黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

川の成り立ちVol.3中川、各放水路、古隅田川

2024-11-13 14:52:39 | 地理

【Vol.2までのおさらい】荒川は、西遷により利根川の支流ではなくなり、独立した河川として、現在の隅田川の河道を通って東京湾に注いでいる。利根川は東遷により銚子沖の太平洋に注ぐこととなり、その支流である江戸川が東京湾に注いでいる。その他、大昔において利根川の本流だった古利根川(その途中で元荒川が合流する)が東京湾に注いでいる。また、元は渡良瀬川の流れであり、いっとき利根川の本流だったことがある庄内古川は江戸川を経由してやはり東京湾に注いでいる。

ここで事件が起きた。庄内古川と古利根川の間が開削され、かつ、庄内古川と江戸川の間が塞がったのである。これにより、庄内古川の流れはかつて並行して流れていた古利根川とつながり、元荒川が合流する下流部分を含めたその全部が「中川」(下図の黄土色線)となり(その流頭部分はかつて島川、権現堂川と呼ばれた部分である)、由緒ある名を冠する古利根川と元荒川は中川の支流となった(なり下がった)のである。

結局、庄内古川、古利根川、元荒川のいずれも自己の名を残すことはできず、利根川の本流だった頃に最下流の名称であった「中川」に統一されたわけである。

中川を利根川との関係で整理すると、その下流域は、江戸時代に入るまでずっと利根川の本流であった部分であり、その上流域は、江戸時代当初にいっとき利根川の本流であった部分である。まっこと、中川は「概ね、昔の利根川の水路」と言って正しいわけである。私がこのあたりの川の成り立ちを調べたいと思ったきっかけはそもそも中川とはなんぞや?から始まったことであった。

その中川の現在の様子はこうである。

足立区と葛飾区の境目辺りから上流を撮った写真である。その上流で、様々な変遷があったと思うと感慨深い。その上流のうち、権現堂川と呼ばれている箇所の様子がこれである。

幸手の権現堂桜堤の桜を見に行ったときに撮った写真である。堤と川の名前が符合している。この辺りは中川の中でも最上流に近い辺りである。それでも、なかなかの川幅を誇っている。

【放水路開削】成り立ちの話に戻ろう。と言っても、これまでの歴史に比べればつい最近の話である。すなわち、明治以降に大河川に作られた放水路の話である。その最大のものは荒川放水路。荒川(西遷後の荒川=元の入間川)の下流部分の治水対策として、北区の岩淵水門から東京湾に至るまで掘削が行われ、そこに荒川の水を分流させたのである。古い地図はこの水路を「荒川放水路」と記しているが、現在はこちらが荒川の本流であり、従来の荒川のうち分流地点より下流の部分(「大川」とも呼ばれていた。初代ゴジラが東京を壊した後に海に帰るとき通ったルートである)が「隅田川」(下図のピンク線)になったのである。この荒川放水路は途中中川を突っ切ったため中川が分断され、荒川とぶつかる地点以下の中川は荒川に沿う流れに改められ、分断されて取り残された部分が「旧中川」となった。同様に、途中綾瀬川を突っ切ったため綾瀬川が分断され、荒川とぶつかる地点以下の綾瀬川は中川に合流するまで荒川に沿う流れに改められ、分断されて取り残された部分が「旧綾瀬川」となった。

江戸川にも河口付近に放水路が作られ、そっちが本流となり以前の流れは「旧江戸川」になった。

中川にも放水路が作られたが、こっちは本流とはならず「新中川」と呼ばれ、旧江戸川に合流する。中川の本流は、荒川放水路に突っ切られた地点からしばらく荒川と並行して南下し、最後の最後(河口近く)で荒川に合流する。荒川と並行する部分がかなり長いから荒川水系と思いきや、中川は利根川水系である。中川の分流の新中川は旧江戸川に合流するが(上記)、その旧江戸川の本流(江戸川)が利根川の支流だからである。

利根川の東遷についても、今一度整理しておこう。この通りである。

この間、古隅田川は、その多くが消滅してしまったが、残っている部分もある(「古隅田川」という川は埼玉県にもあるので区別するために「東京」「埼玉」の括弧が付される)。ほとんどが暗渠だが、綾瀬川を開削した際に分断された部分が小菅の拘置所のあたりで顔を出していて、その傍らが遊歩道になっている。

そう言えば、漱石の小説の中に「舟で綾瀬まで行った」旨の記載がある。その頃はまだ現在の隅田川とつながる流れがあったのだろうか。すると、滝廉太郎の♪はーるのー、うらあらあのー、すうみいだーがーわー……の「すみだがわ」とはそっちの隅田川、つまり現在の古隅田川の可能性があるのではないか?と密かに思っている今日この頃のワタクシである。

