黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

フィガロの結婚Vol.4手紙の二重唱が独唱に~三馬鹿トリオ

2024-12-29 12:54:38 | オペラ

ベーム、プライ、ポップそれにバルツァ(ケルビーノ)が参加した1980年のウィーン国立歌劇場の引越公演の「フィガロの結婚」は聴けなかったが、1986年に再来日したときも「フィガロ」が演目に入っていたから、このときは何が何でもの気概で聴きに行った。既にベームは亡くなっていたし、プライもポップもバルツァ来なかった。だが、伯爵夫人は引き続きヤノヴィッツが勤めたし、スザンナはバーバラ・ヘンドリクスだったから、一応名のある人を連れてきてはいた。だが、それは1stキャストの話。私が行った日は2ndキャストに当たって「飛車角落ち」と言って嘆く人もいた。いや待て、日本で名前が売れてなくても実は逸材だったって話は山ほどある。先入観はいけない。高いチケット代を払ってるんだからそうでなくては困る、そうであってくれと念じながら席についた。結果を想像できるエピソードを一つ挙げよう。第3幕に有名な「手紙の二重唱」がある。伯爵夫人が歌ってスザンナが歌う、これを何度か繰り返したあと二人が同時にハモって歌う。

ここがハモらなかった。なぜか?赤で囲んだところ(スザンナのパート)をスザンナが歌わなかったのだ(途中で気付いたようで、最後のファとシ♭だけそろーっと歌っていた)。ホールの中は、一人空しく歌う伯爵夫人の声だけが響いていた(ヴェルディのオペラ「ドン・カルロ」に「一人寂しく眠ろう」というアリアがあるが、ここは「一人寂しく歌おう」になった)。

それで思い出すのは「フィガロ」からは一瞬離れるが第九のある演奏(指揮者もソリストも超有名)。第4楽章で、合唱の二重フーガが終わって久々にソリストが登場するところは、まずテナー・バリトン組が出て、それをソプラノ・アルト組が追っかけ、次にソプラノ・アルト組が出て、それをテナー・バリトン組が追っかけるのだが、なんと、テナーがソプラノ・アルト組と一緒に出てしまい(赤で囲った箇所を二小節先に出てしまい)、

取り残されたバリトンが一人さみしく歌うはめになった。だが、間違ったテナーは間違ったことなどおくびにも出さない。バリトンは一つも悪くないのだが、なんだか一人で歌うバリトンが間抜け面に見えたものである。

「フィガロ」の公演に戻る。それからケルビーノ。アリアを歌った後、両手を広げていかにも「どうだっ」って感じで観衆にアピールしたのだが、拍手は気の毒なくらいまばら。広げた両手が空しかった。その理由については、後日、1stキャストによる公演の様子をNHKがテレビで放映した際、クラシックファンの少年少女のマドンナだった後藤美代子アナウンサーが端的に「前回歌った彼女(バルツァ)がすごかったから割りを食ってる」と言い表していた。

それでも、脇役陣は、おなじみのウィーン国立歌劇場の座付き歌手(リローヴァ、リドル、ツェドニク等)が固めていた。「フィガロ」の脇役と言えば、マルツェリーネ、バルトロ、バジリオの仇役三人衆。私はこの三人を「三馬鹿トリオ」と呼んでいる。第2幕のエンディングで三馬鹿トリオが登場するシーンは最高にわくわくするシーンである。

それまで、オペラは、レチタティーヴォで劇が進行し、アリアで歌手の妙技を披露していたのだが、この「フィガロの結婚」は重唱でどんどん話を進めていくところが画期的と言われている。映画「アマデウス」にも、モーツァルトが皇帝に対して、第2幕の重唱が当時の常識に反して延々と続く様を語ってその興味をかきたてるシーンがある。その重唱のクライマックスが三馬鹿トリオの登場シーンなのである。これで登場人物が7人になり、圧倒的な声の饗宴の中、幕が下りる。こうなると配役の難など忘れしまう。よく、音楽に詳しい人が「モーツァルトは短調に限る」と言うが、私などは、この重唱から聴けるモーツァルトの健康的な、底抜けな明るさから大いに元気をもらうのである。

 

 

