黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

コラールの成り立ちVol.3「イザークからバッハへ」

2024-11-27 19:34:20 | 音楽

ヨハネ、マタイと続いたコラールの成り立ち話の今回は、ヨハネとマタイの揃い踏み。更にBWV97他のカンタータもからんでくる。すなわち、ハインリヒ・イザーク(Heinrich Isaac(1450年頃~1517))の「インスブルックよ、さようなら」が、バッハのこれらの作品のコラールの元になった、という話である。最初に、なるほど元曲だということを確認しておこう(調は比較し易いようにどっちもハ長調にしてある)。

え?似てるようでもあり、似てないようでもあり?コラールの最初のミを除けば、ドレミ(ファ)ソファミという流れは同じである。

今回は、これまでと違い、源流が一本で、下流が何本にも分かれている話である。だから、これまでは源流に遡る旅路(上流への旅)だったが、今回は源流から下っていく旅路(下流への旅)である。

ということで、スタートはイザーク。盛期ルネサンスの作曲家である(これまでの登場人物の中ではダントツで古い)。この人が「インスブルックよ、さようなら(Innsbruck, ich muß dich lassen)」という世俗曲を書いた。おっと、これまで「誰々作」と言った場合その人は作詞者で、この時代、作詞者の方が偉かったのかなー、などと書いたが、イザークはこの曲の作曲者であり、不明なのは作詞者である(注1)。

その後、この曲をベースとして「O Welt, ich muss dich lassen(俗世よ、さらば)」という賛美歌が編纂された。編纂者は不明である(注1)。イザークの曲の歌詞の「インスブルック」を「O Welt(俗世)」に置き換えることによって世俗曲が宗教曲(賛美歌)に変容しているが、メロディーはイザークの曲が元となっている。この賛美歌が元となって、何本もの分流が生まれた。

その一つが、Vol.2でおなじみの教会作詞家パウル・ゲルハルトが作詞した賛美歌「O Welt, sieh hier dein Leben(俗世よ、ここでお前の生を見よ)」である(注2)。

このゲルハルト作の賛美歌(元をただせばイザークの曲)がバッハによってヨハネ受難曲とマタイ受難曲に使われたのである(注2)。ゲルハルトの賛美歌は16節から成るが、使われたのはヨハネとマタイのいずれも第3節と第4節である。第3節は「Wer hat dich so geschlagen?(誰があなたをそんなに打ったのか?)」という問いであり、第4節は「Ich, ich und meine Sünde(私です、私と私の罪です)」という答であるが、ヨハネとマタイとでは使われ方が異なっている。ヨハネの方は、両節がいずれも受難曲の第11曲で連続して使われていて、問いに対してただちに答が発せられるカタチになっている。これに対し、マタイの方は、問いと答の順番が逆になっていて、賛美歌の第4節が受難曲の第10曲で、賛美歌の第3節が受難曲の第37曲で使われている。

ここで、ゲルハルトの賛美歌の前、すなわち編纂者不明の「O Welt, ich muss dich lassen」に戻り(中流に戻り)、違う下流を下ることにしよう。この賛美歌を元に生まれた別の分流の一つが医者兼作家のパウル・フレミング(Paul Fleming(1609~1640))が作詞した賛美歌「In allen meinen Taten(すべての私の行いに)」である。メロディーの元曲は相変わらずイザークの曲である。

ここに再び賛美歌の使用者としてバッハが登場するのだが、バッハがフレミングの賛美歌を使用した先は三曲のカンタータである(注3)。ただ、今回は、詩を使用しつつバッハが自分で曲を付けてるものもある。次のとおりである。
BWV13:フレミングの賛美歌の全9節のうち最終節のみをイザークのメロディーもろともカンタータの最終曲に採用した。
BWV44:同上。
BWV97:フレミングの賛美歌の全9節をすべてそのままカンタータの歌詞とした(だからカンタータも全9曲である)。その際、第1曲と最終曲のみイザークのメロディーもろとも採用したが、他の曲についてはバッハが新たに曲を付けた。

以上をイザークを被相続人とする相続関係説明図風にまとめると次のとおりである。



ざっくばらんに言えば、バッハのヨハネ、マタイ、BWV13、44、97において、同じメロディー(元はイザーク)が鳴り響く、ということである。以上である。

注1:ウィキペディアドイツ語版の「Innsbruck, ich muss dich lassen」
注2:ウィキペディア英語版の「O Welt, sieh hier dein Leben」
注3:ウィキペディアドイツ語版の 「Paul Fleming」

