ヨハネ、マタイと続いたコラールの成り立ち話の今回は、ヨハネとマタイの揃い踏み。更にBWV97他のカンタータもからんでくる。すなわち、ハインリヒ・イザーク(Heinrich Isaac(1450年頃~1517))の「インスブルックよ、さようなら」が、バッハのこれらの作品のコラールの元になった、という話である。最初に、なるほど元曲だということを確認しておこう(調は比較し易いようにどっちもハ長調にしてある)。
え?似てるようでもあり、似てないようでもあり?コラールの最初のミを除けば、ドレミ(ファ)ソファミという流れは同じである。
今回は、これまでと違い、源流が一本で、下流が何本にも分かれている話である。だから、これまでは源流に遡る旅路(上流への旅)だったが、今回は源流から下っていく旅路(下流への旅)である。
ということで、スタートはイザーク。盛期ルネサンスの作曲家である(これまでの登場人物の中ではダントツで古い)。この人が「インスブルックよ、さようなら(Innsbruck, ich muß dich lassen)」という世俗曲を書いた。おっと、これまで「誰々作」と言った場合その人は作詞者で、この時代、作詞者の方が偉かったのかなー、などと書いたが、イザークはこの曲の作曲者であり、不明なのは作詞者である(注1)。
その後、この曲をベースとして「O Welt, ich muss dich lassen(俗世よ、さらば)」という賛美歌が編纂された。編纂者は不明である(注1)。イザークの曲の歌詞の「インスブルック」を「O Welt(俗世)」に置き換えることによって世俗曲が宗教曲(賛美歌)に変容しているが、メロディーはイザークの曲が元となっている。この賛美歌が元となって、何本もの分流が生まれた。
その一つが、Vol.2でおなじみの教会作詞家パウル・ゲルハルトが作詞した賛美歌「O Welt, sieh hier dein Leben(俗世よ、ここでお前の生を見よ)」である(注2)。
このゲルハルト作の賛美歌(元をただせばイザークの曲)がバッハによってヨハネ受難曲とマタイ受難曲に使われたのである(注2)。ゲルハルトの賛美歌は16節から成るが、使われたのはヨハネとマタイのいずれも第3節と第4節である。第3節は「Wer hat dich so geschlagen?(誰があなたをそんなに打ったのか?)」という問いであり、第4節は「Ich, ich und meine Sünde(私です、私と私の罪です)」という答であるが、ヨハネとマタイとでは使われ方が異なっている。ヨハネの方は、両節がいずれも受難曲の第11曲で連続して使われていて、問いに対してただちに答が発せられるカタチになっている。これに対し、マタイの方は、問いと答の順番が逆になっていて、賛美歌の第4節が受難曲の第10曲で、賛美歌の第3節が受難曲の第37曲で使われている。
ここで、ゲルハルトの賛美歌の前、すなわち編纂者不明の「O Welt, ich muss dich lassen」に戻り(中流に戻り)、違う下流を下ることにしよう。この賛美歌を元に生まれた別の分流の一つが医者兼作家のパウル・フレミング(Paul Fleming(1609~1640))が作詞した賛美歌「In allen meinen Taten(すべての私の行いに)」である。メロディーの元曲は相変わらずイザークの曲である。
ここに再び賛美歌の使用者としてバッハが登場するのだが、バッハがフレミングの賛美歌を使用した先は三曲のカンタータである(注3)。ただ、今回は、詩を使用しつつバッハが自分で曲を付けてるものもある。次のとおりである。
BWV13:フレミングの賛美歌の全9節のうち最終節のみをイザークのメロディーもろともカンタータの最終曲に採用した。
BWV44:同上。
BWV97:フレミングの賛美歌の全9節をすべてそのままカンタータの歌詞とした(だからカンタータも全9曲である)。その際、第1曲と最終曲のみイザークのメロディーもろとも採用したが、他の曲についてはバッハが新たに曲を付けた。
以上をイザークを被相続人とする相続関係説明図風にまとめると次のとおりである。
ざっくばらんに言えば、バッハのヨハネ、マタイ、BWV13、44、97において、同じメロディー(元はイザーク)が鳴り響く、ということである。以上である。
注1:ウィキペディアドイツ語版の「Innsbruck, ich muss dich lassen」
注2:ウィキペディア英語版の「O Welt, sieh hier dein Leben」
注3:ウィキペディアドイツ語版の 「Paul Fleming」