リンムーの眼 rinmu's eye

リンムーの眼、私の視点。

白とブロンドのブルース

2006-11-30 | music
ビートルズの『ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム)』、ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』。
どちらもロックの名盤だ。
ともに二枚組の大作であり、バラエティに富んでいる。なかでもブルースの影響が色濃く出ているアルバムでもある。

その点に着目したユニークな企画盤が『ブルース・ホワイト・アルバム』『ブルース・オン・ブロンド・オン・ブロンド』だ。
現代のブルース・ミュージシャンがカバーしている。
「白」と「ブロンド」に「ブルー」をかけてるわけで、洒落た、思い付きそうで思い付かない趣向にニヤリとさせられる。

カバー曲が割と好きだ。
オリジナルは、歌詞や曲のアレンジに個性が出るけれど、カバーでは声の説得力が全面に出る。
素直にいい歌が聞きたい時には、カバーはうってつけだ。

ブルース解釈のビートルズ/ディラン・ナンバーが新鮮だ。
改めて名曲だなと確認できる。
ブルースと言っても、それほど泥臭くなく、すんなりと繰り返し聴いてしまう。

こういうユニークな企画カバー・アルバムがもっと増えたらと思う。
寒くなってきたこの季節、ブルース・フィーリングのぬくもりに包まれてみるのも、いいんじゃないだろうか。

格闘「国語」論 その②

2006-11-28 | book
近年、日本語に関する本がベストセラーになった。
コミュニケーションスキルとしての、論理的な日本語能力が注目されているのである。
『声に出して読みたい日本語』の斉藤孝をはじめ、小論文講師の樋口裕一の『頭のいい人、悪い人』や、現代日常語の間違いを文法的に指摘した『問題な日本語』などが、日本語に対する危機感からひろく読まれているようだ。
こうした日本語再考の流れの中に、一つの教材を置いてみたい。
出口汪の「論理エンジン」という「論理性」を重視した問題集。
 いくつかの教育現場で使われている教材だが、内容に関しては、一般向けに書かれた『「論理エンジン」で学力を劇的に伸ばす』(PHP)に詳しい。

出口氏の言う「論理」と日本語ブームに、シンクロする部分がある。
たとえば、「文脈力」というキーワード。「論理エンジン」では、文と文、語と後の関係をつなぐ「文脈」を重視し、長文においては接続語に注目せよというが、斉藤孝は同じ言葉を使って、文から文、話題をつないで場面に対応していく能力としての「文脈力」を提唱している。
「論理エンジン」の文法上の「文脈」を基礎に、実際に活用していく能力が斉藤のいう「文脈力」だろう。
 
読売新聞の教育面のコラム「教育ルネッサンス」でも、「論理エンジン」が紹介されていた。
採用している学校の教諭の、
「なぜ、どのくらい『ムカつく』のかを説明できる力をつけさせたい」
という言葉が印象的だった。
論理」とは、「考えるための道具」だ。なにを学ぶにも必要な思考、これをうまく活用するために、「論理」はあると思う。

国語において、「論理」というと、評論文を重視し、ロジカルな、機能的な読解が中心になりがちだというイメージがある。
詩や小説など、リリカルな文章表現に触れ、感受性を育む機会もまた国語の大事な事項である。
だが、「論理的」なものと、「感覚的」なものは、相容れないものだろうか。
論理的なものを、感覚的な言葉で語る。
感覚的なものから論理的な構造を読みとる。
つまり、ロジカルとリリカルを統合する。
自己撞着したレトリックのようだが、私が重視したい方法論だ。
評論文で大事なのは要点だけではないし、小説は鑑賞されるものではないだろう。
「論理」と「感覚」を分けて考えない。
つねに「感覚的」な要素を忘れないように心がけること。語り口(ナラティブ)や、優れた例文(エクチュール)などに多く触れること。
このような視点も必要なのではないか。

芸術評価において、しばしば「感性」といういい方がされる。教育の場面でも「感性を磨く」「感性を育てる」という表現を使う。
しかし、「感性」といういい方には、先天的能力をイメージさせるものがないだろうか。
結局「あるか/ないか」という自己認識によって、せっかくの可能性が閉ざされてしまう気がする。
私は、ここまで意識的に「感覚」という言葉を使っている。
「感覚」は五感に根ざし、誰もが持っているものである。また、「感覚」は個人の記憶や経験と結びつき、個別のイメージが引き出される。
「感性を磨く」ではなく、「感覚を活かす」といういい方が、より教育の場面に適しているように思われる。
感受性を洗練させるよりも、多方向にひろげ、感応していく。
こうした考えに基づき、「感覚」を通じて詩や俳句・短歌の授業が展開されたら、面白い。

