちろん起源は大陸側にあり、日本はのちにその技術と文化が入ってきたと見るのが自然である。
土器が1万〜2万年まで遡れ、日本のみならずシベリアや中国でも同じくらいの古さのものが出土していることを考えれば、そうとう長い期間、土器や高床式の倉庫は使われたと言って良く、従って起源などを特定するのは不可能だし、おそらく独創的な発明がある地域の一点から生じたということではないだろう。長い時間をかけて互いに影響を及ぼしあって広がった結果なのだろうと思う。



ドイツの杭上建築の復元。紀元前5000年ほどまで遡れるとか。

ここまで行くと掘立柱建物は、もはや墓制における「円墳」並みに世界で一般的なものとなってしまってはいないか?掘立柱の建物というのは誰もが思いつく形なのだろう。

このように文化の伝播というのは長い時をかけて互いに影響し影響されながら広がっていき、時々ユーラシアの東西の端で同じような形を見られる者まで現れる。それほどこの形の建物は一般化されるほどに当時としては洗練された完成度を誇っていたのだろうとおもう。

日本の先進文化は主に朝鮮半島と中国から入った、などと教科書には書かれている。それは全くの間違いとはいわないが、正しくは朝鮮半島や中国を経由して入ってきたと書かれるべきである。
文化はどこかの一部の地域でいきなり独創的に生まれたものではないということが、この高床式の建物を見ただけでもわかるのだから。








今後の生活

2020年05月07日 11時32分00秒 | 世間話
まず対応が遅い政府に文句のメールでもいれましょう。メールを送る国民が数千万人の規模になればどんな無能な政府でも動かざるを得ないのだから。政府の自浄作用は期待できない以上、国民の怒りという圧力をかけて政府のケツを叩かなければ、あの10万円の給付金すら実現しなかったでしょうし、現在の政府の支出はなおもジョボすぎてどうしようもない。
そういう主張をする者を巷ではクレクレ君と揶揄しているだが、緊急事態なのである。何のために今まで税金を払ってきたのか?我慢も度を越せば奴隷という誹りをうけることになる。その怒りはやがて同じ国民に向いてしまう。というか現にそうなっている。本来の怒りは政府に向くべきはずなのに、自粛警察などという国民間闘争になってしまっている。すでに政府の強制的な自粛(?)で経済的損失を、うけた休業者の自殺も発生してしまってるのに、何がクレクレ君なのか?本当は暴動を起こしてもいいレベルまできてしまっているのだが、、、。

今回の投稿の趣旨はそこではない。
まあ上記の趣旨が政府への圧力になり、政策に反映されればそれはそれで良いのだが、その結果が期待できない場合は、その事に頼ってたらバカをみることになる。従って、上記の趣旨がまったく通らなかった場合のことも想定した人生設計をしなければならないだろう。

先日、youtubeにて荒俣宏さん出演のラジオ番組「ラジオ版学問のススメ」を聴いた。
1時間の対談ラジオの番組と長いのだが、先般私が「自己紹介」の記事の中で書いたものに親和性が高い内容だったので、のめり込んでしまい、あっというまに聴き終えてしまった。

今後はこういう生き方も模索していかないと正気を保っては生きていけないのだろうという感想をもった。「0点主義」の本はまだ読んでいないが、幼少の頃からこれを実践した荒俣宏を真似るかどうかはともかく、高校生以降の人や大人全般に関してこの0点主義を持っている人は少ないのだろうとは思う。学問を出世や経済的収入につながる手段として学ぶという近視眼的功利主義の時代はもはや終焉を迎えつつあるのだろう。すくなくともこの緊急事態宣言以降の世の中は、その時代の終焉に加速を促すものであることは確かだろう。平均的には、我々は親の世代の収入を超えることはなかったし、我々の子は我々の世代の収入を超えることはおそらくないだろう。
学問を収入や栄達の手段と捉える限り、勉強しても昔と比べて実入りが少ないという事となり、勉強する動機が弱くなる。馬がニンジンを目の前にぶら下げて走り続けられたのは、そのニンジンが美味いからであろうが、現在のニンジンは昔ほど美味くないから走り続けられない。功利主義の行き詰まりはそこにある。
  
