黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

川の成り立ちVol.2利根川、荒川、江戸川

2024-11-11 17:01:02 | 地理

【Vol.1のおさらい】利根川は東京湾に注いでいた(流路=現在の古利根川と中川下流=概ね中川)。渡良瀬川は利根川の支流ではなく独立した河川で東京湾に注いでいた(流路=現在の中川上流と江戸川下流)。荒川は利根川の支流で、綾瀬川の本流だったのだけど、星川に付け替えになり、綾瀬川は、荒川と分離し、蛇行を直進にする改修がなされた。

【今回(Vol.2)のあらまし】さて、江戸時代に入ると利根川と荒川に大改修が行われた。一つは、利根川の流れを東に変えて、銚子先の太平洋に注ぐようにしたこと(利根川の東遷)であり、もう一つは、荒川の流れを西に変えて利根川ではなく入間川に合流させたこと(荒川の西遷)である。河口を東京湾から太平洋に変えるとは、聞くからにロマンである。打ち震える。今回(Vol.2)は、この二つの大改修及び利根川東遷の過程で起きた江戸川の誕生を、おおまかではあるが時系列に見ていこうと思う。

【新川通開削】まず、利根川東遷の初動である。新川通が開削され、前後して利根川の流れの締切があって、利根川と渡良瀬川がつながった。

これにより、利根川の本流(上図の水色線)が元々渡良瀬川の流れであった太日川(その上流部分は庄内川と呼ばれた)に付け替えになった。それまで利根川が通っていた水路は「古」が付いて古利根川となった(すなわち、利根川筋が一つ東にシフトしたカタチである)。

【荒川の西遷】荒川の西遷も始まった。荒川(下図の青線)と入間川の間が開削によってつながり、これにより元々の入間川の下流が荒川になり、入間川は荒川の支流となった。

利根川の支流だった荒川が一国一城の主(独立河川)となった反面(下剋上)、独立河川だった入間川はその家老(支流)に成り下がったわけである。そして、それまで荒川の本流で古利根川に合流していた流れは「元」が付いて元荒川となった。

【江戸川の成立・赤堀川開削】赤堀川が開削され、利根川は、常陸川(銚子沖の太平洋に注ぐ)とつながり、利根川は、最終的に銚子とつながることとなった。ただし、幕府は利根川の水の多くを常陸川に流したかったようだが、赤堀川の中程に分水嶺(微高地)があるため開削が進まず、当初は思ったほどに水が流れなかった。

時を前後して、庄内川(もともと渡良瀬川の流れであった太日川の上流部分)に並行する新しい河道が開削され、太日川につなげられた。現在の江戸川の上流部である。利根川の水は、この新川に流れるようになった(利根川の中流筋が東にシフトしたカタチである)。

新川と常陸川を直結する水路(逆川)が開削され、銚子と江戸を結ぶ水路(常陸川-逆川-新川-太日川)が完成した。これが現在の江戸川の原型である

江戸川は、利根川の水の多くが流れ込んでいるから新利根川とも呼ばれた。すなわち、この時点では、利根川の本流は江戸川であり、これまで通り東京湾に注いでいたわけである。

【常陸川が利根川になる】その後、赤堀川の拡幅が進み、利根川の水の多くが常陸川に流れるようになったのに合わせ、かつての利根川の水流のあちらこちらが締め切られた。ここに至って、ようやく利根川の本流は銚子沖の太平洋に注ぐこととなり(東遷の完成)、「利根川」の名称は、江戸川から常陸川に移った。明治初年頃のことである。そして、利根川の本流だった江戸川は利根川の支流となり、江戸川の前に利根川の本流であった庄内川は「古」がついて庄内古川となったのである。

現在の利根川の様子はこうである。

つくばエクスプレスが利根川を渡る辺りから下流を撮った写真である。そして、現在の江戸川の様子はこうである。

常磐線が江戸川を渡る辺りから上流を撮った写真である。利根川もそうだが、江戸川も中流域は荒川や中川のそれよりもずっと緑が豊富である。

次回のVol.3では、その中川がいよいよ完成する。その成り立ちと、荒川を含む各河川の放水路について記す予定である。

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色の白いは七難隠さず/アナトリアは半島か?/トルコ人はアジア人?

2024-11-11 08:54:01 | 歴史

前回、色の白いルチア・ポップがすっぴんでいるとのっぺらぼうみたいだ、と誰かが書いた、と書いた。言っておくが、ルチア・ポップはオペラ歌手の中でも可愛さランキングでは3本の指に入る美形である(私見)。そんなルチア・ポップをつかまえて「のっぺらぼう」に擬した表現が印象的だったのである。

日本人は「色の白いは七難隠す」とか言うが、白いは白いで大変そうである。世界中の人間はそのルーツをたどるとアフリカの一人の女性にたどり着くと言う。そこまで遡らなくとも、例えばインドヨーロッパ語族は黒海とカスピ海の辺りがルーツで、そこからあちらこちらに散らばって行ったのである。そうして、行った先の気候に合うように皮膚の色を変えていったのである(気候に合った皮膚を持った人が生き残ったのである)。だから、淡い陽の光の中では美しく映える北欧の人が日本の夏の猛暑の中で皮膚を真っ赤に染めて苦しがってる様などを見ると大変だなー、と思う。かようなことであるから、別に色の白い人を見て羨む必要はない。大谷選手ではないが「憧れるのをやめましょう」である。中南米かどこかの国の民話では、太古の昔、神様は人間を炉で焼いて作ったのだが、焼き損なったのが白人で、ちょうどよく焼けたのがその国の人、とされている。それはそれで白人差別で今日ではいかがなものか?という気もするが、むやみに白人を憧れない態度は立派である。

インド人(北部)のルーツがヨーロッパ人と同じという事実は、当初、アジア人をバカにしていたヨーロッパ人にはショックだったそうである。私は、地理的にうーんと離れたインドとヨーロッパになぜ同系列の人間がいるのかが不思議だったが、黒海やカスピ海辺りがルーツと聞いてガテンがいった。なるほど、そこから南下すればインドだし、西進すればヨーロッパである。

黒海と言えば、その南岸にあるのがトルコだが、トルコについて二つのことが気になっている。

一つはトルコ国が在る地について。アナトリア半島と言うのだが、英語圏では「半島」を付けないそうだ。黒海を「海」と考えると、アナトリアは三方を海に囲まれていて「半島」ぽいが、黒海を内陸の内海(びわ湖をでかくしたもの(でかくなりすぎだが))と考えると、海に面しているのは西と南西だけで半島とは言えなくなる。

もう一つはそこに住んでる人々について。トルコ人は世界史で習った突厥(中国の北方民族でたびたび中国を脅かした)の末裔だと聞いたことがある(ような気がする)。中国の北ならアジア人である。だが、あまりそのようには見えない。調べてみると、テュルク人(突厥もトルコも「テュルク」が訛った言葉で同義)はユーラシア大陸の北東から南西にいたって幅広く分泌しており、北東と南西では遺伝子情報がかなり異なり、北東ではアジア因子が強いが南西ではヨーロッパ因子が強いそうである。だから、トルコ人をつかまえて、あんたはバタくさい顔をしとるけどホントは俺たちと同じなんやで、とか言って無理やり同族にしてはいけないのである(仲良くするのは良きことである)。

因みに、私は、最近アフリカ系の人がきれいに見えて仕方がない。ドイツのニュース番組のキャスターの中で私が一推しなのはヤナ・パライゲスさん。お父様がアフリカ系とのことで、その美しさには息を呑む。

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