里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

相方(さがた)城

2008年11月18日 | 歴 史
大佐山の運動公園から、神谷川・新市の町を挟んで南西の方角に城山が見える。


昔、その山頂には山城があったと聞いていたが、新市歴史民族博物館にその相方城
模型が展示してあったのを見て早速行って見た。
すると、そこには嘗てのお城の代わりにTV電波中継塔が我が物顔に立っていたが、

嘗て、標高191mのこの山頂には、東西約1000m・南北約500mの範囲に城郭が分布
する大規模な山城があったのだそうだ。

(相方城模型と城郭配置図) ※相方城模型は新市歴史民族博物館所蔵のもの

今でも、特に東曲輪群の本丸跡に郭3・2、郭4・5などの石垣が残っている。
(左手前が郭3、奥側が郭2)(左が郭4・右が郭5)

このお城、宮氏・有地氏・毛利氏が支配したそうだが、
西曲輪跡に立つと、古山陽道が走る府中市(北西)や新市町(北~北東)が手に取
るように見え、

東曲輪跡に立つと、北~北東の新市町に加え、東には山陽道が走る神辺平野まで
一望でき、この交通の要衝に位置する城山が軍事的に重要だった事が良く分かる。

嘗て備後国一帯では、尼子氏と大内・毛利氏との間で幾たびもの戦いがあり、各地
の領主達もあっちについたり、こっちについたり忙しかったらしい。
この地を支配していた宮氏は尼子氏について結局滅ぼされ、その後の支配者・毛利
氏も周防国・長門国に転封となり、この相方城も結局廃城となったという。

空しいものだが、その城門だけは移設され今でも新市町内の素戔嗚神社に残っている。
関ヶ原以前の城門は、こ神社の2棟と島根県益田市に残っているだけで貴重なのだそ
うだ。



相方城の由来
・芦田川を挟んで北側に見える亀寿山(標高:139m)を本拠地として備後南部に
 勢力を持っていた国人領主の宮氏や、相方城より南の地域を本拠地としていた
 宮氏一族の有地氏などにより、16世紀前半には中世山城として整備されていた。
・天文21年(1552年)に宮氏が滅んだ後は、有地一族が出雲国や備後国北部に
 給地替えされるまで、相方城を拠点に当地を支配していた。
・その後は、毛利氏の直轄城となり、東方備えを目的とした近世城郭として整備さ
 れたが、関ヶ原の戦いによる毛利氏の撤退によって廃城となった。