「論理エンジン」が教育現場で使われるようになってまだ三年ほどだ。
私立中高を中心に採用を伸ばしている。
もちろん、「論理的」と聞いて身構える一般人が取り組むのにも適したテキストになっている。むしろ、そういう人の方がはまるようだ。

格闘「国語」論 その①

2006-11-28 | book
ある格闘の記録として、
いや、中間報告としてこれを記す。
格闘に勝利したか、敗北したか?
それは問題ではない。
つねに動いている思考の「行程」に、「痕跡」に
浮かび上がる何がしかを読み取ってもらえれば幸いだ。

現代文の参考書『現代文と格闘する』(河合出版)は、これから受験勉強を始めようという学生に、または文章を読む力を鍛えたいという一般人に是非読んでもらいたい一冊だ。


この本のキーワードは、「読みつなぐ」。
全体から部分へ、部分から全体へ文脈を捉える文章読解の基本を、この本ではそう読んでいる。
文章を読む際には、
①具体(例)と抽象(意見・主張)
②キーセンテンス(主題文)は強調表現(「特に」「のはずだ」など)の前後
③繰り返し使われるコトバ・文(言い換え)にポイントを置く
この3点に注意して読め、ということだ。
表現が違えど、どの参考書にも書かれていることではある。

この本は、問題文の読解に多くのページを割く。設問の解説に期待をしていると肩すかしをくう。
まず始めに手にする参考書は、解説の少ない問題集よりも、説明が多い総合的なものの方がいい。
問題文にじっくり取り組み、理解を深めていくことが、この本の主旨だ。
難しい用語にめげず、食らいついたら実力はつくだろう。

問題文は、定番の比較文化論から流行の言語論・身体論まで、よく出題されるテーマはほぼカバーしている。
参考書は好みもある。ロングセラーの良書が、誰にとっても良書とは限らない。
だが、もう一年「格闘」したくない人には、まずはこの本と取っ組み合ってもらいたい。

追悼フェイバリット監督

2006-11-27 | Weblog
さっき夕刊を読んでいて、ロバート・アルトマンの訃報をしりました。
好きな映画監督だったので、残念です。
特に、反戦コメディ『M★A★S★H』、R・カーヴァー原作の群像劇『ショート・カッツ』が、好きだったなあ。
他にも衛星放送やレンタルでいろいろ見た。
それでも『ナッシュビル』や『ウェディング』など見ていない有名作も多いので、どこかで追悼特集上映やらないかな。
実写版『ポパイ』(!)も見てみたい…。

ご冥福をお祈りします

ケータイ写景

2006-11-25 | photo
職場近くの山手イタリア山庭園に行く。
デジカメ持って行けないので、ケータイで撮る。
デジカメで学んだ露出補正などを駆使してみた。
けっこう遊べる。
侮れないな、ケータイのカメラ機能。




アンティークなランプ。

渡辺篤志が訪問しそうな雰囲気。

(W32Tカメラ機能)

五千円札の女性(ひと)

2006-11-23 | book
千円札・五千円札に印刷されている夏目漱石と樋口一葉。
皮肉なことに、二人はお金に苦労した作家だったのです。

夏目漱石(本名・“金”之助)は、幼いころ養子に出され、その後再び実家に戻されます。養父・実父の間で証文が交わされ、資産のように取引されたのです。
そのあたりの経緯は、自伝的小説『道草』に暗い影を落としています。

樋口一葉の日記には、「実に貧は諸道の妨なり」という一節があります。
一葉は職業作家ではなく、小売業で家計をやりくりしながらのパートタイム作家でした。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に灯火うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、明けくれなしの車の行来にはかり知られぬ全盛をうらないて、…」(『たけくらべ』冒頭)
このように、一葉の小説は、明治の作品といえども、現代の私たちには「古文」として映る文体です。
これよりも五年前に書かれた森鴎外の『舞姫』の冒頭は、
「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱灯の光晴れがましきも、徒らなり。」
というもので、文語文ではあっても、口語訳すればそのまま現代でも通用する近代小説です。
近代化が進む明治にあって、一葉は忘れられゆく古典世界に根ざした作家でした。
「図書館に行く。九時頃より家をば出づ。太平記、大和物語をかりる。」(一葉の日記より)

では、現代の私たちにとって、一葉の作品はかったるい退屈な「古文」でしょうか。そんなことはありません。
初めはとっつきにくいでしょうが、息の長い文章にゆっくりと呼吸を合わせるようにして読んでいけば、一葉世界の息遣いが感じられるはずです。
私は以前、本郷にある一葉の旧居跡を訪れました。そこには一葉も使ったという井戸があり、現在でも使われています。
一葉作品も、この井戸のように、いまだこんこんと湧いてくる生命を湛えていると思います。