そういう経済的な功利主義によって、人の行動を強いることはもはや難しい時代となってきた。昨今ミニマリストというライフスタイルを志向する人が現れたのもそういうことと無関係ではあるまい。

この0点主義と道教という二つの書籍に興味を持った。今度本屋に見に行こう。図書館はいまだ空いていない。こういう時こそ図書館は開けとくべきだとおもうんだが、、、、。









自己紹介

2020年05月05日 04時27分00秒 | 世間話
Schwäbischといいます。名前の元ネタはドイツ連邦共和国の都市Schwäbisch hallからとったもの。いずれブログでも書くかもしれません。読み方はシュヴェービッシュハル。

ブログを始めたワケは、旅行に行くためにCanonのデジタル一眼レフカメラを買ったことだった。旅行が好きで旅行記なども書きたいし、それなら写真もとってブログに書けば、見てもらえる人もいるからモチベーションがつづくかも、というもの。

このブログの方向性だが、昨今の新型コロナウイルスの影響で、今後はますます経済的には厳しくなり収入も相対的に減ることが予想される中で、できる限りカネのかからないライフワークを模索していきたい。
それは主に学問系になると思う。
図書館で本は借りられる。歴史、地質、植物、天文、哲学などはカネをかけずとも借りて読めば知見は深まるし、その理解をこのブログで文章化すれば、自分の読んだ知の整理にもなるので一石二鳥。
さらにこれらの学問は知だけでなく、日常で見て触れて感じるという経験と合わせると一層楽しめるはずである。神社・仏閣や地層、街路や公園の雑草、季節ごとの夜空を見上げたときの美しさは知と経験によって増幅される。ようするに教養をやりたいワケである。

カネがかからないライフワークであれば、今後の経済が厳しくなったとしても、そのライフワークは経済的理由で取り上げられることはないからだ。そりゃお金は欲しい。経済的に裕福にはなりたい。しかし欲望は際限がないので、どこかで足りるということを知るか、もしくはカネがかからずにできる欲に転化するしかない。教養という知識欲に転化するしかないのである。幸いにして学問は底が簡単に見えるような浅いものではないので、知識欲はほぼ際限なく満たしてくれるであろう。

吾唯足知  「われ、ただ足るを知る」
を座右の銘としたいところだ。特にカネに対しては足るを知りたい。知識欲に関しては貪欲でよろしい。どうせ教養という知は、知っててもお金にならない。

旅行という趣味はカネがかかるのだが、こればかりは仕方がない。これだけは性というか業というか、抑えることが難しい。ただし安く済ませる旅行のあり方は模索できる。そして旅行の満足度を上げるためには、先ほど書いたような教養が必要不可欠である。

旅行と歴史  旅行と地質 旅行と植物 旅行と天文 旅行と哲学または文学 旅行と言語 旅行と写真 旅行はかなり学問との相性が良いからやめられない。
理想的な旅行はバックパッカー。





ホームセンターは人でごった返し

2020年05月04日 13時29分00秒 | 政治 経済
個人居酒屋やチェーン大手居酒屋、個人飲食店などは休業をし、水商売やパチンコなどは店名公開や自粛指示まで出して休業に追い込まれている。さらには一部の交通機関、会場、イベントなどの人が集まることはことごとく休業の中、大手飲食店は相変わらず開き、朝11時にホームセンターの横を通ると、駐車場はほぼ満杯。
政府は国民の8割が外出を抑えれば終息するといい、コロナは抑え込めるという。一方では、休業にたいする個人や企業への支援は遅いどころかケチンボ。

そもそもだが、国民の8割が外出を抑えれば終息するのだろうか?
医療崩壊をしない程度に緩やかに国民全員が感染し抗体をもつというのが現実的だと思うのだが。
仮に感染を抑え込みんだとして、抗体を持たない大量の国民がいる中で一応の終息を見たとしても、外国から感染者が日本に来て、抗体の持たない国民に感染したら、やはり爆発的に感染が広まり元の木阿弥にはならないか?

