黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

コラールの成り立ちVol.2「血潮したたる」

2024-11-27 11:10:24 | 音楽

前回がヨハネだったので、今回はマタイである。バッハのマタイ受難曲の中心となる曲はコラール「血潮したたる(O Haupt voll Blut)」だと言われている。

今回は、このコラールの成り立ちのお話である。バッハの受難曲は、福音書、アリア、コラールの各部分から成り、このうちコラールは、教会で会衆によって歌われるシンプルな賛美歌をそのまま持ってきたものであり、バッハはそれに和声付けをした。では、コラールの源流は賛美歌か?と言うと、そうとも限らず、歌詞、メロディーとも更なる上流がある場合がある(古利根川の起点の前に葛西用水があるごとしである)。今回は、「血潮したたる(O Haupt voll Blut)」の源流探しである。

このコラールの元曲がルネサンス期のハンス・レオ・ハスラー(Hnas Leo Haßler(1564~1612))の恋の曲であることはよく知られているが、実は、ハスラーの曲とバッハが直接つながっているのではない。間に、賛美歌「血潮したたる(O Haupt voll Blut)」が挟まっている。

その賛美歌の作者は、パウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt(1607~76))と言われている。だが、ゲルハルトは教会詩人だから曲は作ってない。ヨハネ終曲のときのシャリングもそうだが、この時代は詩人の方が偉かったのだろうか。作詞者を「作者」と呼ぶことが多い。

その作詞も、実はゲルハルトが最上流ではない。中世のラテン語の詩「十字架にかかりて苦しめるキリストの肢体への韻文の祈り(Salve caput cruentatum)」があって(その作者は、当初はクレルヴォーのベルナール (Bernhard von Clairvaux(1090~1153頃)) とされていたが、後にレーヴェンのアルヌルフ(Arnulf von Löwen(1200~1250))に上書きされた)、これをゲルハルトが1656年にドイツ語に翻訳したものが賛美歌「O Haupt voll Blut」の詩となった。

では、もう一つの源流、すなわち、作曲者に向かおう。上記の通り、元曲の作曲者はハスラーである。それは「私の心は千々に乱れ(Mein G’müt ist mir verwirret)」という題名の恋の歌である。

世俗曲が宗教曲になる例は山程ある(一例を挙げれば、デュファイの「私の顔が青いなら(それは恋をしているから)」というシャンソンが後に同じ作曲家によってミサ曲に仕立て上げられた)。この曲のリズムを簡単にして、ゲルハルトの詩にあてはめたのである(次の比較楽譜の上段=ハスラーのソプラノ声部、下段=マタイのソプラノとアルト声部)。

この編曲をしたのは当時の著名な教会作曲家ヨハン・クリューガー(Johann Crüger(1598~1662))である(注1)。この人は「Jesu meine Freude」のメロディーを作った人で、ゲルハルトとは仲良しで、ゲルハルトの数々の讃美歌のために作曲した人である。そもそも、優れた讃美歌詩人としてのゲルハルトを最初に見出したのはクリューガーである(注2)。

さて。ゲルハルトの詩は10節から成り、第1節が「O Haupt voll Blut」であり、これがマタイ受難曲の第54曲(通し番号は新バッハ全集による)であるが、マタイ受難曲は他の節も採用している。次のとおりである。
第5節(Erkenne mich。第15番)
第6節(Ich will hier bei dir stehen。第17番)
第9節(Wenn ich einmal soll scheiden。第62曲)
以上のほか、もう一つ、同じメロディーを持った曲がある。第44曲(Befiel du deine Wege)である。これは、「O Haupt voll Blut」とは別の賛美歌だが、やはりゲルハルトの作詞である(注3)。なお、この賛美歌「Befiel du deine Wege」は、もともと別のメロディー(ドーリア旋法)でも歌われていたが、後にハスラー起源のメロディーでも歌われるようになったものである(注3)。

以上を整理すると、中世のラテン語の詩と、ハスラーの世俗曲が、ゲルハルトとクリューガーによって賛美歌「O Haupt voll Blut」に融合し、その中から4曲(+ゲルハルトの「Befiel du deine Wege」)をバッハがマタイ受難曲に採用した、ということである。

