大審問官―自由なき楽園の支配者
ドストエフスキー著、秋津太郎訳、文遊社
やはり、ドストエフスキーはずば抜けて面白い。
いろいろと作品を読んだけれど、私にとって一番印象深いのは『カラマーゾフの兄弟』。
もし、この作品を読んで、ん?と思って、立ち止まったなら、
『大審問官』は読むべきだと思う。
『カラマーゾフの兄弟』を読み、私が一番気持ち悪かったのは、アリョーシャだった。
そして、その気持ち悪かったことの、その真髄を抉るような話が、
この『大審問官』に凝縮されている。
改めて、ドストエフスキーの作品を、ぜんぶ読み直したいと思った。
実は、ここ数日、浄土経典や親鸞の入門書を読み、少しむずむずしていた。
たとえば、ある広い景色が見渡せるところで、
雲の合間から、太陽の光が行く筋も射し込んでいるのを見ると、
特にそれが夕陽だったりすると、
ああ、あそこに阿弥陀様がいらっしゃる、と無条件に思うことはある。
でも、法(ダルマ)へのアプローチとして、
私には、阿弥陀信仰はどうしても、しっくりこない。
一心不乱に念仏をとなえる、というシンプルさも、
悪人こそが救われる、というすべてをさらけだす帰依も、
すでに私は、精神力として持ち合わせていないと思うし、
「いや、違うんじゃないの」と、疑問をもちつつ、
ああでもない、こうでもないと、いろんなアプローチを試みるのが私らしい、と自分で思う。
だから、当分は、回り道しようと思っている。
逆説は、宗教や哲学につきものだと思うけど、
ドストエフスキーのいう「逆説」に、
阿弥陀信仰よりも親近感を覚えるのは、なぜだろう。
ドストエフスキー著、秋津太郎訳、文遊社
やはり、ドストエフスキーはずば抜けて面白い。
いろいろと作品を読んだけれど、私にとって一番印象深いのは『カラマーゾフの兄弟』。
もし、この作品を読んで、ん?と思って、立ち止まったなら、
『大審問官』は読むべきだと思う。
『カラマーゾフの兄弟』を読み、私が一番気持ち悪かったのは、アリョーシャだった。
そして、その気持ち悪かったことの、その真髄を抉るような話が、
この『大審問官』に凝縮されている。
改めて、ドストエフスキーの作品を、ぜんぶ読み直したいと思った。
実は、ここ数日、浄土経典や親鸞の入門書を読み、少しむずむずしていた。
たとえば、ある広い景色が見渡せるところで、
雲の合間から、太陽の光が行く筋も射し込んでいるのを見ると、
特にそれが夕陽だったりすると、
ああ、あそこに阿弥陀様がいらっしゃる、と無条件に思うことはある。
でも、法(ダルマ)へのアプローチとして、
私には、阿弥陀信仰はどうしても、しっくりこない。
一心不乱に念仏をとなえる、というシンプルさも、
悪人こそが救われる、というすべてをさらけだす帰依も、
すでに私は、精神力として持ち合わせていないと思うし、
「いや、違うんじゃないの」と、疑問をもちつつ、
ああでもない、こうでもないと、いろんなアプローチを試みるのが私らしい、と自分で思う。
だから、当分は、回り道しようと思っている。
逆説は、宗教や哲学につきものだと思うけど、
ドストエフスキーのいう「逆説」に、
阿弥陀信仰よりも親近感を覚えるのは、なぜだろう。