Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

強行軍の始まり1 (七日目:8月28日)

2008年09月23日 00時50分43秒 | クロアチア旅行記2008年8月
前日の閣議決定(?)の後、私は地図とにらめっこをして、今後のギリシャ入りのルートの検討に入った。一応おおまかに立てたルートの計画は、以下の様なものであった。

まずモンテネグロの首都Podgoricaを通過し、E65-E80号線を北上し、Moraca川沿いの渓谷を走り、Bijelo Poljeを通ってモンテネグロ国境を越えてセルビアに入り、UziceとCacakを抜けてNisを通過し、ブルガリアの首都Sofiaを経由してギリシャに入るというものだった。(地図の白線のルートがそれである)
 ギリシャに入るためには、二カ国を渡らないと行けないのである。なんとも壮大なプランになってしまった。

このルート案を、前日の夜に完成させて、その夜はぐっすりと就寝。翌日8月28日、七日目の朝。ホテルで朝食を摂り、早速出発する。

(後に、この計画から大幅に逸脱したルートに変更される事になろうとは、この時は予想だにしていないのである)



写真は、Podgoricaを通過して、Moraca川沿いの渓谷に差し掛かった辺りである。

Cetinjeにて一泊

2008年09月22日 16時48分58秒 | クロアチア旅行記2008年8月
Lovcen山の麓で日が暮れたので、近郊で宿を探す。Cetinjeの町で、3人部屋で80ユーロ(約13200円)というものがあったので、そのホテルで一泊することにした。写真はビデオから落とした画像で、Cetinje中央部である。



画像は同じくビデオからのもの。Cetinjeにある小さいマーケットである。
この夜、ホテルに帰ってから作戦会議を開く。内容は、明日以降の旅程についてである。既にクロアチア、モンテネグロの主だった見所は廻った。この後どうする?

1:モンテネグロの2000メートル級の山々をドライブし、ボスニア・ヘルツェゴビナに寄ってモスタルの町を見るというコースにするか。
2:それともセルビアの首都ベオグラードを抜けてハンガリーに入り、田園風景を見るコースにするか。
3:あるいは、このまま一気に南下して、ギリシャのアテネを目指すか。
 
 私が立てた当初の計画は1である。ところがこの旅行中、家人から3の可能性についてたびたび言及され、盛り上がった事もあった。旅程としては1がもっとも優雅に廻ることが出来る。2は多少強行軍になる。3は半ば無謀な旅程である。なにしろここCetinjeからギリシャのアテネまでは片道約1000キロもあるからだ。ところが衆議の結果、3が採択されたのである。この日は8月27日(六日目)の夜である。翌日28日に出発するとして、9月2日にはザグレブで飛行機に乗らなければならない事を考えると、28日~1日までの5日間の時間がある。5日で往復2000キロ走っても、辿り着くのはここCetinjeである。ここからザグレブまでさらに戻らねば飛行機に間に合わない。Cetinje~ザグレブの距離は約900キロ。要するに5日で2900キロを走る計算になる。一日に約600キロ走る、それがコース3の内容である。それが今まさに採択された。キ印である。スラブの毒気にあてられたのか、この旅程はよほどのキ印でないと選ばない(笑)。
 旅行はここから、完全なるアドリブと化した。今までもかなりアドリブだったが、それなりのレールには乗っていたワケで、どこで何を見る、ということはだいたいは決まっていた。今やそのタガは完全にはずれたのである。



翌朝(28日)の朝のホテルの中にある売店の風景。ホテルの部屋もそうだったのだが、なんとなく社会主義的名残を感じないだろうか?普通売店にはPOPやポスターで商品を訴求をするものだが、この無機質な売店はどうだろう?
 観光地コトルを見たときには感じなかったが、観光地とは縁遠いここCetinjeを見ると、多少クロアチアとは違った一面を垣間見ることが出来る。

山頂の建物

2008年09月22日 03時08分43秒 | クロアチア旅行記2008年8月
石造りの建物の内部はこうなっている。二つの石造は、モンテネグロの典型的な伝統衣装をまとった男女という事だった。
そんな事よりも気になるのは、写真の右下にいる子ネコである。




・・・寝てる。ちょうど段差があるところで寝てる。この段差の場所ではかえって寝にくいのではないかと思うのだが、一向に構わない様子だ。モンテネグロのネコでした。



建物内部の一室に入ると、ご覧の通り。なるほど、入場料の大半はこの建設に対する費用なのか。余計なものを作ったものである。イコンというタイルを敷き詰めたモザイク天井が、正教会のドームなどに良く見られるが、これも同じようにして作られている。歴史的価値などまったくないのに、贅沢に作ったものだ。日本の公共建設の無駄遣いと本質的に何ら変わらないのではないか?もったいない。



