私は先の戦争中には生まれていないけれども、昨今のコロナ自粛の雰囲気を体感して、少し戦争中のとこがわかったような気がする。
日本は、我慢をする文化があると言っても良い。そして、私も彼も我慢しているんだから、あなたも我慢しなければならない。という全日本我慢選手権大会を半ば強いられる社会がそこにはある。
コロナだから自粛を。県をまたいで移動してはいけません。マスクを必ず着用。出かけないで。緊急事態宣言につき。ワクチンを!
これって、欲しがりません勝つまでは、と何が違うんだろうか。
共通しているのは、こういう状況で個人的な動きをすると、直ちにワガママだと批判されることである。
しかもコロナ自粛はもうまる2年の我慢を強いられているので、国民はピリピリしている。そのストレスは他人に向けられることになる。
海開きで、他県の人(東京)が遊びにきているのをニュースでやってるのを見たが、あれも叩かれるのだろう。オリンピックの強行も叩かれる。バッハの発言も叩かれるし、小山田の過去のいじめ問題でも徹底的に叩かれる。しまいにはニュースキャスターが叩かれるのを恐れて、じぶんの幼少の頃のいじめのような経験を自ら暴露してしまう。西村の銀行に圧力をかけてもらう発言も叩かれ、ウガンダの選手が勝手に選手村を抜け出して難民申請するのも叩かれ、選手団がナンタラ式とかいう選手村からでないルールを破って国民と接触する行動も叩かれる。ワクチンを撃たない人間も叩かれる。
世界ではLGBTに異論があるハンガリーがEUに叩かれ、人種差別だのなんだので叩き続ける。
郷に入れば郷に従えという言葉があるが、バッハや選手団には通用しなかった。彼らは日本的社会をきちんと理解していたのならば、バッハは迎賓館で宴を催すことは空気を読んで事前に辞退しただろうし、選手団も選手村からは一歩も出ないだろう。
彼らには、欲しがりません勝つまでは、というスローガンは理解不能なのだろう。
そして我が国民は、戦争中のこのスローガンをコロナ下においても同様に全国民に強いている。
東日本大震災のときは、これを「絆」という言葉で表現したし、かつては「村八分」という言葉で表していた。そして今日「欲しがりません勝つまでは」というのが新たに付け加えられた。
良い悪いではなく、我々の国民性はこのようなところにあるということを知っておかねばなるまい。
俺たちは我慢をしているんだから、お前を我慢をしなければならない、という無言の空気や圧はこの国ではとてつもなくでかい。それが「世間」とか「世間体」「常識」と言われているものだ。
それから外れたものは、我々は徹底的につまはじきにするという癖があることを知っておく必要はある。
憲法改正、LGBT、差別問題、さまざまなことが声高に叫ばれているが、この世間というものの息苦しさについて問題視し、声高に改正を叫び運動をするものは、我が国にはほとんどいない。
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