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「ホームアローン」における正当防衛の成否

2024-12-29 09:17:42 | 映画

映画「ホームアローン」の1~3をディズニー+で観た。第1作が公開されたのは30年以上前で、一人でお留守番になった男の子が泥棒一味を撃退するお話(「2」は舞台がおもちゃ屋さんになる)。撃退の方法は、家にいろんな仕掛けをして、それに泥棒をひっかける、というもの。「4」以降も制作されているから超人気シリーズなのだろうが、私は、ちょっとやりすぎ?という感を持った。床にビーズを撒いて泥棒をこけさせる程度なら可愛いのだが、高圧電流に感電させたり、油で髪の毛を燃やしたり、上階からブロックを落として頭にぶつけるとなると命にかかわる。制作者は正当防衛を主張するのだろうが、そこのところを検証したい。

正当防衛が成立するためには「急迫不正の侵害」に対する「やむをえずしてした行為」であることが要件である。正当防衛なら無罪である。まずは「急迫性」について検討しよう。泥棒が来ることは予見されていたから、主人公はたっぷり時間をかけて家に仕掛けをした。そんな時間があって「急迫」と言えるだろうか。警察に通報する時間は十分にあったのだからまず通報すべきではなかったのか(なお、「3」では真っ先に警察に通報するも警察が信じなかったから「3」は議論から除く)。通報することはしているが、もうさんざん泥棒に痛い目を遭わせた後である。まるで、さんざん怪獣を投げ飛ばした後にスペシウム光線を浴びせるウルトラマン、はたまたさんざん助さん格さんに代官と越後屋とその家来に痛い目を遭わせた後に印籠を出させる水戸黄門のごとしである。この件に関しては判例があり、「急迫不正の侵害があらかじめ予期されていたとしても、そのことから直ちに急迫性を失うものではない(正当防衛が成立しうる)」とのことである。だが、判例は「この機会を利用して積極的に相手に対して加害行為をする意思で侵害に臨んだときは(積極的加害意思があった場合は)、急迫性の要件を満たさない(正当防衛は成立しない)」とも言っている。主人公の少年に積極的加害意思があったかどうかについて吟味すべきである。

「急迫不正の侵害」要件を満たして正当防衛が成立する状況であったとしても、やり過ぎると過剰防衛になり、有罪だが刑が減軽又は免除される可能性が出てくる。正当防衛については、緊急避難と違って、やられた場合のダメージとやり返したことによって生じたダメージを厳格にくらべっこする必要はないが、「相当性」は必要である。すなわち、前者に比べて後者があまりにも大きい場合は過剰防衛となる。では、泥棒を命の危険に陥れたらどうだろう?財産をとられそうになったので命をとるというのはやり過ぎの感がある。だが、寝込みを泥棒(強盗)に襲われた際、相当性など考える余裕はない。夢中になって反撃して強盗があの世に逝って過剰防衛というのは腑に落ちない。そこはちゃんと特別法が用意されていて、被害に遭った際、こちらの生命、身体、貞操が危なくなった場合、又は、そうした場合でなくても(単にモノをとられそうになっただけでも)恐怖、驚愕、興奮、狼狽によって犯人を殺傷した場合は、相当性とかに関係なく正当防衛が成立することになっている。では映画の主人公はどうだろうか?たしかに、途中から泥棒たちは「ぶっ殺してやる」と言って少年を追う。だが、それはさんざん痛い目に遭わされた後のことである。少年は、冷静に作戦を立てて泥棒を陽動して罠にはめている。恐怖、驚愕、興奮、狼狽があったとは考えにくい。特別法の適用は微妙である。

以上の考察は、しかしながらまったくの無駄骨である。少年は100%無罪である。なぜなら、14歳未満の者は刑事責任を問われないところ、少年は8歳だからである。因みに、アメリカ人でありアメリカ在住の少年に対して日本国刑法の適用を考える意味があるだろうか。もし、少年に正当防衛が成立しないとすれば考えられる罪状は傷害罪である。被害者(泥棒)はアメリカ人であり現場はアメリカである。この場合、日本国刑法の適用はない。基本的には、日本国刑法の適用があるのは日本国内の行為であるが、例外的に国外犯に適用される場合がある。本件はその例外のいずれも該当しないからである。

 
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