モザイクの拡大写真。モンテネグロの経済もまだまだ発展途上だろうに・・・。こんな所に金をかけちゃって。

Lovcen山頂に到着

2008年09月21日 03時38分03秒 | クロアチア旅行記2008年8月
山頂付近の駐車場に到着し、あとは徒歩で山頂に行くしかない。山頂へは駐車場から石階段を登っていかなければならないが、これが結構キツイ。およそ300階段くらいは登ることになる。平地なら大したことはないのだが、ここは海抜1500メートルくらいあるので、空気が多少薄い。
 山頂付近には石造りの建物があり、山頂へ最後の道を塞いでいる形で建っている。ここから先に行くには料金がいるという。料金は忘れたが、たしか一人3~5ユーロ(500~800円)取られた。写真は料金を払って入った山頂の一角。360度のパノラマ風景が一望できる。写真では表現できないパノラマの美しさがあった。
 ところで写真を良く見て欲しい。ここにはなんと手すりが無いのだ。眼下は崖である。突風が吹いて飛ばされたら一巻の終わりである。たしかに手すりが無いほうが邪魔な障害物がない分、写真を撮るのには好都合だが、安全管理というものの考え方が日本とはまるで違う。今まで事故が起きなかったのだろうか?



山頂からはるか向こうに見える山々を撮影した。多少逆光ぎみになっているが、もやがかかって面白い雰囲気の写真になった。



写真はビデオから落とした静止画を連結したパノラマ画像である。

コトル近郊の山「Lovcen」へ

2008年09月20日 16時02分47秒 | クロアチア旅行記2008年8月
コトルの城壁沿いの山道を登って、城塞まで行きたかったのだが、家人の「あんなに歩くところは勘弁してくれ」という反対にあって、やむなく断念。そこでコトル近郊にある山「Lovcen」頂上まで車で登ることにした。写真はその途上からのものである。湾の右側でわずかにでっぱっている町がコトルである。既に多少紅葉が始まっている。



この写真は、ビデオ画像から静止画に落としたものである。家人の持つソニーのハンディカムである。車の中からの撮影なので、フロントガラスがフィルターになって景色が緑がかっている。この道もsvetiRokの道と同様に、鉄製のカードレールではなくて、石のガードレールで所々が歯抜けになっており、しかも低いのだ。景色は申し分ないのだが、ちょっと怖い。



山頂に向かう途中、近くの山から白い煙がのぼっていた。まさか山火事では・・・?

コトル到着

2008年09月20日 01時56分52秒 | クロアチア旅行記2008年8月
モンテネグロの名所コトルに到着。
モンテネグロに入ると、運転マナーがクロアチアとはまるで違うことに気付く。
一言でいうと、クロアチア人の運転は荒い。飛ばし屋が多いし、クラクションはやたら鳴らす。これがモンテネグロに入ると、車はあまり飛ばさない。荷物を積んだトラックに至っては、時速40キロくらいでテレテレ走っており、渋滞を引き起こすほどである。交通の取締りが厳しいのか、それとも国民性なのか、クロアチアに比べるとゆったりとしている。
写真はコトルの旧市街付近にある城塞である。この写真では見えにくいので、下に拡大した写真をUPする。



omisでもstonでもそうだったが、アドリア海沿岸に建てられた城塞は異常なくらい堅牢に造ってある。山の上に建っているだけでも十分なのに、なぜ山に城壁を張り巡らすのか。病的なくらい徹底している。それだけ中世のアドリア海湾岸都市というのは儲かったのかもしれない。だとすると、ビザンティン帝国・ヴェネチア共和国やオスマン帝国がアドリア海沿岸に影響力を持ちたかった気持ちも良く分かる。要するに、戦国時代の堺のような都市がアドリア海にはゴロゴロあったという事なのだろう。



旧市街にある教会。屋根の十字架を見ると、「キ」のようなマークになっている。これは八端十字架と呼ばれ、スラブ系の正教会で用いられている。ギリシャ正教会ではほとんど使われていない。

湾岸都市に異常なまでの城壁を張り巡らす癖を持つ、スラブの人たちの、信仰の対象である十字架が、「キ印(笑)」なのにはある意味得心がいくかもしれない。(爆)
 これは冗談。

モンテネグロ入国 (六日目:8月27日)