また抗体を獲得したとしても、再び感染するということもある。ウイルスは2種類いるとか報道されているから、その可能性は否定できない。再感染の頻度が感染と比較して10%程度であれば、再感染は大した問題ではない。100%なら、今年の1月の再来ということになるが、、、。

つまり、そもそも
「何をもって終息とする」のかが、よく分からないのである。おそらくは医療崩壊をしない程度に緩やかに国民全員が感染し抗体をもつことを終息と考えているのだろう。

だとすると、この自粛・休業期間は少なくとも1年以上はかかるという話である。5月末まで緊急事態宣言などというのはゴマカシとしか思えない。
仮定として、1日に1000人が感染したとしよう。単純計算で10日で1万人、100日で10万人、1000日で100万人の感染である。
1000日とは2.7年である。到底おいつかない。1日に10万人が感染したとして、1000日で1億。しかし1日10万人の感染者が出たら間違いなく医療崩壊がおきる。
とはいえ、この計算には問題がある。

1:感染者の拡大は最初は少なく、途中から爆発的に多くなり、抗体をもつ人の割合が多くなれば後半からは再び少なくなる。
(理系じゃない私はこの計算の仕方がわからない。グラフ上はベルカーブを描くことはなんとなく想像できる)

2:1日10万人の「感染」があると書いたが、感染して重篤化した者(a)も、安静にして免疫で乗り切れる者(b)も、無自覚に感染してて気付かずに抗体を獲得した者(c)も含む数字である。統計は「医療機関で発見されたaとbの合計の数(d)」なので、実際の感染者は1日何人いるか分からない。

1と2を計算に含めないと、上記した仮定は成り立たない。1は計算の仕方がわからないので2だけやってみる。

dは1日あたり300人と仮定する。(発表された感染者を参考)
a+b+c-d=90000人と仮定したとき、1日の感染者の実態は9万3千人。つまり感染発表数値の30倍が未確認感染者であるとしても、3年以上かかる。1のベルカーブ曲線によってザックリ1年短縮できたとしても2年。

この仮定は信憑性があるだろうか?つまり、dが1日あたり300人ということは発表で分かっているのであまり疑う余地はない(隠蔽してたら話は別)が、a+b+c-dの未確認感染者がその30倍も本当にいるのか?という疑問だ。
死者の推移からみると、1日30人ほど死んでいる。総感染者数が現在約15000人に対して、死者総数が約540人である事を考えると3.6%の致死率ということになる。もっともこれはdの統計であり、死者÷dのパーセンテージ。死者÷(a+b+c)で計算すると、540÷93000=0.58%となる。致死率0.58%は本当か?いささか低すぎる気もする。

低すぎる、高すぎるという意見は感覚である。

世界と比べてみよう。
世界の感染者、つまり世界のdは348万3194人。死者は24万6027人。約7%
これは世界のdにおける致死率である。
我が国と比較するなら
我が国3.6% 世界平均7%

病院で感染が確認された数と、コロナによって死亡が確認された数の割合が3.6であり7である。
病院で確認されていないa+b+c-dの感染者と、同じく病院で確認されていないa+b+c-dの死者の数は、a b cの数が明らかになっていない以上わからない。

つまりこのコロナは、本当の致死率が幾つなのかは分からない。まあ統計とはそういうものだろう。いつの時代でもa b cの本当の数は分からないダークマターのようなものである。
ただし世界のa+b+c-dが日本と同じく30倍だったとしたら、348万×30=10440万、つまり1億440万人の感染者ということになり、地球の人口を70億人とすると、その総人口の1.49%が感染していることとなる。
世界の発表された死者24万6027人÷70億=0.0035%

、、、、、、わからん。

死者についても、発表されたコロナの死者eと、確認されていないコロナによる死者fがいて、本当の致死率を仮定する場合は、fを使わなければならないが、そろそろ仮定に仮定を重ねてきたので、この計算に意味があるのか疑問に思えてきた。


まとめると、集団免疫というおそらくもっと早い恒久的な終息という考えで計算してきたが、それでも終息には2年以上かかるという公算が高いということだ。

こんな計算は、頭の良い国家のブレーンなどはもっと前から、もっと精緻に行われているハズである。
私の拙いシミュレーションでも、どんなに早くても終息には2年かかるとでた。(潜在的感染者が今の発表された感染者の30倍もいるという事を仮定したものでさえ2年である)

にもかかわらず緊急事態宣言は5/6まで、とか、5月一杯とか、国民を騙すようなことを言っているのはなぜか?
なぜこの政策だと2年以上かかるというようなことを言わないのか?
そして、このような単純な計算は国民誰もができるハズなのに、誰も疑問も思わずに政府の発表に一喜一憂しているのだろうか?

