先日岡山からの帰りに、備前一宮の吉備津彦神社に立ち寄った。
一宮というのは、奈良時代に中央から派遣された国司が一番最初に参拝した神社の
事で、その国の中では最も社格が高いとされている由緒ある神社だ。
大きな鳥居をくぐると左右に池がありいずれも広大だ。
夏至の日の出には鳥居の真正面から日が射し、神殿の鏡に映る事から「朝日の宮」
ともいわれ、古代の太陽信仰を原点に吉備津彦神社が創建されたことを象徴してい
るのだそうだ。
更に進むと、左右に一対の大きな石燈籠があり随神門に続く。
この一対の石燈籠、高さが11m・笠石は8畳敷きの広さがあり日本一と言われて
いる。
地元有志の発起により、備前一円、浅口郡を中心に広く寄進を募り、天下泰平・国
家安全・万民豊楽・五穀成就などを念願して奉納されたもので、寄付者は1670名、
浄財は実に5676両(約1億3千万円)にのぼったそうだ。
完成したのは日米修好通商条約が結ばれた1858年だというから、或いは「外国が攻
めて来る」という恐怖も手伝ったのであろうか?
その奥には、拝殿に続き祭文殿・渡殿・本殿があり、いずれも荘厳な造りだった。
背後の吉備の中山には、巨大な磐座(=いわくら、神が鎮座する岩)などがあり、古
くから神の山として敬われて来たそうで、吉備津彦命もこの山に祈って吉備国を平
定したという。
毎年5月の第2日曜日には、神社の案内の下に磐座を登拝巡拝する「磐座祭」が行
われ、一般の参加者も多いそうだ。
嘗て、吉備国を支配していた勢力と大和王権が戦ったこの吉備中山の一帯、東には
同じく吉備津彦命を祀った吉備津神社があり、南には御陵墓(吉備津彦命の墓)も
ある。 興味は尽きない!
吉備津彦命
第7代霊天皇の皇子で本来の名前は五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、
第10代崇神天皇の命により北陸・東海・西道・丹波の各地を平定する為に派遣
された4将軍(四道将軍と呼ぶ)の一人で、腹違いの弟である稚武彦命と共に西
道(山陽道)を制した功績により吉備津彦命と名乗る事になった。
吉備津彦命というのは、本来”吉備の男”や”吉備の支配者”を表す呼び名で、何
代にも亘って用いられていて分かり難い為に、吉備を平定した吉備津彦命は大吉備
津彦命と呼ばれている。
吉備津彦命は元々吉備国一宮の祭神として祀られたが、律令制の成立に伴い吉備国
が備前・備中・備後に分割された際、各国の一宮の祭神として分祀された。
一宮というのは、奈良時代に中央から派遣された国司が一番最初に参拝した神社の
事で、その国の中では最も社格が高いとされている由緒ある神社だ。
大きな鳥居をくぐると左右に池がありいずれも広大だ。
夏至の日の出には鳥居の真正面から日が射し、神殿の鏡に映る事から「朝日の宮」
ともいわれ、古代の太陽信仰を原点に吉備津彦神社が創建されたことを象徴してい
るのだそうだ。
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更に進むと、左右に一対の大きな石燈籠があり随神門に続く。
この一対の石燈籠、高さが11m・笠石は8畳敷きの広さがあり日本一と言われて
いる。
地元有志の発起により、備前一円、浅口郡を中心に広く寄進を募り、天下泰平・国
家安全・万民豊楽・五穀成就などを念願して奉納されたもので、寄付者は1670名、
浄財は実に5676両(約1億3千万円)にのぼったそうだ。
完成したのは日米修好通商条約が結ばれた1858年だというから、或いは「外国が攻
めて来る」という恐怖も手伝ったのであろうか?
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その奥には、拝殿に続き祭文殿・渡殿・本殿があり、いずれも荘厳な造りだった。
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背後の吉備の中山には、巨大な磐座(=いわくら、神が鎮座する岩)などがあり、古
くから神の山として敬われて来たそうで、吉備津彦命もこの山に祈って吉備国を平
定したという。
毎年5月の第2日曜日には、神社の案内の下に磐座を登拝巡拝する「磐座祭」が行
われ、一般の参加者も多いそうだ。
嘗て、吉備国を支配していた勢力と大和王権が戦ったこの吉備中山の一帯、東には
同じく吉備津彦命を祀った吉備津神社があり、南には御陵墓(吉備津彦命の墓)も
ある。 興味は尽きない!
吉備津彦命
第7代霊天皇の皇子で本来の名前は五十狭芹彦(いさせりひこ)といい、
第10代崇神天皇の命により北陸・東海・西道・丹波の各地を平定する為に派遣
された4将軍(四道将軍と呼ぶ)の一人で、腹違いの弟である稚武彦命と共に西
道(山陽道)を制した功績により吉備津彦命と名乗る事になった。
吉備津彦命というのは、本来”吉備の男”や”吉備の支配者”を表す呼び名で、何
代にも亘って用いられていて分かり難い為に、吉備を平定した吉備津彦命は大吉備
津彦命と呼ばれている。
吉備津彦命は元々吉備国一宮の祭神として祀られたが、律令制の成立に伴い吉備国
が備前・備中・備後に分割された際、各国の一宮の祭神として分祀された。