実は、ハスラーの曲には、バッハのマタイ受難曲にはたどりつかない別の流れがある。すなわち、ハスラーの世俗曲のメロディーは、ゲルハルトの「O Haupt voll Blut」の前に、既にクリストフ・クノル(Christoph Knoll(1563~1621))の賛美歌「Herzlich tut mich verlangen(心から願う)」にあてがわれていた(注1)。

そのため、同じハスラーのメロディーを持つ賛美歌が2種類存在したことになる(クノルの「Herzlich tut mich verlangen」とゲルハルトの「O Haupt voll Blut」。なお、ゲルハルトの「Befiel du deine Wege」も含めれば3種類)。この2種類の間では、バッハのマタイ受難曲が「O Haupt voll Blut」を採用したからそちらが優勢だと思いきや、タイトルのネーム・ヴァリュー的には意外にもクノルがかなり優勢で、バッハが件のメロディーを使って書いたオルガン曲(BWV727)のタイトルは「Herzlich tut mich verlangen」だし、同様のブラームスのOp122-20のタイトルもそっちである。おそらく、ゲルハルトが「O Haupt voll Blut」を書いた時点で、クノルの賛美歌が既に広く浸透していたせいだろう。

ウチにある日本語の賛美歌集では、大層奇っ怪なことになっている。件のメロディーの賛美歌の日本語のタイトルは「ちしおししたる」で、内容も「ちしおしたたる主のみかしら」だから日本語タイトルと一致している。ところが原詩が「Herzlich tut mich verlangen」とされているのである。そう言えば、「O Haupt voll Blut」はドイツから英米に広がり「Herzlich tut mich verlangen」という曲名で讃美歌集に収録された、と書いてあるものがあった(注4)。そうしてタイトルと内容の食い違いが起きたのだな、とガテンがいった。

因みに、マタイでは5回も出てくるこのメロディーが、ヨハネでは一度も出てこない。

注1:ウィキペディアドイツ語版の「Mein G’müt ist mir verwirret」
注2:ウィキペディア日本語版の「ヨハン・クリューガー」
注3:ウィキペディアドイツ語版の「Befiel du deine Wege」
注4:ウィキペディア日本語版の「血潮したたる」

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ストーブにあたる

2024-11-27 09:06:51 | 生活

朝晩冷えてきたので、ストーブにあたる。

アラジンのストーブである。トースターが当たりだったのでアラジンづいている。だが、このメーカーはもともと石油ストーブを売ってたんだよな。

いまどきの人は、エアコンで部屋全体の温度を調節することに慣れてるから、「ストーブにあたる」という表現にぴんとこないかもしれない。私が子供の頃は、冬場、朝起きるとストーブをつけるが、すぐには暖まらないので、寒い中バタバタしてるうちに、ストーブが暖まってきたらその傍らであたったものである。

学校にだってエアコンが付いてたことはない。小学校の頃は、冬場になると巨大なストーブが教室に運び込まれ(燃料はなんだったんだろう?石炭?)、朝つけて、昼頃になってようやく暖かくなった。そのストーブにみんなが弁当を置いて温めた記憶があるのだが、小学校は給食だったから、幼稚園のときの記憶と混同してるのかしらん。

ふと思った。「あたる」とは、「あたたまる」が縮まった言葉だろうか?これから調べる。調べた。はずれた。大辞林によると「当たる」「中る」の例文の中に、「焚き火にーって」があった。まあ、発明だって100の思いつきの中でモノになるのは一つか二つだという。まして、私である。思いつきのほとんどはずれでも不思議はない。

そう言えば、♪焚き火だ焚き火だ落ち葉焚きー、という童謡があった。このご時世、場所と方法によっては焚き火をしてお縄になりかねないからこの童謡だって楽しげに歌ってられないはずである。焚き火は、第一次的には特別法で規制されているようだが、ここでは刑法の放火罪に触れるかの検討をしてみよう。刑法の放火罪は、燃やす客体によって、
①現住建造物等
②非現住建造物等(他人所有)
③同(自己所有)
④その他
に分けられるところ、落ち葉は④である。④を燃やして放火罪になるためには「公共の危険(延焼の危険)」の発生が必要であるが、この「公共の危険の発生」に故意は不要だから(判例)、燃え広がらないと思って落ち葉焚きをしたら意に反して危険が生じてしまった場合でも放火罪が成立する(繰り返すが、このような刑法の前に特別法でとっつかまる可能性がある)。