同時に国の政策で支援を殆どしないというのはどういうことか?どう考えても5月一杯で緊急事態宣言などを終わらせることはできないハズだ。
暖かくなればウイルスは太陽光と湿度で死ぬとでも確信しているのだろうか?
その確信が、国民への給付を遅らせるほどの強い確信なのか?そこまで確信しきれる自信は一体どこにあるのか?それが予測できるほど今回のウイルスに対して知り尽くしているのか?全然そうは思わない。

つまり政府の言動を見たら、国民を騙すことはもはや確定的であるといっていい。パニックを防ぐ為という言い訳は通用しない。なにしろ自粛休業が長引く中で、給付が全然進まないどころか渋っているわけだから。
5月一杯たえてくれれば、その後は、、、という希望を国民に与え(騙し)、その実政府は支援をしないのである。
言葉よりも行動の方が、人の考えを映し出す。政府も我々の見えないいろんな制約の中で、そのような対応をせざるを得ないのかもしれないが、人間が作った秩序や構造やルールなどは、結局のところ人をあまり助けないということが露呈した。

有事だからこそ見える国家やルールや秩序というもの姿の変遷。それは、現在交通が極めて減った状態にもかかわらず、信号機が相変わらず動いているという状況に似ている。場所によっては信号機など役に立たないほど交通量が少ない地域もあるだろうが、現在は平時と同じく信号機は動き続けている。つまり環境が変わったのに、相変わらず同じ秩序は動き続けているわけである。
かといって、そのルールがバカバカしくて廃棄しろなどという「破壊的な意見」を述べるつもりはない。そういう破壊的意見で国民を扇動してきた政治家や実業家を我々は何度も見てきた。

人間の作ったルールは、状況によって環境に合わなくなってもそのまま踏襲されて社会を凋落におとしたりもするが、そのルールはダメだと破壊して一部の政治家や実業家を潤したりもする。どちらにおいてもルールが不完全故のことである。自然界のルールの方がはるかに複雑で精緻である。環境の汚染はしっぺ返しとして人間に跳ね返ってくるし、人間の考えた介入では自然界に大いなる副作用をもたらし、制御できないのだから。

そんな不完全な人間の作ったルールに縛られる我々は、まさにら自縄自縛である。
世の中が生きづらいというのは、主にこういう事に起因しているのであろう。


フォッサマグナ

2020年05月02日 23時59分00秒 | 長野旅行記
フォッサマグナ。大地溝帯。大地の裂け目。ナウマン象でおなじみのナウマン先生が命名したというもの。


要するにユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界である。


嘘かホントかは知らないが、日本列島は2000万年前に中国大陸から分離して、日本海が形成され、1600万年前に割れた。その後、東日本は縦長に、西日本は横長になってくっ付いたらしい。
プレートはいつも同じ場所に留まっているものではないらしい。




ここは、糸魚川静岡構造帯。フォッサマグナの西の始まりの場所である。ここから東に向かって数十キロメートル行くと、フォッサマグナの東はしである柏崎千葉構造線に至る。
とにかく1600万年前に日本列島は割れた。割れた場所では日本海と太平洋を繋ぐ海になっていた。そこに風雨による侵食作用があり土砂がそこを埋め立てた。
フォッサマグナの深さは6000メートル。恐竜の化石があるとすれば、その下の岩石にあるだろう。上に積もった岩石は新第三紀以降のものであり、もう恐竜はいない。

関東山地のみがフォッサマグナから頭が出ている古い岩石。北西は小諸、佐久より、南西は八ヶ岳の東側で北杜市あたりまで。北東は熊谷手間あたりまで、南東は厚木までの巨大なものである。
この地域が頭が出ているのは、フィリピン海プレートの沈み込みによって、かつてはるか南にあった伊豆半島が本州にぶつかり北アメリカプレートの下に沈み込んだときに持ち上げられたのだろう。

