リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

寓意のない寓話

2007-03-30 | book
「英語で、『fish story』って言うと、ほら話のことだ」

井坂幸太郎著『フィッシュストーリー』(新潮社)読む。
この一冊には、四つの短編が収められている。いずれも、井坂作品のエッセンスを凝縮したような小説だった。
それは、「ほら話」という一言に尽きる。

井坂幸太郎は、自分の作品への自身と、作家としての覚悟をこめて、このタイトルを付けたのだと思った。
「フィッシュストーリー」には、「ほら話。大げさな、作り話」という意味がある。元々、釣り師が釣果を実際より誇張して言いがちなことに由来するという。映画『ビックフィッシュ』も同じ意味で、こちらも「ほら話」がストーリーの主軸になっていた。
井坂作品は、いつでも荒唐無稽なアイデアが物語を引っ張る。
『フィッシュストーリー』中の「動物園のエンジン」から引用してみる。

「あの男の向かいの檻、分かるか?」
「シンリンオオカミ」看板にそうあった。
「な」河原崎さんは威勢がよかった。何が「な」なのだ、と私は怒りそうになる。
「オオカミって言えば英語だと『wolf』だろうが」
「ですね」
「それを逆さにしてみろよ。『flow』だろう?」
「ですね」
「『flow』には『小川』っていう意味があるだろ?あるんだよ。殺された市長の名字と同じだ。小川。あの市長の名前は小川純、すげえだろ」
彼がどこまで本心で言っているのか、判断しかねた。
「あの男、たぶん、市長の事件に関係しているぞ」

このように冗談みたいな会話がどんどん転がっていき、荒唐無稽さがパンパンに膨らんでいく。現実的にありえない着想で、ストーリーとして破綻しそうになるのだが、結末はいつの間にか、思ってもいなかった地点に着地している。
このような物語を読むスリルを満たしてくれるのが、井坂作品の特徴だ。

井坂幸太郎の姿勢は、初期のころから一貫している。映画にもなった『陽気なギャングが地球を回す』のあとがきで、次のように書いている。

「現実とつながっているように見えながらも、実はつながっておらず、また寓話のように感じられるかもしれませんが、寓意は込められていない」

エンターテイメント作家の決意表明めいて印象的な言葉だ。
寓意のない寓話。荒唐無稽なほら話で、現実に負けないフィクションを書くこと。
今、最も信用できる小説家の一人だと思う。

露地景

2007-03-28 | photo
露地は、独特の空間だと思う。
歩いていて、ここは路地ではなく「露地」だなと、意識させられる空気が流れている。

生活感が、文字通り露わになっている雰囲気、となり近所の親密な付き合いが想像され、今にも夕飯の支度の匂いがして、相撲中継が聞こえてきそうだ。

また、露地の軒先には、「露地の装飾学」とも言うべき、植木や鉢植えが趣向を凝らして並べられている。
まさに軒を競うように、路上まで浸食する鉢植えたちは、チープで安っぽい使い回しだったりするが、そこに粗野で力強い独自の美が宿る。
それは、したたかな「露地の美学」を感じさせる。
生活の中で目を愉しませる、庶民の知恵のようなものだ。


私はしばし、露地に立ち尽くし、デジカメで画像をおさえ、「よそもの」らしく立ち去る。


ペットボトルに生けられた梅の枝。ほとんど絶句するしかない光景だ。


下水管に添えられた花の可憐さよ!「露地の美学」はあなどれない。

プロパガンダについて考えた

2007-03-27 | Weblog
20世紀は、「戦争の世紀」とも「映像の世紀」とも言われる。
「戦争」と「映像」について、共に考えさせられる展覧会を、飯田橋の印刷博物館で見た。



「モード・オブ・ザ・ウォー」展は、第一次世界大戦期アメリカのプロパガンダ・ポスターを紹介・展示する展覧会だった。
第一次世界大戦は、「戦争の世紀」の原点であり、すでに映像イメージはプロパガンダとして利用された。
モダニズムを体現し、大量消費される色鮮やかなポスターが放つメッセージは、力強く明確である。

「ENRIST(入隊せよ)」
「I WANT YOU FOR U.S. ARMY(米軍はあなたを求めている)」
「IF YOU WANT TO FIGHT! JOIN THE MARINES」(もし君が戦いたければ!海軍に入ろう)

