今日は、調べものをしながら原稿をまとめていく、ということをした。
文章のテーマはそんなに興味がある分野ではなかったけれど、
この仕事は、これがまた、すごく楽しかった。
電話やメールの本数が多いと、楽しいというゾーンに入る前に、イライラしてしまう。
ましてや調べながら少し脱線する、なんて余裕は持てない。
いろいろなことをしていると、
まず、「集中すること」に努力することになるが、結局ブツ切れではかどらず、ドッと疲れる。
今日は、むかしむかしに味わった向き合うことの楽しさを思い出して、すごく嬉しかった。
言語センスにはいろいろある。
詩的なセンスもあれば、論理構成力もある。
今日、私に求められたのは、
素人の「私」が読んだときに、
その文章が可能な限り正しく、そしてストレスなく伝わるか、という点を考えながらまとめる、
ということだった。
もっと若かったころには、私にも見栄があって、
文章を読むときに、校閲するような気持ちになったものだ。
でもいまは、そんな不要な見栄がとれてきて、
文章に対して、正直に向き合えるようになってきた。
それに、いまは便利なもので、
「ん?」と思ったことは、インターネットで調べることができる。
インターネットの情報がすべてではないけれど、ある程度、整理する役に立ってくれる。
ありがたい。
だからこそ、文章を読んでいて「ん?」と思えるかどうかが、ますます肝心になってきたと思う。
ある程度の知識がないと「ん?」と思うこともないかもしれないけど、
ひっかかるところには、文章の流れの中で、何らかの「ほつれ」があるわけだから、
それに気づけるかどうかは、知識量よりも言葉に対するセンスが重要になってくると思う。
あいまいな言葉に出会って、立ち止まって考える。
修正することもあれば、あいまいなまま残すこともある。
その決断までのあいだに、
人の人生や、自然科学、政治や経済など、いろいろな世界を縦横無尽に旅する。
「ほつれ」には、その文章を書いた人の心や、社会や歴史など、なんらかの背景がある。
ましてや、文章の上手・下手、頭のいい悪い、とは、まったく関係ない。
なにかがひそんでいる。
それを見つめるときに必要なのは、私の心にひそむ嫉妬や偏見といった、
眼をくもらせる私自身の心の乱れだ。
落ち着いてそっと眼を開け、心を開いて読む。
私はそんな仕事が大好きなんだと思った。
文章のテーマはそんなに興味がある分野ではなかったけれど、
この仕事は、これがまた、すごく楽しかった。
電話やメールの本数が多いと、楽しいというゾーンに入る前に、イライラしてしまう。
ましてや調べながら少し脱線する、なんて余裕は持てない。
いろいろなことをしていると、
まず、「集中すること」に努力することになるが、結局ブツ切れではかどらず、ドッと疲れる。
今日は、むかしむかしに味わった向き合うことの楽しさを思い出して、すごく嬉しかった。
言語センスにはいろいろある。
詩的なセンスもあれば、論理構成力もある。
今日、私に求められたのは、
素人の「私」が読んだときに、
その文章が可能な限り正しく、そしてストレスなく伝わるか、という点を考えながらまとめる、
ということだった。
もっと若かったころには、私にも見栄があって、
文章を読むときに、校閲するような気持ちになったものだ。
でもいまは、そんな不要な見栄がとれてきて、
文章に対して、正直に向き合えるようになってきた。
それに、いまは便利なもので、
「ん?」と思ったことは、インターネットで調べることができる。
インターネットの情報がすべてではないけれど、ある程度、整理する役に立ってくれる。
ありがたい。
だからこそ、文章を読んでいて「ん?」と思えるかどうかが、ますます肝心になってきたと思う。
ある程度の知識がないと「ん?」と思うこともないかもしれないけど、
ひっかかるところには、文章の流れの中で、何らかの「ほつれ」があるわけだから、
それに気づけるかどうかは、知識量よりも言葉に対するセンスが重要になってくると思う。
あいまいな言葉に出会って、立ち止まって考える。
修正することもあれば、あいまいなまま残すこともある。
その決断までのあいだに、
人の人生や、自然科学、政治や経済など、いろいろな世界を縦横無尽に旅する。
「ほつれ」には、その文章を書いた人の心や、社会や歴史など、なんらかの背景がある。
ましてや、文章の上手・下手、頭のいい悪い、とは、まったく関係ない。
なにかがひそんでいる。
それを見つめるときに必要なのは、私の心にひそむ嫉妬や偏見といった、
眼をくもらせる私自身の心の乱れだ。
落ち着いてそっと眼を開け、心を開いて読む。
私はそんな仕事が大好きなんだと思った。