さて糸魚川はヒスイで有名だが、これはフォッサマグナと無関係ではないだろう。ヒスイは火山活動により、岩石の中に溶岩が貫入するときに、溶岩の成分が溶けた地下水などが温められて結晶化したものだと考えられている。つまりヒスイは温水から作られるというものだ。
このあたりはフォッサマグナミュージアムで見学することができる。




南回帰線説

2020年05月01日 05時48分00秒 | 世間話
コロナによる日本人の死者は400人を超えた。ユーラシア大陸の先進国の中での日本の死者は少ないが、東南アジアやオーストラリアなどの国はもっと少ない。これは人口比では見ていない。あくまで死者の絶対数である。
南半球では死者が少ないように見える。それは海に囲まれてることと、中国から遠いことが考えられるが、それよりも重要なのはむしろ気温と湿度と、太陽光ではないか?南半球は夏だったからである。

中国でコロナに最初に確認されたのは、いろんな情報はありながらも12月20日前後であろうと思われる。このあたりの日は冬至と重なる。
太陽が南中のときに真上に来るのは「赤道直下」と我々はおぼえているが、それは春分と秋分の前後の日だけである。
地球の地軸は23.4度傾いているので、太陽が夏至の日の南中に真上に来る地域は北回帰線上の地域であり、冬至の場合は南回帰線上の地域である。

ただし温度が最大になるのは夏至の日ではない。日本を例にすれば、夏至の日(6月22前後)よりも8月の方が暑い。これは大地と海が温まるまでに多少時間がかかるためのものである。

赤道直下は秋分の日9月22日前後が最大の日の長さになるのだが、実際にこの地域が暑くなるのは、さっきの日本の例とおなじく、この日から1ヶ月ちょっと後の話である。つまり11月くらい。

新型コロナが中国で確認されたのが12月の末ということを考えると、その時期に最も暑かった地域は、赤道よりもやや南方、インドネシアのジャカルタあたり。

●赤道の南中に太陽は真上= 9月22日
赤道の最も暑い頃 =11月
●南回帰線の南中に太陽は真上=12月22日
南回帰線の最も暑い頃=2月
●つまり赤道と南回帰線の間にある地域が、今回コロナの流行った時期にもっとも暑くなり、日照時間も長いということになる


逆に考えると

●北半球では12月22日がもっとも陽が短い。
●温度で1番寒い日は、おそらく冬至から1ヶ月ちょっとなので2月。
 
この現象は緯度が高ければ高いほど顕著になる。
白夜極夜という言葉がある。これは緯度の高い北欧などの北極圏では、夏は一日中陽が沈まず、冬は一日中陽が登らない日のことをいう。

近年コロナウイルスが太陽光と湿度に弱いなどと米国の研究によって報じられている。
アメリカやヨーロッパの被害が大きいのは様々な要因があるが、とにかく陽が短く寒い。北欧やロシア、カナダなどは日照時間や温度・湿度的にはそれよりさらに顕著である。
逆に赤道直下よりも少し南、インドネシアのジャカルタあたりから、南回帰線あたりの北オーストラリアあたりまでの地域は、この頃は日照時間も長く暑く、湿度も高い。
東南アジアなど、中国人の華僑が多い為、中国発のコロナは国民の多くが感染してもいいはずである、、、が、あの人口密集のシンガポールですら、死者は少ない。

とすると、、、北半球も夏至〜8月にかけて、ウイルスの活動はかなり弱まるのではないか?すなわち、あと2ヶ月の辛抱ということにならないか?ウイルスの絶対量が減れば、重篤になりにくくなるということであり、死者は激減するのではないか?

