ブログの書き込みは公の言動に属する。なので正直すぎる話は不謹慎、不適切という誹りを免れない。
そのプレッシャーを最も感じているであろう人は、政治家であり、専門家であり、学者であり、著名人であり、テレビ司会者であり、経営者であろう。
巷はコロナの話題である。なにしろ安全とリスクである。安全を極限まで追求したいというのは人の願いでもあるし、他の要因が侵されない限り、ひとは極限まで追求してもよい。
日本は安全神話というものがあった。例えば原発についてもそうだった。食品の安全についてもそうだった。BSEの肉が怖くて外国産の肉も全頭検査をクリアしないと入れられなかった。医療や健康保険などを重視して、ほとんどの国民は死ぬときは病院でそれなりの医療にかかって病院で死ぬというのが常識となるほどのリスクの回避ぶりである。しかし、そのような神話は、東日本大震災や食品偽装問題、東日本の去年の台風被害、そしてコロナによって神話ではなくなった。
まるで、人間が制御すれば、全てのリスクは極限まで回避できると錯覚させるほどに、人々は安全であることを求め、安心したかった。
この国民の安全に対する信仰ともよべる執着は、おおくの政治家や専門家、著名人、経営者にとっては無言の圧力になったに違いない。ポピュリズムという言葉があるが、ポピュリズムとは無言の圧力がかかるという点がある。もちろんポピュリズムを利用して、事故の栄達を図ろうとする政治家や専門家、著名人、経営者などもおり、因果の全てをポピュリズムの圧だけに求めるのは正しくはない。
しかしながら、この無言の圧力に上記の方々は真っ向から抗うことはできなかったことは事実である。オブラートに包まず、有り体に言うと
「国民はアホちゃうか?」ということを政治家や専門家、著名人、経営者は言えないということである。
現在の世の中には、国民一人一人が実は放送局を持っている。SNSとかブログと言われるものがそれであり、みな好き勝手に自分の意見を公開できる「放送局」である。この放送局は実は公私の区別があまりついてなく、放送法にも基本は縛られない自由度がある。つまり節度なく私の意見を垂れ流しても何ものにも規制されないという、ある意味無法地帯でもある。
政治家は、政党や国民や企業などの人々や法律によりその言動を規制されているし、経営者は消費者や法律などによって言動を規制されている。多くは国民やお客あってのものである。それらの掣肘を受けるので、公的な役割をする圧がかかっている。圧がかかっているメリットは、それによって自己の行動を自制できるという自浄作用がある。
しかしながら、個人の放送局で好き勝手に意見を流しているブログやSNSでの書き込みは、基本的には規制はない。そりゃ著しい誹謗中傷や行き過ぎた扇動、あるいはプライバシーの侵害などがあった場合には法律により規制され罰せられる時もあるが、それは上気した政治家や経営者、専門家にも同様に課せられている。問題なのは、その個人の放送局には、誰かからの掣肘というものがない点である。客におもねる経営者。国民のおもねる政治家のような、あるいみポピュリズムではあるが、同時に自浄作用にもなる干渉がないということは、悪い言葉で言えばのさばらせることにもつながる。
さて、この個人の放送局と、安全イデオロギーが結託した時に何が起こるか?
それが、今回の新型コロナウイルスの騒ぎであろうと思われる。
今回のコロナ事件を「人災」と見ることは可能である。誰が引き起こした人災なのか?政治家か?それもあるだろうが、それはみんな知っているからあまり問題ではない。あまり知られていないのは、国民が引き起こした人災である。
感染リスクは極限まで0にしなければならない!という信仰に基づいてそれぞれの「放送局」が騒いだ時、それを掣肘できるものは構造上=システム上は誰もいないということを、皆様はご存知だろうか?
違う言い方をすれば、マスコミは国民を扇動するが、国民は同じ国民や政治家や専門家や経営者を扇動する、ということである。
政治家や専門家、経営者には覚悟が必要である。つまり誹りを受けて、責任を追及される覚悟もだろうし、職を失い露頭に迷うという覚悟もだろうし、命令、指示をしたことの失敗に対する責任という覚悟もである。確かにこの覚悟は、いまの政治家や専門家、そして経営者は薄くなってきていることは確かである。武士のように腹を切ってお詫び、というほどの覚悟はあるまい。
しかしながら、個人の「放送局」で騒ぎ、他人の責任を追及する人達(国民)の覚悟は、構造上=システム上存在しないので、そもそもその言動には覚悟はいらないのである。
収益化した「放送局」になって初めて構造上の覚悟が現出するが、それまではこのメディアには覚悟は必要ない。そもそも匿名で意見をかけるのだから尚更である。
安全第一を金科玉条のものとすると、以下の例については、その安全第一がマネジメントではなくて信仰に変わる。
安全度が0〜100までの100段階あるとする。現状が仮に50としよう。これを80に上げるには100のコストを支払わなければならないとする。80から90に上げるには1000のコストを支払わなければならないとする。安全度をある一定の数値以上にあげる場合、そのコストはある閾値を超えるとそのコストが指数関数的に増大する。安全度90〜95まで上げるとなると10000のコストを要し、95〜96まで上げると100000のコストがかかるとする。
さて問題だが、安全度を幾つに設定するべきか?
この質問は、人命がかかっているときには不謹慎な質問となりえる。人命がかかっていない政策や方策であれば、これはマネジメントの話で終わるが、こと人命がかかっているテーマについては、
【安全度を幾つに設定するべきか?】
は不謹慎な質問になりうるのである。
国民の「放送局」が、安全度は極限まで!リスクを限りなくゼロに!と叫ぶなら、それを達成するためのコストは理論的には無限のコストとなる。
したがって、「リスクを限りなくゼロに!」という「放送局」の願望や意見は、理性ある回答ではなく、それは信仰に属するものである。
しかしながら悲劇は、その信仰の吐露に対して、誰も掣肘出来ないことにある。
その信仰に対して、政治家や専門家や経営者は忖度せざるを得なくなる。まさに安全神話とは言い得て妙である。安全の信仰に他ならない。そして掣肘されない「放送局」の声なので自浄作用がない。
「覚悟」がないのである。リスクを極限まで減らせば、人は不老不死でいられると錯覚しているのだろうか?多分「放送局」の人はそう錯覚しているのだろう。
これが今回のコロナについての私の正直な話であるを
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