【Vol.1のおさらい】利根川は東京湾に注いでいた(流路=現在の古利根川と中川下流=概ね中川)。渡良瀬川は利根川の支流ではなく独立した河川で東京湾に注いでいた(流路=現在の中川上流と江戸川下流)。荒川は利根川の支流で、綾瀬川の本流だったのだけど、星川に付け替えになり、綾瀬川は、荒川と分離し、蛇行を直進にする改修がなされた。
【今回(Vol.2)のあらまし】さて、江戸時代に入ると利根川と荒川に大改修が行われた。一つは、利根川の流れを東に変えて、銚子先の太平洋に注ぐようにしたこと(利根川の東遷)であり、もう一つは、荒川の流れを西に変えて利根川ではなく入間川に合流させたこと(荒川の西遷)である。河口を東京湾から太平洋に変えるとは、聞くからにロマンである。打ち震える。今回(Vol.2)は、この二つの大改修及び利根川東遷の過程で起きた江戸川の誕生を、おおまかではあるが時系列に見ていこうと思う。
【新川通開削】まず、利根川東遷の初動である。新川通が開削され、前後して利根川の流れの締切があって、利根川と渡良瀬川がつながった。
これにより、利根川の本流(上図の水色線)が元々渡良瀬川の流れであった太日川(その上流部分は庄内川と呼ばれた)に付け替えになった。それまで利根川が通っていた水路は「古」が付いて古利根川となった(すなわち、利根川筋が一つ東にシフトしたカタチである)。
【荒川の西遷】荒川の西遷も始まった。荒川(下図の青線)と入間川の間が開削によってつながり、これにより元々の入間川の下流が荒川になり、入間川は荒川の支流となった。
利根川の支流だった荒川が一国一城の主(独立河川)となった反面(下剋上)、独立河川だった入間川はその家老(支流)に成り下がったわけである。そして、それまで荒川の本流で古利根川に合流していた流れは「元」が付いて元荒川となった。
【江戸川の成立・赤堀川開削】赤堀川が開削され、利根川は、常陸川(銚子沖の太平洋に注ぐ)とつながり、利根川は、最終的に銚子とつながることとなった。ただし、幕府は利根川の水の多くを常陸川に流したかったようだが、赤堀川の中程に分水嶺(微高地)があるため開削が進まず、当初は思ったほどに水が流れなかった。
時を前後して、庄内川(もともと渡良瀬川の流れであった太日川の上流部分)に並行する新しい河道が開削され、太日川につなげられた。現在の江戸川の上流部である。利根川の水は、この新川に流れるようになった(利根川の中流筋が東にシフトしたカタチである)。
新川と常陸川を直結する水路(逆川)が開削され、銚子と江戸を結ぶ水路(常陸川-逆川-新川-太日川)が完成した。これが現在の江戸川の原型である
江戸川は、利根川の水の多くが流れ込んでいるから新利根川とも呼ばれた。すなわち、この時点では、利根川の本流は江戸川であり、これまで通り東京湾に注いでいたわけである。
【常陸川が利根川になる】その後、赤堀川の拡幅が進み、利根川の水の多くが常陸川に流れるようになったのに合わせ、かつての利根川の水流のあちらこちらが締め切られた。ここに至って、ようやく利根川の本流は銚子沖の太平洋に注ぐこととなり(東遷の完成)、「利根川」の名称は、江戸川から常陸川に移った。明治初年頃のことである。そして、利根川の本流だった江戸川は利根川の支流となり、江戸川の前に利根川の本流であった庄内川は「古」がついて庄内古川となったのである。
現在の利根川の様子はこうである。
つくばエクスプレスが利根川を渡る辺りから下流を撮った写真である。そして、現在の江戸川の様子はこうである。
常磐線が江戸川を渡る辺りから上流を撮った写真である。利根川もそうだが、江戸川も中流域は荒川や中川のそれよりもずっと緑が豊富である。
次回のVol.3では、その中川がいよいよ完成する。その成り立ちと、荒川を含む各河川の放水路について記す予定である。