南アメリカでもブラジルはともかく、南回帰線上にある国の死者は少ないようにも見える。アフリカも同様である。

ちょうどコロナは夏至の日あたりにはじまった。それは南回帰線上の地域がもっとも1日の日が長いことを示し、その日から1〜2ヶ月後には温度が最大になることでもある。
つまり、逆を言えば南回帰線上にある国は、これから半年後にはコロナが流行ってしまうかもしれないということでもある。
アフリカ、東南アジアの南側、南アメリカ、オーストラリアはこれから数ヶ月後が試練になるのかもしれない。



オゾン層と温暖化

2020年05月01日 03時02分00秒 | 世間話
https://gigazine.net/news/20200430-largest-arctic-ozone-hole-closed/

オゾンホールが急速に消えたらしい。記事によるとコロナとは関係ないとのこと。しかしわ私はこの無関係との記事に極めて懐疑的である。
コロナによってユーラシア大陸の生産活動の激減によってベネチアや各地の海が綺麗になったというニュースがある。普通に考えると北極圏のオゾンホールが消えたのはユーラシアの工場減産や自動車の排気ガス減少と関係があるとしか思えない。
ただし、急速にオゾンホールが消えたというのは驚きだ。いくら人類の活動が瞬間的にかなり制限されたとしても、こんなに回復力が早いものなのか?

私の推測では、たぶんそうなのだろう。
つまり世界がこのレベルで産業活動などを自粛したら自然はこの速度で回復するのだろう。しかしそれを人民に知られてしまったらマズイとおもうから「関係ない」と言っているのではないか?

そう言えば、地球温暖化はどうなったのだろうか?今こそ絶好の検証のタイミングだとは思うが、ニュースで大々的に取り上げられない。もしも温暖化の要因の多くが人為的な生産活動や消費活動にあるとしたら、今回の2ヶ月間の自粛はかなりの温室効果ガスの削減になり、温暖化は抑制されるというデータが出るのではないか?

しかしこのような絶好な機会に、その検証を調べて報道に流すところは今のところない。

おのオゾンホールのニュースによって、温暖化情報の検証も取り上げられることを望むものである。


ありました。半減だそうです。言葉の定義に従えは例年の半分ということになる。
後の半分は微生物や太陽活動なのでしょうか?この半減を多いと捉えるか、意外と少ないと捉えるかは人によって意見が分かれそうである。
半減が長く続くと温度が下がるのかどうかが関心があります。学者とか取り上げてくれないかな?



輪蔵

2020年04月29日 20時15分00秒 | 長野旅行記
善光寺にある輪蔵。チベット仏教のマニ車と同じもので、一周まわすと経典を全て読んだことになるようだ。


マニ車がいつ成立したのかは分からない。
1人で回すことになるが、結構重い。

前川喜平氏 ろくでもない世帯主がゴロゴロいる

2020年04月27日 03時05分00秒 | 政治 経済
https://www.daily.co.jp/gossip/2020/04/25/0013297755.shtml

 前川氏は「世帯主への一括給付は大問題。ろくでもない世帯主はごろごろいる」と世帯主が全額を使ってしまう可能性を危惧。

ですとのこと。

  ワタクシは「政治家や官僚への委任は大問題。ろくでもない公務員はゴロゴロいる」と官僚や政治家が国民に代わり政治を担うことを危惧。






根本海岸

2020年04月26日 02時06分00秒 | 世間話
千葉県の南端、館山の根本海岸。
この地は地層的には新生代新第三紀あたるもので、古くても今からおよそ2300万年前のものである。東日本には日本海溝と南海トラフがあり、プレートの沈み込み帯で剥ぎ取られた付加体が日本列島の海岸の陸地を作る。その付加体を合わせれば、千葉県南部の地層は白亜紀の付加体も含まれるという。
とはいえ、この地の地質は砂岩と泥岩、礫岩のミルフィーユであり恐竜の化石などはほぼ見ることはできない。
新生代新第三紀、第四紀は地殻変動による大地の隆起と、氷河期における河川の侵食くらいのものしかなく、恐竜時代のダイナミズムは無い。

さて、館山のこのあたりは海岸段丘で有名な土地である。館山から陸の方をみると、大地が階段状に段丘がいくつも形成されているのが見える。


以上のようなメカニズムである。

こうしてみると、日本列島全体が付加体という見方も可能であり、事実列島は太平洋側の陸地かは日本海側への陸地に行けば行くほどだいたいにおいてその地層は古くなる。

海岸段丘は以上のメカニズムをたどるのだが、もう一つ河岸段丘という別の段丘上がある。


これは河川による段丘形成のもので、メカニズムは大地の隆起と水による侵食といったように海岸段丘とおなじようなものだ。あと違いがあるとすれば、氷河期と温暖期の河川の流量の違いによる侵食の度合いである。