件の童謡は、出だしが♪サザンカサザンカ咲いた道……だった。私は、この童謡のイメージから、ずっとサザンカってやつは道の傍らに日陰者風に咲く雑草だと思っていた。昨年、奥地の家の庭の樹が白い花を咲かせ、

それがサザンカだと初めて知った。へー、こんな大きな樹なんだ……このサザンカは今はもうない。先般、庭にはえている草木を一掃したからだ。このサザンカは残そうかとも思ったが、道路に葉や花を落とす。常時住んでないためその掃除ができないことが今回の「草木殲滅作戦」の理由であったからこれを残すことはできなかったのである。アーメン。

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コラールの成り立ちVol.1ヨハネ受難曲の終曲

2024-11-26 09:27:48 | 音楽

ドーリア旋法のことを書いた際、バッハのヨハネ受難曲の最後から2番目の合唱曲について触れた。と来れば、終曲コラール(以下「ヨハネ終曲」という)のことを書かないわけにはいかない。私が自分の葬式に使いたい(できれば指揮をしたい?)曲の有力候補である(もう一曲はバッハのモテットの第2番である)。冒頭はこんな感じである。

川の成り立ちについて随分書いているが、曲の成り立ちもまた奇々怪々である(「怪物くん」の主題歌のエンディングは「ききかいかいの、かいぶつくん」だった)。声楽曲は、歌詞と音楽から成り立つわけだが、バッハの受難曲は、イエスの受難について書かれた福音書を語る(歌う)部分と、アリアと、コラール(教会で会衆によって歌われるシンプルな賛美歌)から成るところ、福音書の部分の歌詞は、これは言うまでもなくヨハネ受難曲ならイエスの弟子のヨハネが記したものであり、作曲者はバッハである。それに対し、アリアの作詞者は当時の台本作家であり作曲者はバッハ。コラールとなると、賛美歌をそのままもってきているので、和声付けこそバッハがしているが、作詞も元のメロディーの作曲も別の人である。さらに、教会で歌われていた賛美歌が川で言うところの源流かというとそうでない場合もある。例えば、有名な賛美歌「血潮したたる」の元曲は、ハンス・レオ・ハスラーの恋の歌である(「血潮したたる」については別の機会に詳述する)。

では、ヨハネ終曲の「源流」は何か?それは、「Herzlich lieb」(心から愛す)という賛美歌である。この賛美歌の歌詞は3節から成り、その3節目だけピックアップしたのがヨハネ終曲である。

この賛美歌の作者は教会詩人のマルティン・シャリング(1532~1608)とされている。だが「作者はシャリング」と言ったら詩も曲もシャリングが作ったように思われそう。それはミスリードである。シャリングは詩人だから歌詞を作った人である。

聖書の詩編18の中に「Herzlich lieb hab ich dich」という句がある。シャリングの詩の第1節の冒頭と同じである。シャリングが詩編のこの言葉にインスパイアされた可能性はあるかもしれない。

では、作曲者は誰だ?分からないというのが分かっていることである。シャリングの歌詞は作者不明のメロディーで歌われたものであり、そのメロディーは、1577年のオルガンのタブ譜に登場し、ヨハネス・ツァーン(1817 ~1895。ドイツの賛美歌のメロディーを収集研究した人)の目録の8326番に掲載されているそうである(以上、ウィキペディア英語版より)。

この詩とメロディーは、別々に、あるいは一緒に、バッハ以前の何人かの作曲家によって使われた。

例えば、ハインリヒ・シュッツ(1585~1672)は、その詩に独自の曲を付けて、「宗教的合唱曲集」の中の一曲とした。

シュッツは三節を全部使ったからかなり長い曲である(第3節(ヨハネ終曲の歌詞)は繰り返しの先)。歌ってるうちにじわじわと興奮が高まってくるするめのような曲である。この曲の第3節を歌ってるとき、あれ?これヨハネ終曲と同じ歌詞だ(メロディーは違うけど)と気付いたのである。

