里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

三原“浮城まつり”(1)

2008年11月10日 | 歴 史
TVで、三原の“浮城まつり”なるものを宣伝していた。 
5年前から始まったお祭りで、“小早川甲冑部隊”が旧城下を練り歩くという。
面白そうなのでダボハゼとしては見逃せず、昨日見に行って来た。

この“浮城”というのは実は三原城の事なのだそうで、
商船が往来する瀬戸内海を制する事を目的に、1567年に小早川隆景が沼田川河口の
島々を石垣でつないで築いた、東西約900m、南北約700mにも及ぶ本丸・二の丸・
三の丸・二層、三層の隅櫓32・城門14を有するお城で、満潮時には城が海に浮かぶ
ように見える事から“浮城”と呼ばれ、築城以来福島氏・浅野氏と引き継がれて来たという。

早速城を見に行ったが、面白い事に駅の北口から直接に堀を眺めながら天守台に登
る事ができる。 天守台には何も無いが綺麗な公園(→)だ。
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しかし、この天守台を北側から見ると何とお城の本丸がJRによって轢断されてい
るように見え、福山城より程度が悪くて最悪だ!

この三原城、現在の地図で見ると東(画像では左)の和久原川から西の臥龍橋に至
る規模だったそうだが、1894年(明治27年)に本丸を貫いて山陽鉄道が開通した為
に城郭の殆どが壊された上に、その後埋め立てや新幹線の開通などで今やあちこち
に僅かに城の痕跡(●印)を残すのみとなったのだそうだ!

何だか気落ちしてしまったが、散歩がてら残骸を北東の東大手門跡→南の船入櫓跡
→本丸中門跡の順に訪ねて回った。

先ず、東大手門跡。 
ここには石碑が立っているだけで、現在は広島大学付属小中学校になっている。

次は、船入櫓跡。
北側から見ると、未だ幾らか広い水路が残されていたが、嘗て海に面していた南側
(→)は埋め立てられて民家が建ち並び、水路もすっかり狭められていた。
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次は、本丸中門跡。
ここには石垣と狭められた堀が残っていた。

ヤレヤレ、寂しい限りだった。 
これでも歴史遺産を「良く残している」と考えるべきなのだろうか? 
最近、観光庁を創設して外国人に来て貰おうとしているらしいが、政府や地方も
「大事に残しておけば役立ったのに!」と後悔しているのでは…?