空からみた根本海岸。







夏の大三角

2020年04月25日 01時17分00秒 | 世間話
4月22日〜23日の明け方にこと座流星群が極大になるという情報を今更知った。
ただ幸運だったのは、本日明けて25日の午前0時50分ごろ、南の空に火球を見ることが出来た。流れ星の巨大なものである。すぅーっと尾を引いて、空を縦に横切っていった。



方角は、うしかい座アルクトゥルスから乙女座のスピカに向かって明るく見えた。

画像はiphoneの「星座表」アプリから。このアプリが優れているのは、夜空に端末を向けると、その方向にある星座と恒星が名前付き表示される。肉眼でただ空の星を眺めているだけでは、どの星が何の星だかわからないが、これをつかえばすぐ分かるというところが良い。
さらに、橙の点線は黄道(太陽の通り道)を示しており、12星座の登ってくる順までがわかるという仕様である。

冒頭の写真は夏の大三角。ベガ、デネブ、アルタイル。七夕伝説による織姫、彦星はベガとアルタイルを指す。
本来は夏の星座だが、現在の春でも深夜の1時あたりになると東の空から登ってくる。

街中なので、天の川はほとんど見えない。



生物と無生物のあいだ

2020年04月23日 12時28分00秒 | 世間話
2007年に刊行された少し古い本。DNAによる生物の複製と生命は動的平衡だという話。そしてウイルスなどについても言及がある物語形式の本となっている。
現在話題になっているPCRについての話も出てくる。今日の新型コロナウイルスの話にも繋がる情報が書かれていて興味深い。

分子生物学の専門書ではなく、素人にも分かりやすく書いてあるが、すこしだけ読むのに難儀な箇所もあるが、我々の生命観を変えてくれる本であり名著だと思う。

正直な話

2020年04月23日 05時32分00秒 | 政治 経済
ブログの書き込みは公の言動に属する。なので正直すぎる話は不謹慎、不適切という誹りを免れない。

そのプレッシャーを最も感じているであろう人は、政治家であり、専門家であり、学者であり、著名人であり、テレビ司会者であり、経営者であろう。

巷はコロナの話題である。なにしろ安全とリスクである。安全を極限まで追求したいというのは人の願いでもあるし、他の要因が侵されない限り、ひとは極限まで追求してもよい。

日本は安全神話というものがあった。例えば原発についてもそうだった。食品の安全についてもそうだった。BSEの肉が怖くて外国産の肉も全頭検査をクリアしないと入れられなかった。医療や健康保険などを重視して、ほとんどの国民は死ぬときは病院でそれなりの医療にかかって病院で死ぬというのが常識となるほどのリスクの回避ぶりである。しかし、そのような神話は、東日本大震災や食品偽装問題、東日本の去年の台風被害、そしてコロナによって神話ではなくなった。

まるで、人間が制御すれば、全てのリスクは極限まで回避できると錯覚させるほどに、人々は安全であることを求め、安心したかった。

この国民の安全に対する信仰ともよべる執着は、おおくの政治家や専門家、著名人、経営者にとっては無言の圧力になったに違いない。ポピュリズムという言葉があるが、ポピュリズムとは無言の圧力がかかるという点がある。もちろんポピュリズムを利用して、事故の栄達を図ろうとする政治家や専門家、著名人、経営者などもおり、因果の全てをポピュリズムの圧だけに求めるのは正しくはない。

しかしながら、この無言の圧力に上記の方々は真っ向から抗うことはできなかったことは事実である。オブラートに包まず、有り体に言うと
「国民はアホちゃうか?」ということを政治家や専門家、著名人、経営者は言えないということである。