2008年09月19日 03時26分43秒 | クロアチア旅行記2008年8月
8月27日。この日はいよいよクロアチアの国境を越え、モンテネグロ共和国に入る。入国審査は実にアッサリしたものだった。さて、この国はつい2年ほど前まで「セルビア・モンテネグロ」と呼ばれ、現在のセルビア共和国と連邦を築いていたが、2006年に国民投票を行いモンテネグロとして独立する。コソボを除けば、最も独立が遅かった国である。
 ここで、ユーゴラビアの名称の歴史を簡単に振り返ることにする。ここバルカン半島では、20世紀から21世紀の間に何回かユーゴスラビアという名称を冠する国家が出現している。まず最初のユーゴらしきものは、第一次世界大戦終結時にさかのぼることができる。第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、バルカン半島にはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立した。これは南スラブ人王国の構想によって成立した国で、1929年のユーゴスラビア王国の前身である。
 ユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦のナチス侵攻により王がロンドンに亡命、実質的に滅亡する。大戦末期にチトー率いるパルチザンがナチスを実力で追い出す。チトーは王の帰国を拒否、亡命政権も否認してユーゴスラビア人民共和国を打ち立てる。1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変わる。連邦はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国とボイボディナとコソボの2つの自治州によって構成された。しかし1980年にチトーが死ぬと、分離独立の機運が一気に高まる。1991年から92年にかけてスロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナが相次いで独立する。残った国(セルビア・モンテネグロ・コソボ)で連邦を組み、1992年にユーゴスラビア連邦共和国が設立された。そして2003年、ユーゴスラビア連邦共和国は解体。セルビアとモンテネグロはゆるやかな共同国家となる。これが「セルビア・モンテネグロ」である。そして2006年、モンテネグロで独立の国民投票が行われ、規定値を満たしモンテネグロは独立する。この後2008にソコボも独立することになるのである。

ユーゴスラビア王国の時代は、第一のユーゴ。
チトー政権下のユーゴスラビアから1991年のスロベニア・クロアチアの独立までの時代は、第二のユーゴ。
スロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナ独立後のユーゴ連邦を、第三のユーゴ。または新ユーゴ。

ユーゴスラビアという名称の国は、主にこの三つに分類される。そして2003年に「セルビア・モンテネグロ」という共同国家になった時点で、ユーゴスラビアという名前の国家は消滅したと言って良い。

このような流れで見てみると、モンテネグロの独立は非常に遅かったということが分かる。ほとんど最後まで、セルビアと行動を共にしたのである。にも関わらず、モンテネグロの風景、町並みや暮らしぶりの水準を見ると、クロアチアのそれとあまり変わりない。写真はRisanからKotor(コトル)の間に位置するperast近郊である。



コトルは地図を見れば分かるように、湾の奥に位置する町である。途中、非常に狭い水路を通ることになる。湾岸の道は回りこんでいるために、移動に時間がかかる
ため、この狭い水路あたりの場所には連絡船が通っている。私は景色を堪能するために、この連絡船には使わなかった。



湾内に小さな建物がある島々が見える。その後ろには上述した狭い水路が写っている。右の山と左に少しだけ見える山の間にある水路が、地図上にある一番狭い水路である。この湾内の景色はまさに絶景である。この日はガスがかかっていて、写真的にはクリアーではないが、それはそれはキレイな所である。

ドブロブニク旧市街の夜景

2008年09月17日 19時56分11秒 | クロアチア旅行記2008年8月
昼間と同じ通りを夜に撮影。時刻は夜中の12時を既に回っている。それにしては人が多い。地面は濡れているわけではない。昔からの人の往来の多さの為に、地面の石は磨かれてしまっているのである。それが夜のライトに反射して、このような写真になるのだ。



こちらは路地裏の写真。写真の上側には十字架がライトアップされているのが写っているが、この十字架はスルジ山頂に建っているものである。黒い空に浮かび上がる白い十字架。なかなか美しい。

アドリア海の真珠 ドブロブニク2 (スルジ山)

2008年09月17日 03時29分19秒 | クロアチア旅行記2008年8月
既に時刻は午後3時、太陽は西側に傾きつつある。この建物の写真は東側なので順光になっていて、空が一層青く見える。



時系列はバラバラになるが、旧市街散策の前、午後2時ごろにドブロブニクの向いにある山「スルジ山」に車で登る。スルジ山頂上までは徒歩の道もあることにはあるが、1時間は要するだろう。かつてはケーブルカーが頂上まで通っていたが、内戦時に破壊されてしまった。その残骸は現在まで取り壊されずに残っているが、美しくないのでその写真はUPしない。



写真はスルジ山頂の要塞跡からの眺め。実は私はこれが見たくてクロアチア旅行に決めたのである。

アドリア海の真珠 ドブロブニク

2008年09月16日 18時07分55秒 | クロアチア旅行記2008年8月
クロアチアのハイライト、アドリア海の真珠と謳われた町ドブロブニク。文字通り海に浮かぶ町であり、海の要塞でもある。旧市街には車を乗り入れることは出来ないので、旧市街手前の有料パーキングで車を止める。この日は火曜であるにも関わらず、パーキングはほぼ満車状態。なんとかパーキングに車を乗り入れる。駐車料金は一時間5クルナ(約115円)。



