先日福山市の広報誌に、備後絣と呼ばれる織物を広めた富田久三郎という人を紹介
していた。
備後絣といえば、嘗て伊予絣・久留米絣と並んで日本三大絣といわれたほど有名で、
私の家の近所でも何軒も業者が居たものだが、やがて着物を着る習慣がなくなるに
連れて全部廃業してしまった。
しかし、新市町の“カイハラ”という業者はその後のジーンズの流行に乗っかり、
今や中国やアメリカの何倍もの価格でも売れるジーンズ製造の世界的な会社に成長
したという。
そこで、世界を席巻するこの技術の礎を築いた、この富田久三郎という人の業績を
知る為に、先週土曜日に“新市歴史民族博物館”を訪ねた。
館内には、遺跡から出土した遺物やそれを説明するパネルが各時代ごとに整然と展
示してあり、その一角には富田久三郎翁の経歴のほか往時の絣関係の機器も展示し
てあった。(※以下、博物館の資料から引用した)
(富田久三郎翁の経歴)
・1828年、芦品郡有磨村有地(現在の福山市芦田町)に、富田又右衛門長安の
次男として生まれ、少年時代農家の副業として機織(はたおり)を始める。
・1844年、阿波の人からヒントを得て「織絹法」から「浮織の法」を編み出し、
伊予から伝わった高機(たかはた)を使い手挽糸で縞木綿を織った。
・1850年、更に絣の研究を続け「井桁織」を創始。 当時「谷迫紬」「有地紬」と
呼ばれた。
・1860年、府中に始めて入った30番手の唐糸を使って織り、「備後絣」と呼ばれた。
・1911年、84歳で亡くなるまで「備後絣」の研究と発展に尽くした。
(糸を紡ぐ糸車と絣)
(経括り機、経糸を括った部分は染め残って白い模様となる)
(織機類、染め上がった糸を織る機械)
これらの機械を使って絣を染めから織りまで体験する事も可能で、色々なサークル
も利用しているらしい。
何しろ、この富田久三郎翁の技術のお陰で、1960年(昭和35年)には備後絣の生産
量は全国の絣生産量の70%を占めたという。
その功績を讃え地元の絣生産者により多くの石碑などが残され、新市町内の素戔嗚
神社(天王さん)境内には“富田翁碑”なども建てられていて、
今でも「備後絣の祖」として多くの人々の尊敬を集めているそうだ。
今回はその一つ、この博物館から神谷川を隔てた対岸にある大佐山運動公園の一角
に建てられている銅像を見学した。
富田翁は今も運動公園の高みから若者達を見守っていてくれるように見えた。
このような大先輩を持ち、時を経てその技術を活かして生きて行ける子孫達の幸せ
を思わずにはいられなかった! 傍らにある銀杏や紅葉を一段と綺麗に感じた。
(翁と運動公園)
していた。
備後絣といえば、嘗て伊予絣・久留米絣と並んで日本三大絣といわれたほど有名で、
私の家の近所でも何軒も業者が居たものだが、やがて着物を着る習慣がなくなるに
連れて全部廃業してしまった。
しかし、新市町の“カイハラ”という業者はその後のジーンズの流行に乗っかり、
今や中国やアメリカの何倍もの価格でも売れるジーンズ製造の世界的な会社に成長
したという。
そこで、世界を席巻するこの技術の礎を築いた、この富田久三郎という人の業績を
知る為に、先週土曜日に“新市歴史民族博物館”を訪ねた。
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館内には、遺跡から出土した遺物やそれを説明するパネルが各時代ごとに整然と展
示してあり、その一角には富田久三郎翁の経歴のほか往時の絣関係の機器も展示し
てあった。(※以下、博物館の資料から引用した)
(富田久三郎翁の経歴)
・1828年、芦品郡有磨村有地(現在の福山市芦田町)に、富田又右衛門長安の
次男として生まれ、少年時代農家の副業として機織(はたおり)を始める。
・1844年、阿波の人からヒントを得て「織絹法」から「浮織の法」を編み出し、
伊予から伝わった高機(たかはた)を使い手挽糸で縞木綿を織った。
・1850年、更に絣の研究を続け「井桁織」を創始。 当時「谷迫紬」「有地紬」と
呼ばれた。
・1860年、府中に始めて入った30番手の唐糸を使って織り、「備後絣」と呼ばれた。
・1911年、84歳で亡くなるまで「備後絣」の研究と発展に尽くした。
(糸を紡ぐ糸車と絣)
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(経括り機、経糸を括った部分は染め残って白い模様となる)
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(織機類、染め上がった糸を織る機械)
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これらの機械を使って絣を染めから織りまで体験する事も可能で、色々なサークル
も利用しているらしい。
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何しろ、この富田久三郎翁の技術のお陰で、1960年(昭和35年)には備後絣の生産
量は全国の絣生産量の70%を占めたという。
その功績を讃え地元の絣生産者により多くの石碑などが残され、新市町内の素戔嗚
神社(天王さん)境内には“富田翁碑”なども建てられていて、
今でも「備後絣の祖」として多くの人々の尊敬を集めているそうだ。
今回はその一つ、この博物館から神谷川を隔てた対岸にある大佐山運動公園の一角
に建てられている銅像を見学した。
富田翁は今も運動公園の高みから若者達を見守っていてくれるように見えた。
このような大先輩を持ち、時を経てその技術を活かして生きて行ける子孫達の幸せ
を思わずにはいられなかった! 傍らにある銀杏や紅葉を一段と綺麗に感じた。
(翁と運動公園)
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