11月23日、今日は樋口一葉の命日です。

漂流物考

2006-11-23 | book
 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の実一つ

 故郷(ふるさと)の岸を離れて
 汝(なれ)はそも波に幾月

 「椰子の実」島崎藤村より

誰もが子供のころ、海岸で貝殻を拾ったり、波に洗われて丸みを帯びたビンの破片を見つけて、興味を惹かれた経験があるだろう。
藤村の「椰子の実」は、柳田国男がココヤシを伊良湖岬で見つけた感動を受けて書かれた詩だ。
 「われもまた渚を枕
 孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ」
という一節があり、椰子の実がたどって来た漂流と旅する我が身を重ね合わせている。
浪漫派の詩人らしい想像力だ。
柳田国男は、後年、南洋からもたらされた日本への影響を考察した『海上の道』を書いた。

『漂流物考』(INAX出版)は、収集した漂流物を展示した展覧会のカタログ。
こういうユニークな展示が行われていた事実が驚きだ。
漂流物が整理・分類されることで、経てきた年月とブツとしての存在感が、姿を現わす。
たとえば、使い捨てライター。
同じ海に打ち上げられた、色とりどりの、日本語・ハングル・英語・中国語表記のライターたち。それぞれの流れ着くまでの背景を想像してしまう。

漂流物の“定番”メッセージボトルも紹介されている。
テキサス州の11歳の少年が流したビンが高知県に流れ着いた。
連絡を取ると、少年は16歳になっていたという。
なんてロマンチックな話だろう。

漂流物に対するアプローチも様々だ。
一つの素材に絞って、酔狂な趣味として集めている人もいれば、海流などを調査し、たどってきた道筋を研究している人もいる。

ページをめくっていると、海岸へ行って何かを見つけたくなる。
最近じゃ海にロマンを感じる事なんて、なくなっていた。
改めて海の魅力を体感したくなる一冊だった。


土曜の夜はブロックパーティ

2006-11-19 | movie
仕事帰り、映画『ブロック・パーティ』観る。
この映画は、ブルックリンの街区(ブロック)を貸しきり、行なったライブ(パーティ)の模様を追った音楽ドキュメンタリーである。
首謀者は、コメディアンのデイブ・シャペル。地元への感謝を込めて、何かやらかしたいと思い、この「ブロック・パーティ」を立ち上げたとのこと。
その計画に賛同したのが、カニエ・ウェスト、コモン、モス・デフ、エリカ・バドゥ、ザ・ルーツ、そしてこの機に合わせて再結成したフージーズ、という豪華なメンツ。
東海岸ヒップホップ勢の夢の共演が楽しめる。

デイブ・シャペルは、黒人をネタにしたきわどいジョークを得意とするスタンダップ・コメディアン、らしい。正直、映画を観るまで知らなかった。
リズミカルな話芸と、バンドとの掛け合いで笑わせたりして、笑いに音楽を取り込んでいる。日本で言うと、ぐっさんみたいなかんじか。

開催数日前、シャペルは故郷を歩きながら、なじみの煙草屋のおばちゃん(白人)をこのライブに招待したりする。身近な人々、ふだんヒップホップを聴かないような人たちにも楽しんでもらいたいということだろう。
また、撮影中に遭遇した大学サークルのマーチング・バンドにライブでの演奏を交渉したりする。
そういう臨機応変さ、自ら楽しむ姿勢がチャーミングだ。

会場になった廃墟ビルの持ち主であるストレンジな夫婦、出演者のバックステージとして使わせてもらった保育園の園長さんへのインタビューなど、ブルックリンに生きる“フツーの人々”の姿も印象的だ。
集まった観客もイイ顔してる。

このライブの、この映画のハイライトは、フージーズ再結成のステージである。
ローリン・ヒルが歌う「キリング・ミー・ソフトリー」。確かにすばらしい。
けれど、どうも精彩に欠けていたように思う。本格的なカムバックという気はしなかった。
私にとって印象的だったパフォーマンスは、エリカ・バドゥだ。
彼女もローリン・ヒルと並んでヒップホップ/R&B人気を牽引した人物である。
知的でクールなたたずまいで、カッコイイ。だが、そのカリスマ性が近寄りがたい雰囲気にもなっている。
そんな彼女が、演奏後、会場にダイブする。出演者を身近に感じさせる、このライブの飾らない手弁当の魅力がよく出ているシーンだった。

演奏のほとんどがバンドの生演奏(ザ・ルーツの手練のプレイが頼もしい)なので、ヒップホップが苦手という人でも楽しめると思う。
映画を観る、というよりも、ライブに行く、という感覚で映画館に足を運ぶのもいいんじゃないかな。

http://blockparty.jp/home.html