現在の世の中には、国民一人一人が実は放送局を持っている。SNSとかブログと言われるものがそれであり、みな好き勝手に自分の意見を公開できる「放送局」である。この放送局は実は公私の区別があまりついてなく、放送法にも基本は縛られない自由度がある。つまり節度なく私の意見を垂れ流しても何ものにも規制されないという、ある意味無法地帯でもある。
政治家は、政党や国民や企業などの人々や法律によりその言動を規制されているし、経営者は消費者や法律などによって言動を規制されている。多くは国民やお客あってのものである。それらの掣肘を受けるので、公的な役割をする圧がかかっている。圧がかかっているメリットは、それによって自己の行動を自制できるという自浄作用がある。
しかしながら、個人の放送局で好き勝手に意見を流しているブログやSNSでの書き込みは、基本的には規制はない。そりゃ著しい誹謗中傷や行き過ぎた扇動、あるいはプライバシーの侵害などがあった場合には法律により規制され罰せられる時もあるが、それは上気した政治家や経営者、専門家にも同様に課せられている。問題なのは、その個人の放送局には、誰かからの掣肘というものがない点である。客におもねる経営者。国民のおもねる政治家のような、あるいみポピュリズムではあるが、同時に自浄作用にもなる干渉がないということは、悪い言葉で言えばのさばらせることにもつながる。

さて、この個人の放送局と、安全イデオロギーが結託した時に何が起こるか?
それが、今回の新型コロナウイルスの騒ぎであろうと思われる。
今回のコロナ事件を「人災」と見ることは可能である。誰が引き起こした人災なのか?政治家か?それもあるだろうが、それはみんな知っているからあまり問題ではない。あまり知られていないのは、国民が引き起こした人災である。

感染リスクは極限まで0にしなければならない!という信仰に基づいてそれぞれの「放送局」が騒いだ時、それを掣肘できるものは構造上=システム上は誰もいないということを、皆様はご存知だろうか?
違う言い方をすれば、マスコミは国民を扇動するが、国民は同じ国民や政治家や専門家や経営者を扇動する、ということである。

政治家や専門家、経営者には覚悟が必要である。つまり誹りを受けて、責任を追及される覚悟もだろうし、職を失い露頭に迷うという覚悟もだろうし、命令、指示をしたことの失敗に対する責任という覚悟もである。確かにこの覚悟は、いまの政治家や専門家、そして経営者は薄くなってきていることは確かである。武士のように腹を切ってお詫び、というほどの覚悟はあるまい。

しかしながら、個人の「放送局」で騒ぎ、他人の責任を追及する人達(国民)の覚悟は、構造上=システム上存在しないので、そもそもその言動には覚悟はいらないのである。
収益化した「放送局」になって初めて構造上の覚悟が現出するが、それまではこのメディアには覚悟は必要ない。そもそも匿名で意見をかけるのだから尚更である。

安全第一を金科玉条のものとすると、以下の例については、その安全第一がマネジメントではなくて信仰に変わる。

安全度が0〜100までの100段階あるとする。現状が仮に50としよう。これを80に上げるには100のコストを支払わなければならないとする。80から90に上げるには1000のコストを支払わなければならないとする。安全度をある一定の数値以上にあげる場合、そのコストはある閾値を超えるとそのコストが指数関数的に増大する。安全度90〜95まで上げるとなると10000のコストを要し、95〜96まで上げると100000のコストがかかるとする。

さて問題だが、安全度を幾つに設定するべきか?

この質問は、人命がかかっているときには不謹慎な質問となりえる。人命がかかっていない政策や方策であれば、これはマネジメントの話で終わるが、こと人命がかかっているテーマについては、

【安全度を幾つに設定するべきか?】

は不謹慎な質問になりうるのである。
国民の「放送局」が、安全度は極限まで!リスクを限りなくゼロに!と叫ぶなら、それを達成するためのコストは理論的には無限のコストとなる。
したがって、「リスクを限りなくゼロに!」という「放送局」の願望や意見は、理性ある回答ではなく、それは信仰に属するものである。
しかしながら悲劇は、その信仰の吐露に対して、誰も掣肘出来ないことにある。

その信仰に対して、政治家や専門家や経営者は忖度せざるを得なくなる。まさに安全神話とは言い得て妙である。安全の信仰に他ならない。そして掣肘されない「放送局」の声なので自浄作用がない。
「覚悟」がないのである。リスクを極限まで減らせば、人は不老不死でいられると錯覚しているのだろうか?多分「放送局」の人はそう錯覚しているのだろう。

これが今回のコロナについての私の正直な話であるを