このように呼びかける言葉が、ポスターにシンプルで堅牢なレタリングで添えられている。
一見、現代に通ずるポップなポスターのようだが、発しているメッセージは戦意高揚である。現在の視点でみると、なんともアイロニーに満ちた表現に見える。
軍服を着たブロンド女性のポスターがあった。彼女が「I WANT YOU」と呼びかける。
プロパガンダは性的イメージをも取り込んで、“誘惑”しようとする。

「戦争の世紀」を牽引したのはアメリカだが、アメリカは自国に戦争を持ち込んでいない。自国を戦地としていないアメリカの戦場イメージは、「海の向こうの戦争」を象徴的に表現した例が少なくない。アンクル・サムや白ワシなど、意識化のナショナリズムがシンボリックに描かれる。
バーチャルな戦争イメージは、現代にも通ずるものだ。
私たちは、「海の向こう」の映像イメージをTVやWEBを通して享受しているが、それが何らかのフィルターがかかった映像イメージであることを意識しなければならない。
9・11の映像を、私たちが象徴的なイメージとして共有しているのは、なぜだろう?
そのことに疑問を持たないのは、あるいは危険なことなのかもしれない。
21世紀に引き継がれた「戦争」と「映像」の課題について、私たちは再考してみなければならないだろう。

リンク;
東京大学大学院情報学環アーカイブ 第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション

グレイ景

2007-03-26 | photo
雨模様の週末、のっぺりとした鼠色の空が印象的だったので、モノクロ・モードで撮ってみた。

グレイの階調、出てますかね?






お宅訪問 ~平井太郎邸編~

2007-03-22 | town
池袋の街を歩いていると、オレンジ色の幟が目についた。
「西口まちかど回遊美術館」と書いてある。
西口周辺は、「池袋モンパルナス」と呼ばれる芸術家たちのサロン的な地域であったらしく、その由縁でイベントを行なっているらしい。
配布しているパンフレットを眺めていると、こんな一行があった。

「江戸川乱歩邸特別公開」

ゲッ、マジかよ。こりゃ行くしかあるまい、と思い、同好の士を誘って乱歩邸に向かった。



平井太郎(本名)邸は、立教大学向かいの、わき道に入ったところにある。
乱歩自身がデザインしたという瀟洒な洋館は、応接間になっている。

応接間には、乱歩の肖像画が掲げられ、こだわりを感じさせる家具には、日本探偵作家賞のエドガー・アラン・ポー像などなど、胸像やオブジェ(黄金仮面もあった)が並んでいる。
ここで横溝正史などを迎えたのか・・・。
ワカリマシタ(渡辺篤史風)。


乱歩邸といえば、蔵である。「幻影城」と名づけられた二階建ての土蔵に乱歩が蒐集した蔵書が納められている。
ガラス越しにその蔵書の一部を除くことができた。
巨大な乱歩(実際長身だった)の迷宮世界をほんの少しでも直に見ることができて、かなり貴重な体験だった。

レディメイド景

2007-03-22 | photo
「ありもの」に美を見出す芸術概念「レディメイド」。
男性用便器に「R・mutt」とサインをして「作品」としたデュシャンの「泉」が有名だ。
ただそこにあるものに感じる美。
日常のなかでの発見は得てして「レディメイド」なのではないか。
街中で出会った「ありもの」が美を放つ、ただそこにあるレディメイド的光景を、ここに。


デュシャン作品の「壜掛け」に見える、積み重なったテーブル。




作者を持たぬ、抽象的な「タブロー(絵画のこと)」が街角にひっそりと掲げられていた。
グラフィティ?パブリック・アート?
これを「レディメイド」と言わずしてなんと言おう。

※この記事は、茂木健一郎の「クオリア日記」に、「あなたの「レディ・メイド」を探し、その写真をブログに掲載して、この記事にトラック・バックしてください。」とあり、触発されて書いた。

浅草文学論・下

2007-03-21 | book
 1920年代のモダニズム文学 「浅草を“捕獲”すること」



 1920年代当時、十二階がそびえ立つ浅草は有数の繁華街、映画館では『メトロポリス』が鳴り物入りで封切られていた…。
 浅草は文化の中心であり、十二階は時代のランドマークであった。浅草寺を中心とする門前町には、祝祭的な気分、ハレとケを無化する空気があふれていた。
 浅草の賑わいを、高村光太郎は「米久の晩餐」という詩で描いている。「米久」は、大衆的な牛鍋屋で、高村もよく通ったという。