建物の様式や通路の排水溝、石畳の道の作りは、ヴェネチアのそれと非常に良く似ている。それもその筈、ドブロブニクは11世から14世紀半ばまで、ヴェネチア共和国の影響下で発展したのである。そして14世紀後半には、ヴェネチアから脱してラグーサ共和国を建てるが、15世紀にはオスマン帝国がバルカン半島に進出し、ラグーサ共和国はオスマン帝国の影響下に入ることになる。十字軍を利用して台頭したヴェネチア共和国は、後にオスマン帝国の浸透によって没落する。学校の歴史で少しだけ触れた内容のものが、ここドブロブニクで実物の建物を見て触れることによって、少しだけだが確認することが出来るのである。



看板

2008年09月15日 17時35分04秒 | クロアチア旅行記2008年8月
走行中よく目に入る看板である。おそらく山火事注意のサインか、あるいは焚き火禁止のサインか、それとも両方かのいずれであろうと思われる。ダルマチア地方の7月と8月は一年の中で一番降雨量が少なく、しかも乾燥しているので、マッチ一本火事の元である。
車に「HR」のステッカーが貼ってある。これはクロアチアの国を表したもので、英語ではCroatiaだが、クロアチア語ではHrvatskaと表記する関係上、ステッカーもCRではなくHRになっている。

ストンの町

2008年09月15日 00時55分02秒 | クロアチア旅行記2008年8月
車はストンに向かう。この辺りはカキの養殖が盛んであるらしい。写真の中に写っているブイは、おそらくカキを養殖しているものだと思われる。ただの湾の入り江に過ぎないが、海が青い。



ストンに到着。山頂には城塞がある。オミシュの町でも見たが、相変わらずすごい所に建っている。そして城壁が山を一周取り囲んでいる。まるで万里の長城である。ダルマチア地方の城に対する防衛思想は一言でいうと「極端」である。これはノルマン人に対する防御だったのか?はたまた、ヴェネチア共和国に対する防御だったのか、もしくはオスマン帝国に対する防御だったのか。いずれにせよ、これほどまでの防御力を備えた施設を私はほとんど見たことがない。



ここで昼食。さっそくクロアチアのカキ注文した。出てきたカキは・・・小さい。
つい日本のカキと比較してしまう。日本のカキは外殻も厚く身も肉厚であるのに対して、クロアチアのカキは全体的に薄い。味もちょっと薄い。やはり外国で日本人の舌を満足させられるシーフードはなかなか無い。

国境越え(五日目:8月26日)

2008年09月14日 04時44分41秒 | クロアチア旅行記2008年8月
五日目の最終目的地は「アドリア海の真珠」とも謳われているドブロヴニクである。しかし、ドブロブニクがある南ダルマチア地方は、ボスニア・ヘルツェゴビナによって分断された飛び地である。南ダルマチア地方に行くには、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を越えるしかない。ボスニア領はわずか10キロ程度で通過できるけれども、きちんと国境のゲートはあるし、パスポートのチェックもしている。
 写真はボスニア領から見た国境。国境では写真撮影はご法度だが、ちょっと離れた所で車を止め、車内からヒッソリと撮影した。この国境付近のボスニアの領土は、ボスニアでは唯一アドリア海に面した土地である。



ボスニア領をサッサと通過して、クロアチアの飛び地である南ダルマチア地方に入る。写真はクロアチアの田園風景。ネウム近郊にある、この田園地帯は一面に畑が広がっていて美しい。水路も一直線に伸びていて、思わず写真をパチリと撮る。

ホテル争奪戦(四日目)

2008年09月13日 03時36分06秒 | クロアチア旅行記2008年8月
四日目の夕方、おそるべき事態が起こった。なんとホテルをあたれどあたれど満員だというのである。omisから海岸線沿いに走り、町や集落でホテルをあたる。軽く10軒くらいのホテルに「今日は満員です」と門前払いを食う。8月25日は金曜でも土曜でもない。クロアチアの特別な日でもない。なんの変哲もない、ただの月曜日である。にも関わらずホテルは満員。そりゃオーシャンビューのホテルを望んだということはあるが、それにしても異常である。空き部屋のあるホテルが見つかったのは、午後8時30を過ぎた頃であった。完全にバタンQである。

写真は翌日早朝の部屋からの眺め。昨日はこの景色を拝めていないので、もったいないことをした。