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コラールの成り立ちVol.2「血潮したたる」

2024-11-27 11:10:24 | 音楽

前回がヨハネだったので、今回はマタイである。バッハのマタイ受難曲の中心となる曲はコラール「血潮したたる(O Haupt voll Blut)」だと言われている。

今回は、このコラールの成り立ちのお話である。バッハの受難曲は、福音書、アリア、コラールの各部分から成り、このうちコラールは、教会で会衆によって歌われるシンプルな賛美歌をそのまま持ってきたものであり、バッハはそれに和声付けをした。では、コラールの源流は賛美歌か?と言うと、そうとも限らず、歌詞、メロディーとも更なる上流がある場合がある(古利根川の起点の前に葛西用水があるごとしである)。今回は、「血潮したたる(O Haupt voll Blut)」の源流探しである。

このコラールの元曲がルネサンス期のハンス・レオ・ハスラー(Hnas Leo Haßler(1564~1612))の恋の曲であることはよく知られているが、実は、ハスラーの曲とバッハが直接つながっているのではない。間に、賛美歌「血潮したたる(O Haupt voll Blut)」が挟まっている。

その賛美歌の作者は、パウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt(1607~76))と言われている。だが、ゲルハルトは教会詩人だから曲は作ってない。ヨハネ終曲のときのシャリングもそうだが、この時代は詩人の方が偉かったのだろうか。作詞者を「作者」と呼ぶことが多い。

その作詞も、実はゲルハルトが最上流ではない。中世のラテン語の詩「十字架にかかりて苦しめるキリストの肢体への韻文の祈り(Salve caput cruentatum)」があって(その作者は、当初はクレルヴォーのベルナール (Bernhard von Clairvaux(1090~1153頃)) とされていたが、後にレーヴェンのアルヌルフ(Arnulf von Löwen(1200~1250))に上書きされた)、これをゲルハルトが1656年にドイツ語に翻訳したものが賛美歌「O Haupt voll Blut」の詩となった。

では、もう一つの源流、すなわち、作曲者に向かおう。上記の通り、元曲の作曲者はハスラーである。それは「私の心は千々に乱れ(Mein G’müt ist mir verwirret)」という題名の恋の歌である。

世俗曲が宗教曲になる例は山程ある(一例を挙げれば、デュファイの「私の顔が青いなら(それは恋をしているから)」というシャンソンが後に同じ作曲家によってミサ曲に仕立て上げられた)。この曲のリズムを簡単にして、ゲルハルトの詩にあてはめたのである(次の比較楽譜の上段=ハスラーのソプラノ声部、下段=マタイのソプラノとアルト声部)。

この編曲をしたのは当時の著名な教会作曲家ヨハン・クリューガー(Johann Crüger(1598~1662))である(注1)。この人は「Jesu meine Freude」のメロディーを作った人で、ゲルハルトとは仲良しで、ゲルハルトの数々の讃美歌のために作曲した人である。そもそも、優れた讃美歌詩人としてのゲルハルトを最初に見出したのはクリューガーである(注2)。

さて。ゲルハルトの詩は10節から成り、第1節が「O Haupt voll Blut」であり、これがマタイ受難曲の第54曲(通し番号は新バッハ全集による)であるが、マタイ受難曲は他の節も採用している。次のとおりである。
第5節(Erkenne mich。第15番)
第6節(Ich will hier bei dir stehen。第17番)
第9節(Wenn ich einmal soll scheiden。第62曲)
以上のほか、もう一つ、同じメロディーを持った曲がある。第44曲(Befiel du deine Wege)である。これは、「O Haupt voll Blut」とは別の賛美歌だが、やはりゲルハルトの作詞である(注3)。なお、この賛美歌「Befiel du deine Wege」は、もともと別のメロディー(ドーリア旋法)でも歌われていたが、後にハスラー起源のメロディーでも歌われるようになったものである(注3)。

以上を整理すると、中世のラテン語の詩と、ハスラーの世俗曲が、ゲルハルトとクリューガーによって賛美歌「O Haupt voll Blut」に融合し、その中から4曲(+ゲルハルトの「Befiel du deine Wege」)をバッハがマタイ受難曲に採用した、ということである。

実は、ハスラーの曲には、バッハのマタイ受難曲にはたどりつかない別の流れがある。すなわち、ハスラーの世俗曲のメロディーは、ゲルハルトの「O Haupt voll Blut」の前に、既にクリストフ・クノル(Christoph Knoll(1563~1621))の賛美歌「Herzlich tut mich verlangen(心から願う)」にあてがわれていた(注1)。