ヨハン・フリートリヒ・アルベルティ(1642~1710)は、コラール前奏曲でそのメロディーを使用した(右手の二分音符)。

ブクステフーデ(1637~1707)は、詩とメロディーを共にカンタータ(BuxWV41)に使用した(Cantoのパート)。

このように、バッハ以前に、この賛美歌の詩もメロディーも「使用実績」があってのバッハによるヨハネ受難曲への採用であった。

なんと、この終曲は、ヨハネ受難曲の第2版で一度削除さて、第4版で復活したという。たしかに、バッハのマタイ受難曲は、自作の大合唱で曲を締めていて、最後にコラールを持ってきていない。それと歩調を合わせたようでもある。

だが、ヨハネ終曲の和声付けは秀逸である。その最後の部分は超劇的である。

その仕掛けはアルトにある。「Jesu Christ」の和声はアルトにかかっている。なお、私のパートは、この「おいしい」アルトである。

もしこの終曲がなかったら、私の葬式曲がモテット第2番一択になったところだった。

以上でヨハネ終曲の成り立ちのお話はおしまい。これは私の備忘録である(過去、調べて書き散らした内容を整理したものである)。バッハのコラールの成り立ちネタはまだストックがあるから、追々出していく所存である。

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ボジョレ・ヌヴォーと天ぷら

2024-11-25 10:36:40 | 料理

いつもは行かないお高めのスーパーにボジョレ・ヌヴォーが並んでたので思い出した。そうか、ボジョレ・ヌヴォーの季節だ。近所のお安めのスーパーには並んでないので気がつかなかった。お安めのスーパーは、数年前にボジョレ・ヌヴォーがずーっと売れ残ったことに懲りたらしく、ここんとこ仕入れてない。23区で一番地価が安い地域のスーパーの戦略として適切である。かと言って、ボジョレは別に高級なワインではない。新酒(ヌヴォー)を解禁日に飲むというイベント性で流行っただけで、その実は大衆ワインである。それでも、解禁日に間に合わせるために空輸するからそこそこの値段になる。最初にブームになったときは一本3000円以上した。昨今、ペットボトルが登場して、一本千円を切るまでになったが、ここんとこの物価高で、私が目にした一番安いヤツでも1500円前後である。

かく言う私は、23区で一番地価が安い地域の住民には違いないから本来ボジョレ・ヌヴォーを買う身分ではないのだが、大昔にワイン関係の仕事をしてた関係で毎年飲んできたから欠かすわけにはいかないとの強迫観念にかられて買って飲んだ。

バランスが良くて美味しい。ここんとこ、例えば酸味がきついとか、渋みがきついとかいう「突飛な」味のボジョレ・ヌヴォーには出会わなくなった。製造技術が向上したのだろうか。

併せた料理は、アジの天ぷらとナスの天ぷら(とご飯とサラダ)。ボジョレは軽いから鶏や魚がちょうどいい。お安めのスーパーでアジが安かったので天ぷらにしたわけである。

アジを使った料理を思いつくまま揚げて……じゃなく挙げてみよう。それぞれに私の一口メモを添える。
①塩焼き=(説明不要)。一口メモ:小骨をとるのが面倒である。
②天ぷら=衣を付けて大量の油で揚げる。一口メモ:私は衣を作るとき卵を使わない。理由はケチだからである。
③唐揚げ=粉をまぶす程度に付けて大量の油で揚げる。そのうち、粉を付ける前に酒醤油に浸して下味を付けるのが竜田揚げ。一口メモ:私は唐揚げ=竜田揚げだと思っていた。竜田揚げが唐揚げの部分集合だと知ったのはつい最近のことである。
④フライ=パン粉を付けて揚げる。一口メモ:揚げる代わりに大目の油で焼いてもよい(揚げ焼き)。私は揚げ焼き以外でフライを作ったことはない。理由はケチだからである。
⑤マリネ=お酢に漬ける。一口メモ:昔マリネを作ろうと思って買った「かんたん酢」がまだ残っている。「いいとこ酢」といい、お酢メーカーの策略にすぐ乗る私である。

以上のうち、②③は大量の油を使うから敬遠してきたが(④も本来は大量の油を使うが私は揚げ焼きで済ませることは前記の通り)、廃油缶を活用しだしてからは面白くて頻繁に作るようになった。が、流石に油が劣化してきたようで、胃が不快感を示すようになった(スーパーの惣菜を食したときと同様の反応を示すようになった)。この事態をどう切り抜けるか思案中である。

