クラッシュの専属コーチとなった山崎照朝さんは、ショッパーという東京新聞の購読者に無料配布するショッピング情報紙を埼玉県大宮市(現さいたま市)で、編集・発行していた会社の取締役だった。自身の格闘技経験を活かして、デイリースポーツや後に東京中日スポーツの格闘面に寄稿していたこともあり、クラッシュの記事もデイリーの紙面を飾ったものだ。空手というキーワードを貰ったクラッシュは、とにかく山崎さんをリスペ . . . 本文を読む
広報担当だか芸能担当だか区別が付かないほど、いろいろな仕事をやってきたが、クラッシュ・ギャルズが本格的に活躍するまで、女子プロレス(=全女)はプロレス・マスコミが扱わないジャンルとなっていた。それでも私はデラックス・プロレスの誌面を使って、1ページずつページを増やしていく作業から始めていた。当時の編集長だった山本さん(ターザン山本!)に女子プロレスの誌面拡大をお願いすると、「取材する者がいない . . . 本文を読む
ジャガー横田、デビル雅美、ミミ萩原のトロイカ体制は、昭和56~59年までの約3年間、全女マットを衰退させることなく継続させていった。3人とも爆発的な人気は出なかったが、なんとか話題を繋いできた。ジャッキー佐藤に引導を渡したジャガーだが、その後は2年2カ月間に及びWWWA世界シングル王座を守っていった。ペギー・リー、ダイアン・ホフマン、ジュディ・マーチン、モンスター・リッパー、ウェンディ・リヒタ . . . 本文を読む
私は昔から外国人レスラーに強い憧れを感じていたから、女子プロレスの世界に入ってからも、接する機会が少なからずあった。月刊平凡の取材でビューティ・ペアとミル・マスカラスを対面させたり、ミミ萩原にいたってはデラックス・プロレスで、「ミミちゃんの知らない出会いシリーズ」というグラビアの連載を積極的にアプローチした。ターザン山本!さんが企画を立てたこの連載は毎月、来日中の外国人レスラーと . . . 本文を読む
ジャッキー佐藤の引退により、全女はWWWA世界王者のジャガー横田を中心にヒールながら実力派のデビル雅美、人気者のミミ萩原と3本柱によるトロイカ体制で再スタートを切った。プロレス的にはビューティ・ペア時代より技術的進化はあったものの、観客動員は伸び悩んだ。ジャガーはもっぱら外国人選手を相手に防衛戦を重ねていったが、日本人選手のライバルとして存在したのがデビルだった。デビルはデビュー当時から、池下 . . . 本文を読む
まさかミミがオール・パシフィック王者になるなんて、誰が想像したことだろう…この試合には、全女式の押さえ込みルールが適用されていた。場内からは少なからず、ミミの新王者には野次が飛んだ。大半の観客は、カウント・ツーでミミが勝ったという感覚なのだ。続くWWWA世界シングル戦も同様の暗黙ルールが用いられ、横田がジャッキーを完璧に押さえ込み、タイトルが移動していった。敗れたジャッキーは、リング上で一礼し . . . 本文を読む
1つの団体を2つのリーグに分け、分断興行を敢行するなんて全女は、実に突拍子もなかった。急な戦略に当然の事ながら、選手数が足りない…急場を新人オーディション受験の不合格者に再度、声を掛け何人かを調達したのである。また、裏口入学の大森ゆかり、長与千種も含めると13人もの新人を大量に入門させてしまったのだ。大森は父親のルートで鏡山親方(元・横綱の柏戸)を後見人に入門。長与は長崎の市会議員を同じく後見 . . . 本文を読む
ビューティ・ペアを解散して、シングルプレイヤーとなり再スタートしたジャッキー佐藤だが、全盛期と比較すると人気はジリ貧となった。恒例の国際劇場のショーは閑古鳥が鳴くほどだったし、WWWA世界王座をモンスター・リッパーと取ったり、取られたりしたものの起爆剤にはならなかった。そこで新たに新設されたのが、若手のチャンピオン・ベルトである“全日本ジュニア王座”だ。キャリア5年未満で、20歳以下というのが . . . 本文を読む
突然、営業部に配属されたが、正直言って肉体労働は苦手だった。当時は野外興行が多く、椅子だけでも平気で1500~2000脚は並べなくてはならない。二十代前半の若さがあるとはいえ、これは重労働。毎日毎日、現場に行かされては、椅子並べ、もぎり…時には、「朝から宣伝カーを流せ…」と言われ、早朝の6時から街の中を走ったものだ。また時には前夜から宣伝カーの中で寝込み、泊まり代を浮かせたりもした。私自身は運 . . . 本文を読む
ビューティ・ペア人気の副産物の一つに、練習生の制度があった。これは、地方巡業に出ている間、道場が開いているため、一般に開放するものだ。ほとんど中学生から高校生の女学生が対象となっており、基礎体力だけではなく受身やブリッジを教えていたから、新人選手の登竜門的施設でもあった。それこそ200人以上の会員がいただろう。その中でも、目立っている二人の少女がいた。名前を岩井和子と高橋三奈といった。二人は細 . . . 本文を読む
1978年8月、全女は創立10周年を迎えた。そう、私が入社した年は旗揚げ以来、10年が経過した記念すべき年だったわけだ。この記念大会は8月9日、日本武道館において開催された。その前日には、ホテル・ニュー目黒において全国各地のプロモーターを集め、10周年パーティが行われたのだ。当時、全女は全国の地域別にプロモーターを置いていた。覚えている限りの名前を挙げると、北海道は堀氏、東北は岡田劇場の菅 . . . 本文を読む
私は毎日、全女の事務所に通った。毎日、日替わりでスタッフが昼食を誘ってくれるし、本当に皆が良くしてくれた。夜は夜で、キャバレー三昧。こんなに面白い生活と遭遇できただけでもラッキーだった。不謹慎だが、母方の祖父が他界しても葬儀に行かず、全女での日々を謳歌していたほどだ。約1カ月ほど経つと、松永社長から「お前、そんなに好きなら社員にしてあげるから…」と言われた。何の用も言われずに、勝手に事務所に通 . . . 本文を読む
全女の専属カメラマンになったばかりの私に、朗報が舞い込んだ。「12月にグアムで興行があるんだけど、撮影に来てほしい」と松永社長から撮影依頼がきたのだ。当時20歳、海外に行ったことなど無く、「こんな重要な仕事を任されて、大丈夫だろうか…」と、プレッシャーを感じたが要望には応えなければならない。カメラマンの仕事では、試合などを撮影したポジフィルムを現像して事務所に持参していくたびに、5万円のギャラを . . . 本文を読む
「かけめぐる青春」で歌手デビューしたビューティ・ペアだが、最初は鳴かず飛ばずだった。しかし昭和51年6月にマキ上田はジャンボ宮本を破り、デビュー1年3ヶ月で早々にWWWA世界王者になった。ジャッキー佐藤もキャリア1年5ヶ月で同年10月、第2回ワールド・リーグ戦」で優勝。今では信じられないハイ・スピードでトップの座に駆け上がっていった。世界のベルト、ワールド・リーグ戦という響きはプロレス・ファンの . . . 本文を読む
私の高校時代、プロレス団体は全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレス、そして全日本女子プロレスの4団体しか存在しなかった。男子3団体の首都圏大会は、ほとんど会場に出入りしていたが、好奇心旺盛な私は、プロレス・ファンがさほど目を付けていない女子プロレスに着目した。デイリースポーツや日刊観光、週刊ファイトしかマスコミには載ることがない。だから自分の目で見て、写真を撮って記録を残す、それが自分の使 . . . 本文を読む