とんぼの本『画家たちの「戦争」』(新潮社)読む。
“戦争画”は、太平洋戦時中、戦意高揚のために描かれた作品のことだ。
終戦後アメリカに接収された後、返却ではなく“無期限貸与”として日本に移され、現在、国立近代美術館に保管されている。
この“戦争画”は、2、3点ずつ国立近代美術館の常設展で展示されている。
私は何度か常設展を見ているが、戦争画の一角に立つと、なんとも居心地の悪い気分になる。
この居心地の悪さは、歴史や美術、政治などが、消化できないまま渦を巻いている感じだ。
眼前あるものに政治性を帯びた時代の堆積を意識する。
きっと答えなど出ない性質の問いが、目の前にある。そのように思わされる、常設展を気軽に眺める者としては非常に厄介な絵画だ。
以前、藤田嗣治の戦争画をきっかけとして、戦争画について少し考えたことがある。
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http://blog.goo.ne.jp/rinmu_2006/e/ddfcc15700c77722f4b5fc1bc2c5a890
http://blog.goo.ne.jp/rinmu_2006/e/8994d3352e5a90a50cf82919c8633971
『画家たちの「戦争」』とんぼの本(新潮社)をきっかけとして、あらためて戦争画について考えた。帯には次のように記されている。
《戦争画とは何か?
いまだタブー視されている戦争画の名作を
じっくり鑑賞し、様々な意見に触れ、
もう一度、考えてみよう!》
戦争画を受け止める姿勢のあり方を、この帯文はいくつか示していると思う。
戦争画を「タブー視」しないためは、向き合うしかない。そもそも戦争画の「名作」とはすぐれたプロパガンダということではないのか。
じっくり鑑賞する居心地の悪さを引き受けること。この本によって、近美の常設展に足を運べない人でも、戦争画の多数の図版と様々な意見に触れることができる。
戦争画のまとまった展覧会が開かれたことはないし、これからも開かれる予定はないという。
このような絵画を歴史に位置付け、受け止めることができる時代まで、「戦後」は終わらないのだな、と思う。
最後に、この本に納められている河田明久氏の論考を引く。戦争画の課題を明解に、端的に記した文章だ。
「そもそも戦争画を「理解」するとはどういうことだろう。それらはマッカーサーにも判断がつきかねたように、芸術作品でありながら、同時にまちがいなくプロパガンダの道具でもある。また死闘図を描いていたころの藤田が見切っていた通り、表現の少なくとも半分は表現者の意図ではなく、表現を受け止める側の解釈の仕方にかかっている。戦争画の「教え」というものがもしあるとすれば、それはこの割り切れなさを引き受けたうえで、あらためて表現とは何か、と問い直すことでしかないだろう。」