https://news.yahoo.co.jp/byline/daisukekawasaki/20200607-00182173/
スマホアプリの「スマートニュース」からの記事である。最近、スマートニュースを読んでいて感じるのは、記事の一つ一つの文面が長文になっていることが多い。
コロナによる緊急事態宣言以降にこの傾向は顕著な気がする。私も政府に対して、国民に対する補助がシブチンなこともあり、同様に長文で感情をまくし立てた。なのでこの傾向も同じことなのだろう。つまり必死というか一生懸命、または感情的になっているのである。
著者はこういう。
【「差別はやめましょう」と諭して仲裁するような運動――では「まったく」ない。】と。
同時にこうも言う【これは「怒りの」運動だからだ。不正義を正すための「戦い」だからだ。】
言わんとしていることはわかる。この事件を、いつもニュースで流れるようなお題目的な「かわいそう」「ひどい」という事で片付けたくはないのだろう。つまりここに一生懸命さが現れていることはよく分かる。
そして「この問題は対岸の火事ではない」といういつものお題目が出てくる。人類皆兄弟、日本人だから関係ないという態度は許されないというような強い主張がついている。無言でいることは「人の尊厳に対する根源的冒涜行為を容認する」ことになると主張している。
言いたいことはわかる。それだけ必死なのだろう。自分の近しい対象に対する冒涜があった場合には、私もこれと同様のことを言うかもしれない。著者にとっては黒人問題は、人類の普遍的な人権に対する冒涜行為と捉え、他人事ではなくて明日は我が身、もしくはこれに賛同しないものは不正義だと言わんばかりである。必死さゆえの感情的な意見の吐露である。
その感情は尊重できなくはないが、この感情が「同一の意見をもて!」という強制力を伴った物言いになったときには、注意が必要である。
不正義を見過ごすものは不正義だ。だから正義の言動をしなければならない。
著者の主張はかならずしもこうではないだろうが、こういう解釈の余地が強い表現をとっている。おそらくは感情的になっているからであろうが。
これの何が問題かといえば、著者はたぶん気づいていないのかもしれないが、どんなに善意から発生した意見であっても、「同一の意見をもて!」とやった瞬間に、そこに悪が入り込むのである。
善とか悪とかはただの言葉である。善悪論争で問題になるのは、いつも「同一の意見をもて!」という事を、善悪両陣営が行なっているからだろう。
別にこれをやめろとは言わない。なぜなら自分の最も大切な家族や自分自身が冒涜的立場に置かれて隷属を余儀なくされた場合には、「自分は今の境遇から解放されるべきだ」という強い意志を、まわりに同調させようとするはずだから。その点において、「同一の意見をもて!」という正義を自分は持つ事になり、従って著者の意見を完全には排除はできないのである。
問題は、どこまでを一人称、二人称としての問題と捉えるかである。
一人称や二人称の「虐げられた」という感覚は、私にとっては大事件である。私が虐げられたのは勿論として、(私にとっての)あなた、君という近しい存在が虐げられることは大事件なのである。
やばい論理展開を私が今やっていることは自覚している。この主張は、私の意図とは違った解釈を他人に与える危険性があることは承知しているが、一応最後まで述べさせてほしい。
さて、これが三人称、つまり彼、彼らになるとどうだろう?地球の裏側で、報道されることもなく、知らされることもなく起こる虐げられた事件については、我々は知らなかったりもしている。
つまり、ここで私がいう二人称と三人称というものの違いは、どれだけ親しい間柄かということも言っているが、同時に、どれだけ世界で起こっている情報を知っているか、そしてそれを知った時にどの程度二人称のような気持ちになることが出来るか?
ということである。
両親の死と知人の死と赤の他人の死とでは、自分に与える影響は異なる。これは理屈ではなく感覚である。本当は世界のどの人たちとの間でも、二人称の気持ち(つまり両親を失った時のような気持ち)になれたら素晴らしいとは思う。そういう気持ちをもっても損をしない社会が世界に広がっていれば、そうなりたいとかなりの割合の人が思っているだろう。
記事はこのように続く
【~ひとまず、前編はここまでだ。後編にて「制度的人種主義」の本質および、いかに日本が「ある種のレイシズム」の総本山であるのか、解説してみたい。】
論法構成は以下の通り。
●黒人差別の事件があった。
●これを差別で片付けてはいけない。これは人の根源的冒涜行為の問題
●他人事は不正義。同じ意見をもて!
後編の予測
●制度的人種主義はナショナリズム。
●日本が「ある種の」レイシズムの総本山
この論法はどうも眉唾だ。
この論法をみると、今回の黒人の事件をきっかけにして、最後の「日本がある種のレイシズムの総本山」という主張こそが著者の主張の中心ではないか?と疑いたくなってくるのだ。
著者の記事を好意的に解釈するのであれば、かれは世界の人々全てを二人称のように考えていることになる。この前提から出発するのであれば、彼の怒りはわかるし、かれが「同一の考えをもて!」というような気持ちを押し付けるのも無理はないと思う。
しかしだとすれば、著者はこの社会では生きていけないだろう。この世の不公正を被る人間を、二人称で考えていたら、経済活動などそもそも罪深くて行うことはできないだろう。先進国は他の発展途上国を経済的には割合の違いはあるが利得を貪っているきらいがある。差別で片付けることなく、そこまで問題を拡大するなら、そう断じざるを得ない。
「同一の意見をもて!」
このイデオロギーによって、どれだけの血が流されたのか。
勿論、今回のアメリカで起こった出来事は、我々にはある問題を突きつけたことは確かである。そういう意味では対岸の火事ではない。しかしその問題の感じ方は、人によって大きく異なる。人によっては重く、深く受け止めるだろうし、場合によっては世界の見え方が変わってしまうということもあるだろう。
しかし、理屈でもって
これが正しいから、同一の意見をもて!とやると、その切実な願いはとたんに、いつものイデオロギーに落ち込むのである。
人のふり見て我がふり直せ。
というところかもしれない。