8月27日。この日はいよいよクロアチアの国境を越え、モンテネグロ共和国に入る。入国審査は実にアッサリしたものだった。さて、この国はつい2年ほど前まで「セルビア・モンテネグロ」と呼ばれ、現在のセルビア共和国と連邦を築いていたが、2006年に国民投票を行いモンテネグロとして独立する。コソボを除けば、最も独立が遅かった国である。
ここで、ユーゴラビアの名称の歴史を簡単に振り返ることにする。ここバルカン半島では、20世紀から21世紀の間に何回かユーゴスラビアという名称を冠する国家が出現している。まず最初のユーゴらしきものは、第一次世界大戦終結時にさかのぼることができる。第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、バルカン半島にはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立した。これは南スラブ人王国の構想によって成立した国で、1929年のユーゴスラビア王国の前身である。
ユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦のナチス侵攻により王がロンドンに亡命、実質的に滅亡する。大戦末期にチトー率いるパルチザンがナチスを実力で追い出す。チトーは王の帰国を拒否、亡命政権も否認してユーゴスラビア人民共和国を打ち立てる。1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変わる。連邦はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国とボイボディナとコソボの2つの自治州によって構成された。しかし1980年にチトーが死ぬと、分離独立の機運が一気に高まる。1991年から92年にかけてスロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナが相次いで独立する。残った国(セルビア・モンテネグロ・コソボ)で連邦を組み、1992年にユーゴスラビア連邦共和国が設立された。そして2003年、ユーゴスラビア連邦共和国は解体。セルビアとモンテネグロはゆるやかな共同国家となる。これが「セルビア・モンテネグロ」である。そして2006年、モンテネグロで独立の国民投票が行われ、規定値を満たしモンテネグロは独立する。この後2008にソコボも独立することになるのである。
ユーゴスラビア王国の時代は、第一のユーゴ。
チトー政権下のユーゴスラビアから1991年のスロベニア・クロアチアの独立までの時代は、第二のユーゴ。
スロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナ独立後のユーゴ連邦を、第三のユーゴ。または新ユーゴ。
ユーゴスラビアという名称の国は、主にこの三つに分類される。そして2003年に「セルビア・モンテネグロ」という共同国家になった時点で、ユーゴスラビアという名前の国家は消滅したと言って良い。
このような流れで見てみると、モンテネグロの独立は非常に遅かったということが分かる。ほとんど最後まで、セルビアと行動を共にしたのである。にも関わらず、モンテネグロの風景、町並みや暮らしぶりの水準を見ると、クロアチアのそれとあまり変わりない。写真はRisanからKotor(コトル)の間に位置するperast近郊である。
コトルは地図を見れば分かるように、湾の奥に位置する町である。途中、非常に狭い水路を通ることになる。湾岸の道は回りこんでいるために、移動に時間がかかる
ため、この狭い水路あたりの場所には連絡船が通っている。私は景色を堪能するために、この連絡船には使わなかった。
湾内に小さな建物がある島々が見える。その後ろには上述した狭い水路が写っている。右の山と左に少しだけ見える山の間にある水路が、地図上にある一番狭い水路である。この湾内の景色はまさに絶景である。この日はガスがかかっていて、写真的にはクリアーではないが、それはそれはキレイな所である。
ここで、ユーゴラビアの名称の歴史を簡単に振り返ることにする。ここバルカン半島では、20世紀から21世紀の間に何回かユーゴスラビアという名称を冠する国家が出現している。まず最初のユーゴらしきものは、第一次世界大戦終結時にさかのぼることができる。第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、バルカン半島にはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立した。これは南スラブ人王国の構想によって成立した国で、1929年のユーゴスラビア王国の前身である。
ユーゴスラビア王国は、第二次世界大戦のナチス侵攻により王がロンドンに亡命、実質的に滅亡する。大戦末期にチトー率いるパルチザンがナチスを実力で追い出す。チトーは王の帰国を拒否、亡命政権も否認してユーゴスラビア人民共和国を打ち立てる。1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に変わる。連邦はスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国とボイボディナとコソボの2つの自治州によって構成された。しかし1980年にチトーが死ぬと、分離独立の機運が一気に高まる。1991年から92年にかけてスロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナが相次いで独立する。残った国(セルビア・モンテネグロ・コソボ)で連邦を組み、1992年にユーゴスラビア連邦共和国が設立された。そして2003年、ユーゴスラビア連邦共和国は解体。セルビアとモンテネグロはゆるやかな共同国家となる。これが「セルビア・モンテネグロ」である。そして2006年、モンテネグロで独立の国民投票が行われ、規定値を満たしモンテネグロは独立する。この後2008にソコボも独立することになるのである。
ユーゴスラビア王国の時代は、第一のユーゴ。
チトー政権下のユーゴスラビアから1991年のスロベニア・クロアチアの独立までの時代は、第二のユーゴ。
スロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア=ヘルツェゴビナ独立後のユーゴ連邦を、第三のユーゴ。または新ユーゴ。
ユーゴスラビアという名称の国は、主にこの三つに分類される。そして2003年に「セルビア・モンテネグロ」という共同国家になった時点で、ユーゴスラビアという名前の国家は消滅したと言って良い。
このような流れで見てみると、モンテネグロの独立は非常に遅かったということが分かる。ほとんど最後まで、セルビアと行動を共にしたのである。にも関わらず、モンテネグロの風景、町並みや暮らしぶりの水準を見ると、クロアチアのそれとあまり変わりない。写真はRisanからKotor(コトル)の間に位置するperast近郊である。
コトルは地図を見れば分かるように、湾の奥に位置する町である。途中、非常に狭い水路を通ることになる。湾岸の道は回りこんでいるために、移動に時間がかかる
ため、この狭い水路あたりの場所には連絡船が通っている。私は景色を堪能するために、この連絡船には使わなかった。
湾内に小さな建物がある島々が見える。その後ろには上述した狭い水路が写っている。右の山と左に少しだけ見える山の間にある水路が、地図上にある一番狭い水路である。この湾内の景色はまさに絶景である。この日はガスがかかっていて、写真的にはクリアーではないが、それはそれはキレイな所である。
それでも十分綺麗ですよ。赤レンガに青い海、対岸
は紅葉が始まってるんでしょうか。絵になりますね。
紅葉は少しずつ始まっているようでしたね。所々が黄色く染まってました。まぁ日本の京都のように真っ赤になることは多分ありません。
それにしても、あんな小さい島の上に建物を建てちゃうというのが凄いです。日本では怖くてまず立てませんね。