ナスは、高知ナスが見切り品コーナーにあったので驚喜乱舞して買ってきたもの。最近、見切り品コーナーにあっても一袋100円だったりして、物価高の波は見切り品コーナーにも押し寄せている。なお、同コーナーには「高知なす」のほか「高知産なす」があった。これは重大なフェイントである。血圧を下げる効果は、前者は後者(普通のなす)の3倍である。そうは言っても、後者だって他の野菜に比べればその効果は1000倍だからあなどれない。

ミニクッカーを買った当初は、圧力鍋の方が旨いとかブチブチ言っていたが、その有り難みはいや増す一方。実家から出てから今が一番米飯を食している。お米がバカ高い時期に困ったことになったと憂えている。

ボジョレ・ヌヴォーを飲むのに久々にブルゴーニュ・グラスを出した。そんなグラスを使うようなご大層なワインではないという考えの一方、ご大層なワインでないからこそ大きいグラスで味を良くする意味があるという考えもある。

今では、1500円のボジョレ・ヌヴォーですらえいやっとばかり清水の舞台から飛び降りる気持ちで買う私であるが、その昔、一本3000円以上した時代、近所のコンビニでボジョレ・ヌヴォー一本に立派なワイングラス(写真のブルゴーニュ・グラスほどではない)が一個おまけで付いていて、それを欲しさに何本も買ったことがある。いったい何本買ったんだっけ。食器棚を見る。グラスが5個ある。5本買ったのだ!How stupid I was! 私が現在ケチなのはその反動である。

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川の成り立ちVol.7中川と江戸川のランデブー

2024-11-24 18:50:42 | 地理

中川及びその前身である庄内川の歴史は、栄枯盛衰、そしてもう一度「盛」である。元は渡良瀬川の中流域で、下流は現在の江戸川であり、利根川の本流になったこともある。だが、渡良瀬川からも利根川からも締め切られて落ちぶれて庄内「古」川となり(流頭を締め切られた川がどんなにみじめかは、Vol.6の葛西用水で見たところである。垳川に突入した後、南に向かう葛西第一水門を閉め切られた葛西用水は見るも無惨な水溜まりに化した)、さらに、江戸川下流も新たに開削された水路(現在の江戸川上流)の方を自分の上流と見るようになって、庄内古川はさぞや口惜しい思いをしたと思うのだ。ところがでござる。その後、江戸川下流との流路が埋め立てられて関係が切れ、新たに古利根川方面に開削が進んで庄内古川はそっちとつながった。するとどうだ、後からやってきた庄内古川が本流づらをして中川を名乗り(中川は、もともと古利根川の最下流の名称である)、つながった古利根川も、そして古利根川に合流していた新方川や元荒川もみな自分の支流にしてしまった。こうして、かつての庄内古川である現在の中川は、新天地で最終本流となり、かつての栄華を取り戻したのである。

しかし、中川(庄内古川)が支流とした古利根川も元荒川も由緒ある大河である。これを飲み込む(支流にする)って「小が大を飲む」という感じではないか?是非、飲み込む現場を見たい。そして、かつて江戸川に通じていたが埋め立てられて消滅した旧流路(両川のランデブーの場)の名残りが残っているのなら見てみたい。こうしたモチベーションで実行したのがVol.7の旅、すなわち、中川から江戸川への周遊旅である。

最初に、今回の踏破図を載せておこう。赤い点線が今回歩いたルートである。

では、見ていくこととする。スタートは武蔵野線の吉川駅である。駅を出てちょっと歩くとすぐ中川の土手で、これを上ると目の前に広がるのが中川の流れである。

ここまで乗ってきた武蔵野線の線路はすぐそばである。

この土手の道を北に向かって15分くらい歩くと、早速、元荒川との合流点が現れた。

手前を左右に流れるのが中川であり、奥から流入して来たのが元荒川である。元荒川は、Vol.5で、葛西用水が分流するまでその土手を歩いた流れである。あのまま元荒川に沿って歩いていれば、ここに到達していたわけだ。

そこから更に少し歩くと、次の合流現場、すなわち、新方川との合流現場が現れた。

手前を左右に流れるのが中川であり、奥から流入して来たのが新方川である。新方川は、Vol.5で葛西用水がその下をくぐり、私は上の橋を渡って超えた川である。あのとき新方川に沿って歩いていれば、ここに到達していたわけだ。