「 まるで魂の銭湯のやうに
  自分の心を平気でまる裸にする群集、
  かくしてゐたへんな隅隅の暗さまですつかりさらけ出して
  のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには起こる群集、 」

 この詩は、近代都市の成立とともに生まれた「群衆」という概念が、東京にも息づいていることを告げる。「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ。」。煮え立つのは牛鍋ばかりではない。大正モダニズムの大衆文化は群集のエネルギーによって加速し、成熟に向かう。
 群集によって突き動かされ、めまぐるしく変貌する都市の姿をいかに捉えるか。都市の感受性を持った作家は、そんな命題に挑んだ。
 川端康成は、『浅草紅団』でルポタージュの手法を用いて、浅草の雰囲気を小説空間に再現しようと試みた。
 また、谷崎潤一郎は、様々なスタイルで浅草を舞台にした小説を明治・大正期に残している。主な作品を挙げると、「秘密」は、浅草に一人暮らしする主人公が映画館で偶然女性と再会する都市小説であるし、「魔術師」「人魚の嘆き」は、見世物小屋の“白昼に見る夢”的イメージを結晶化した散文詩風小品である。
 未完だが「鮫人」は、浅草を小説中に構造化しようとした野心作だった。
 「鮫人」で、谷崎は、主要登場人物の容姿を10数ページにわたって(!)描写し尽すことによって、浅草の混沌としたエネルギーを象徴的にミニチュア化する荒技を見せている。

 「……或る皮肉屋は彼の容貌を評して「剥製の大蝙蝠」と云った。また口の悪い女優は彼を罵って「河馬」と云った。これらの警句は幾分か実物を髣髴せしめるには足りるけれども、要するに一面の観察たるに過ぎない。で、読者が若し此の不思議な面魂に就いてもっと委しく知りたいと思うならば、……」 「鮫人」より

 このような描写が延々と続く。作品としての破綻を辞さないこの“怪物”的な描写は、谷崎が浅草を“捕獲”した成果であると思われる。

ピンボケ景

2007-03-18 | photo
デジカメは、基本的にピントはオートなので、ピンボケはしないんだが、時々、機械が距離感をつかめなかったりすると、ボケボケ写真になる。
ようするに失敗写真なんだが、それでもムード重視って考えるとこれでも良いかもねって思える画像を、ここに。


横丁に垂れ下がってる凧のような飾り。


日陰に凛と立つ枯れた花。


夜、歩きながら撮ったもの。

モノとの付き合い方

2007-03-18 | book
足立紀尚著『修理 仏像からパイプオルガンまで』(ポプラ社)読む。
眼鏡、靴、古文書、茅葺き屋根、古材家具、などなどに日用品から文化財まで、修理を生業とする職業の方々をルポタージュした一冊。
専門的な作業に打ち込む職人気質のスペシャリストたちの、経験に裏打ちされた言葉は、説得力がある。

「うちで仕上げた漆は新品、修理を問わず、30年間はダメになったといって持ってこられると困るんです。そのくらいの気概で日々の仕事に取り組んでいます」(漆工)
「この仕事はそのへんの素人にはできませんよ。まあ不可能に挑戦するような仕事です」(かけつぎ)
「僕らの仕事というのは目立つとダメなんです。修理したことが気付かれると失敗です。あとから付け足した手の部分が全体の中にうまく隠れてしまって初めて、よい仕事をしたと思われる。そういう仕事なんです」

大量生産、大量消費。購買意欲を煽られる消費生活を送っていると、モノを粗末に扱いがちだ。
モノを大事に扱い、修理に出しても使い続ける。それを支える人々の存在を知り、モノとの付き合い方を見直してみようと思った。

relaxin'線香

2007-03-15 | Weblog
久しぶりに線香を焚いてみる。
独り住まいは嫌でもムサクルシイからね。

淹れたコーヒーの香りと混ざり合い、いい感じにトリッピーだ。

週末はトーキョーに雪が降るのかなーなんて、I think weatherしながら…。