そのため、同じハスラーのメロディーを持つ賛美歌が2種類存在したことになる(クノルの「Herzlich tut mich verlangen」とゲルハルトの「O Haupt voll Blut」。なお、ゲルハルトの「Befiel du deine Wege」も含めれば3種類)。この2種類の間では、バッハのマタイ受難曲が「O Haupt voll Blut」を採用したからそちらが優勢だと思いきや、タイトルのネーム・ヴァリュー的には意外にもクノルがかなり優勢で、バッハが件のメロディーを使って書いたオルガン曲(BWV727)のタイトルは「Herzlich tut mich verlangen」だし、同様のブラームスのOp122-20のタイトルもそっちである。おそらく、ゲルハルトが「O Haupt voll Blut」を書いた時点で、クノルの賛美歌が既に広く浸透していたせいだろう。

ウチにある日本語の賛美歌集では、大層奇っ怪なことになっている。件のメロディーの賛美歌の日本語のタイトルは「ちしおししたる」で、内容も「ちしおしたたる主のみかしら」だから日本語タイトルと一致している。ところが原詩が「Herzlich tut mich verlangen」とされているのである。そう言えば、「O Haupt voll Blut」はドイツから英米に広がり「Herzlich tut mich verlangen」という曲名で讃美歌集に収録された、と書いてあるものがあった(注4)。そうしてタイトルと内容の食い違いが起きたのだな、とガテンがいった。

因みに、マタイでは5回も出てくるこのメロディーが、ヨハネでは一度も出てこない。

注1:ウィキペディアドイツ語版の「Mein G’müt ist mir verwirret」
注2:ウィキペディア日本語版の「ヨハン・クリューガー」
注3:ウィキペディアドイツ語版の「Befiel du deine Wege」
注4:ウィキペディア日本語版の「血潮したたる」

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ストーブにあたる

2024-11-27 09:06:51 | 生活

朝晩冷えてきたので、ストーブにあたる。

アラジンのストーブである。トースターが当たりだったのでアラジンづいている。だが、このメーカーはもともと石油ストーブを売ってたんだよな。

いまどきの人は、エアコンで部屋全体の温度を調節することに慣れてるから、「ストーブにあたる」という表現にぴんとこないかもしれない。私が子供の頃は、冬場、朝起きるとストーブをつけるが、すぐには暖まらないので、寒い中バタバタしてるうちに、ストーブが暖まってきたらその傍らであたったものである。

学校にだってエアコンが付いてたことはない。小学校の頃は、冬場になると巨大なストーブが教室に運び込まれ(燃料はなんだったんだろう?石炭?)、朝つけて、昼頃になってようやく暖かくなった。そのストーブにみんなが弁当を置いて温めた記憶があるのだが、小学校は給食だったから、幼稚園のときの記憶と混同してるのかしらん。

ふと思った。「あたる」とは、「あたたまる」が縮まった言葉だろうか?これから調べる。調べた。はずれた。大辞林によると「当たる」「中る」の例文の中に、「焚き火にーって」があった。まあ、発明だって100の思いつきの中でモノになるのは一つか二つだという。まして、私である。思いつきのほとんどはずれでも不思議はない。

そう言えば、♪焚き火だ焚き火だ落ち葉焚きー、という童謡があった。このご時世、場所と方法によっては焚き火をしてお縄になりかねないからこの童謡だって楽しげに歌ってられないはずである。焚き火は、第一次的には特別法で規制されているようだが、ここでは刑法の放火罪に触れるかの検討をしてみよう。刑法の放火罪は、燃やす客体によって、
①現住建造物等
②非現住建造物等(他人所有)
③同(自己所有)
④その他
に分けられるところ、落ち葉は④である。④を燃やして放火罪になるためには「公共の危険(延焼の危険)」の発生が必要であるが、この「公共の危険の発生」に故意は不要だから(判例)、燃え広がらないと思って落ち葉焚きをしたら意に反して危険が生じてしまった場合でも放火罪が成立する(繰り返すが、このような刑法の前に特別法でとっつかまる可能性がある)。

件の童謡は、出だしが♪サザンカサザンカ咲いた道……だった。私は、この童謡のイメージから、ずっとサザンカってやつは道の傍らに日陰者風に咲く雑草だと思っていた。昨年、奥地の家の庭の樹が白い花を咲かせ、

それがサザンカだと初めて知った。へー、こんな大きな樹なんだ……このサザンカは今はもうない。先般、庭にはえている草木を一掃したからだ。このサザンカは残そうかとも思ったが、道路に葉や花を落とす。常時住んでないためその掃除ができないことが今回の「草木殲滅作戦」の理由であったからこれを残すことはできなかったのである。アーメン。

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