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油を舐める猫

2024-11-13 11:36:17 | 

昨日の深夜のことである。物が落ちる音がし、猫がぴちゃぴちゃ何かを舐めてる音がする。水を飲んでるんだろう……だが、物が落ちた音は気になる、と思い、灯りをつけたら、水ではなかった。三毛猫がサイドテーブル上の廃油缶をひっくり返し、床に散布された廃油を舐めている音であった。廃油など舐めて体にいいとは思えぬ。薩摩の人になって発した「こらぁ」はいつも以上の怒気であったと思う(薩摩人と「こら」の関係についてはチコちゃんで教わって、当ブログでも記事にした)。とりあえず、猫は隣室に逃げていったが、油にまみれたこの惨状。どうやって原状回復すればいいのだ。しばし立ちすくむ。しかも、夜中である。とりあえず、拭くだけ拭いて、バスタオルをかぶせて、その上に折りたたみテーブルを置いて急場をしのいだ(このテーブルは、猫除けにシンクにかぶせようとして、重くてできなかったヤツである。もはや、本来の用途(テーブル)で使われることはなさそうだが、いろいろ役には立っている)。

体も心もへとへとになって布団に入った私の上に三毛猫が乗ってきた。怒られたことをなんと思っているのだろう?
可能性その1。忘れた。
可能性その2。ちょっと気まずくなったんで仲直りしようと乗ってきた(猫にそんな繊細な感情があるのかって?あるのですよ)
因みに、もう一匹(サビ猫)の方は、事件が起きたことを察知してコタツの中に避難している。だいたい、いつも三毛猫が悪さをして私が「こら」と言うと、反応するのはサビ猫の方である。おーい、ごはんだよ(あさイチかっ)と言ってさかんに呼び出すがなかなか出てこない。この間、三毛猫の「ごはんくれ」攻撃が止むことはない。めんどくさいことこのうえない。

そうこうするうちに朝が来た。え?いつも日の出とともに「ごはんくれ、ごはんくれ」と騒ぎ出す三毛が大人しく寝ている。これはこれで心配である。ご飯になってもいつもの勢いがない。どうしたんだろう?
可能性その1。油にあたって気持ちが悪い。
可能性その2。たっぷり栄養(油)をとったので満腹である。
もし「その1」なら吐くだろうが(それでなくても三毛はよく吐く)、吐かないから、さほど具合が悪いわけでもなさそう。実際、この日の朝食は結局全部たいらげた。このくらい大人しくてちょうどいいのだが、ほとぼりが覚めたらまた騒ぎ出すのだろうか。吐くからご飯をドライから缶詰に変え、量も絶妙なところにおさめてるのだが、缶詰は7,80%が水分だという。あまり身になってないのだろうか。だったら、ときどき吐くことには目をつぶって、一日4回くらいに小分けしてドライに戻した方がよいのだろうか。サビ猫はドライである(そう、二匹で内容と量を変えているのである)。

そんなこんなで人間(私)はくったくたである。とてもじゃないが、歌などに歌う気にならない(業務連絡である)。

「事件」から半日経った現場の様子である。

奥に件のテーブルが写っている。因みに、名作のほまれ高い朝ドラ「カーネーション」で、糸子の娘達が執拗に「ピアノこうて!」とねだる様と、うちの猫の「ごはんくれ」が重なるワタクシである。

昔、「舐め猫」と言うのがいた。あれは、いきがって「舐めんなよ」と言ってる猫である。油を舐める猫に比べれば可愛いものである。

猫は20歳になると化けるという。化け猫は行灯の油を舐めるという。うちの三毛は20歳未満で化けてないが、油を舐めた。するとこういうことになろうか。
「20歳以上」と「化け猫」は同値である(うちの猫は20歳以上だけど化けてないという向きもおられるだろうが、これは定義なのだから仕方がない)。
化け猫は必ず油を舐めるが油を舐める猫すべてが化け猫なわけではない(「化け猫」は「油を舐める猫」の部分集合である。
油を舐める猫は猫だが猫のすべてが油を舐めるわけではない(「油を舐める猫」は「猫」の部分集合である)。
以上を図にするとこの通りである。

なお、昔、化け猫が油を舐めると言われたのは、猫が油分を補うために魚油を舐めていたから、とどっかに書いてあった。三毛が舐めた廃油缶には、昨日ゴボウの素揚げに使ったばかりの油が入っていて、

相当な芳香を漂わせていたようである。

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