ここからは、少しというわけにはいかない。随分歩いた。すると、あれ、変だな、中川はまだまだ北進するはずなのに先が左(西)にカーブしている。

と思ったら、中川がカーブしているのではなかった。中川に合流せんとする古利根川の流れであった。古利根川がでかいものだから、中川の続きのように見えたのである。古利根川はVol.5で古利根堰で見て以来である。あのときもでかかった。そんな古利根川を中川が飲み込もうというのだから、まさに「小が大を飲む」である。その現場(合流点)がここである。

手前を左右に流れるのが中川であり、奥から流入して来たのが古利根川である。この先の中川(写真の右側に伸びている)は、開削された流路であり、急にこじんまりした感じになる。

やはり、これまでの威容は古利根川によるところが大きかったのだろう。古利根川の立場に立てば、掘り進んできて合流した新参者がいきなり偉そうな顔をしやがって、という感じだろうか。羽柴秀吉を苦々しく思う柴田勝家の気持ちだろうか。

開削した流路だけあって、まーっすぐである。

周りの景色はいよいよ長閑になってきた。ふと、東方面を見ると筑波山が見えた。

最近、ご無沙汰だね、早く登りにおいで、と言われているようである。はいはい、行きますとも。

どのくらい歩いただろうか。まっすぐだった流路が左にカーブし始めた。

そろそろ江戸川への旧流路があった地点である。旧流路の水流は完全に失われたが、左岸の土手だけが残っているという情報を予め得ている。あった!ここだ。こここそが、中川と江戸川の幻のランデブー・ポイントである。

これは上流から撮った写真であり、右に中川、中央左寄りが中川の土手、そして土手中央から左上に伸びている道路が旧流路の土手の跡である。土手だけあって中川の土手と高さが同じである。

これでこの日の予定は終了。さて、この後、どうしよう。もと来た道を引き返すのも芸がないし、むやみに歩いてきた相当な距離を考えるとぞっとする。よし、この旧流路沿いの土手を伝って江戸川に出よう。江戸川を渡って千葉県に入れば東武野田線(現在、カタカナの長い路線名がついているらしいが、あえて昔の名前を使わせてもらう)の野田市駅にたどりつけそうである。ということで、土手を進む。右側は低地で農地になっている。ここを庄内古川が流れていたと思うと感無量である。

すると、江戸川の土手が現れた(ブログではすぐ次のシーンになるが、実際はかなり歩いている)。

さすがにでかい。この後、土手の上に出て、野田橋を渡って江戸川を超えた。大河に架かる橋なのに、歩道が狭くてフェンスが低くて相当怖い。江戸川に架かる橋はこういう橋が多い。渡ってる最中はなるべく川を見たくなかったが、私には皆さんに報告する義務があるので(勝手に思ってるだけ)、がんばって撮った。

下流の様子である。

橋を渡ると野田市内である。かなりアップダウンがある。

台地と谷が入り組んでいるのだろうか。調べてみたいところである。そうこうするうちに野田市駅に到着。おろ!駅舎がまったく新しくなっている。

新駅舎の使用が始まったのは今年に入ってからだというから、できたてのほやほやのところに出くわしたのであった。街全体が醤油の香りにつつまれているのは昔のままである。なぜ、昔を知ってるかというと、かつて私はサイゼリヤの株を持っていて、株主総会はいつも野田市で開催されてたから毎年通っていたのである。当時、なぜ吉川に本社のあるサイゼリヤが株主総会を野田市で開くんだろ?と疑問だったが今こそ分かった。埼玉県吉川町と千葉県野田市はお隣同士であった。因みに、その昔、株主総会は本店所在地又は隣接地で開催しなければならないとの規定が旧商法にあった。今はそんな規定はなく、世界中どこで開いてもよいことになってるが、仮にその規定が今もあったとしても、サイゼリヤは野田市で株主総会を開くことができたわけである。歩くといろいろなことが分かるものである。この日も3時間はゆうに歩いている。

で、東武野田線に乗り、柏に向かうと、そうそう、途中、運河があったっけ。今ももちろんある。

写真は車窓から撮った。この運河は利根運河と言って、利根川と江戸川を結んでいるという。もともと江戸川は利根川の支流であり、水運的にはつながっていたのだが、更なるショートカットとして掘られたという。

 

 

 

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