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ミュンヘン安全保障会議

2025年02月19日 11時52分49秒 | 政治 経済
この会議は第2次ミュンヘン会談と揶揄されている。

備忘録としてwikipediaのミュンヘン会談のくだりの一部を添付しておこう。

フランス首相エドゥアール・ダラディエは、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンにヒトラーを含む首脳会談の開催を提案した。チェンバレンは戦争回避のため自らドイツに出向いてヒトラーと会見する意志を固め、9月15日にベルヒテスガーデンでヒトラーとチェンバレンによる英独首脳会談が行われた。次の首脳会談までの間武力行使は行わないというヒトラーの約束をとりつけたチェンバレンは、内閣と協議するため一時帰国した。
一方でフランスおよびチェコスロバキアと相互援助条約を結んでいたソビエト連邦は、ルーマニア領とポーランド領をソ連軍に通過させることを条件として、チェコ支援の姿勢を示した。しかしベッサラビア問題でソ連と係争中のルーマニアはソ連軍を公然と領土通過させる事を認めなかった[7]。またフランスも反共感情が強いイギリスに配慮する必要があった上に、大粛清で国力が低下していたソ連に頼ることはできないと考えた[7]。ソ連もやがてチェコ問題に介入する熱意を持たなくなった[8]。
チェンバレンはチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相ダラディエと外相ジョルジュ・ボネ(英語版)をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意した。9月19日にプラハ駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュにズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告した。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶した。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関心を持たない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行った。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー内閣が成立した。
この成果を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルクでのヒトラーとの会談に臨んだ。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーンの割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否。会談は物別れに終わった。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告した。
後にデビッド・ロイド・ジョージ元首相が、ソ連大使イワン・マイスキーに語ったところによると、この時期チェンバレンが元首相スタンリー・ボールドウィンから「あなたは、どんな侮辱を受けても戦争を回避しなければならない」という助言を受けていた。ボールドウィンはイギリスの戦争準備が不十分であることを指摘し、戦局が悪化すれば大衆の感情が悪化し、「貴方と私たちを街灯の電柱で絞首刑にするだろう」と告げている。ロイド・ジョージはチェンバレンはこの助言の影響を強く受けたものと見ている[9]。また外相ハリファックス伯はイギリス世論で平和主義が広がり、何よりも戦争回避が優先されたために強硬策がとれなかったと回想している[10]。
23日、チェコスロバキアは総動員を布告した。ほぼ同じ頃、ドイツはズデーテン地方の即時割譲(一部の地域は人民投票で帰属を決定すること)を要求した。要求には即時割譲地域から9月28日までにチェコスロバキア軍・警察・官吏の即時退去させること、ただし家畜や産業資材などの動産の移動不可も指定しており、一方的な最後通告であった。
24日にフランスは条約に基づいて14個師団の動員を開始した。25日、チェコスロバキアは要求を拒絶し、英仏両国の支援を期待した。しかしフランスのボネ外相が「1938年にドイツに開戦したところで、1940年の敗北が2年早く訪れただけ」だと回想するように、英仏の戦争準備は整っていたわけではなかった[11]。またフランスの新聞の大勢が戦争回避を訴えていたように、チェコスロバキア擁護のために第二次世界大戦を始めるべきという意見は、大衆の中においては極めて少数派であった[12]。

9月25日から26日の間に英仏首脳は会談し、「フランスがチェコスロバキアとの同盟関係の上でナチス・ドイツに参戦した場合、イギリスはフランスを支援する」ことを確認した。チェンバレンはヒトラーに親書を送り、ヒトラーとベネシュの会談を仲介する考えを伝えた。しかしヒトラーは9月26日に少数民族の問題が解決すればチェコの領土に関心を持たない事を保証する、「我々は一人のチェコ人も欲しくはない」と声明し、ベネシュ大統領を激しく非難するのみで交渉を拒絶した[13]。さらにヒトラーは9月27日、9月28日午後2時までに領土引き渡しが行われない場合、チェコに侵攻する意思を英仏に伝え、英仏がそれに対して介入を行うと警告しても「それでは我々は皆、来週には戦争に入るだろう!」と恫喝し交渉は暗礁に乗り上げた[14]。
フランスのボネ外相と、チェコスロバキアのベネシュ大統領はアメリカの仲介を望んだが、孤立主義者に配慮したアメリカ合衆国政府からは芳しい反応は返ってこなかった[15]。一方でフランクリン・ルーズベルト大統領は、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相に仲介者となるよう要請する親書を送っている[14]。またソビエト連邦はチェコスロバキアをフランスが軍事的に支援する場合にはソ連も支援を行うと言う声明を行っている[14]。
イギリスの内閣ではチェンバレンがドイツにズデーテン地方を渡すべきだと唱え、外相ハリファックス伯や海軍大臣ダフ・クーパー(英語版)は反対したものの、ヒトラーの人格を信頼するようになったチェンバレンは受け入れなかった[16]。この間にイギリスの陸海空三軍の参謀総長は、戦争となった場合にチェコ防衛は不可能であり、陸と空においてドイツ軍が優勢になり、戦争は長期化が避けられないという見解を内閣に示している[17]。

全貌については以下のアドレスを参照

約90年ほど前の出来事だが、現在の状況に似ていると思う。
ただしトランプがチェンバレンのように宥和政策をとるとは限らないが。
しかしながら、ここでの類似の出来事はプーチンがヒトラー的であるというよくあるプロパガンダのことを言いたいわけではない。焦点をあてるべきは、チェコスロバキアが最終的には大国に翻弄されたあげく見捨てられたことである。

注目すべき記述は以下のものだ。
【9月19日にプラハ駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュにズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告した。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶した。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関心を持たない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行った。 】

当時の英仏両国は戦争の準備がまだできていなかったこともあって宥和的にならざるを得ず、それが結果的に戦争を引き起こしてしまう遠因になった。とはいえウクライナとロシアの戦争はすでに4年目に入ろうとしているから、90年前のような準備不足ということは考えられないし、また兵器をウクライナに支援しているという点からもチェコスロバキアとは状況が異なっている。(この点についてはむしろ日中戦争における援蒋ルートのほうが似ている)
しかしながらウクライナが現在置かれている状況は当時のチェコスロバキアと似通っており、おそらく今日おこなわれてるミュンヘン安全保障会議とやらで今後話し合われる辛辣な内容も、これに準ずるものになるのではないか?