ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

自在

2010-03-21 10:06:52 | Weblog
昨晩は家の前を空き缶が行ったり来たりしていて、とてもにぎやかだった。
風の音を聞くと、昔の人が自然に対してもっていた畏敬の念を、
少しだけ共有できたような気がしてくる。
断続的に眠りを妨げられたこともあって、朝からすごく体が重い。

今日は、護国寺まで「菩提道次第論略論」の講義を聴きに行く予定だったのだけど、
行くことができなくなったので、テキストを自分なりに読んでみる。

仏教の文章を読んでいると、
いつも、普段使っている言葉が、まったく違う味わいをもってくる。
ときに熟語の場合は、漢文を読むように読み下して、ふと気づくこともある。

例えば、「自在」という言葉。
漢字の組成という側面から眺めてみると、なかなか哲学的で難しい熟語だと思う。
ネットの漢和辞典でこの意味を調べると、
「心のままであること。思うままになること。また、そのさま。」
という意味の他に、
「仏・菩薩が望むとおりに物事をなしうること。
この力を自在力といい、仏・菩薩を自在人という。」という記述も出て来る。

私の言葉の使い方が正しくないのかもしれないけど、
日常生活において、「心のままであったり、思うままになること」を想像すると、
ものすごく幸せそうな天然の人とか、
わがまま放題がゆるされる人のような気がしてしまう。
「勝手気まま」とも近い印象を持っている。
もしくは、ソフトなどの技術を使いこなすプロ、といった具合。

でも、仏や菩薩は、自分以外の存在に尽くすという利他の精神が根底にある訳なので、
その意味をふまえて読んでみると、
「望むとおりに物事をなしうること」のうち、「望むこと」の内容がかなり重要だと思えてくる。
仏や菩薩は、自分のために、他人やお金を自在に動かしたいと望んでいるのではないから、
私が日常的に使っている「自在」とは、出発点が180度違ってくる。

「おのず」「みずから」「自我」、そして「在る」。
改めて「自在」という漢字を眺め、連想を広げて、
「自然」「自由」「現在」「存在」・・・、いろいろな単語を思い浮かべると、
認識論の端緒をつかんだような気持ちがしてくる。

そして、最後に、仏教は現世をどのように見つめ、生きていくか、という
実践の教えだったのだと改めて気づく。
神の世界が完全で、人間の世界は不完全だという宗教ではなくて、
「いま在る」ということを突き詰める。
だから、信じれば救われるのとは違う。
人生のある時期に、信じて救われることも必要なことがあるのと同時に、
仏教の考え方と出会って、物事の見方や自分のあり方をとことん篩にかけるのも必要だと思う。

父を想う

2010-03-18 12:51:14 | Weblog
今日は父の命日なので、朝からバックグラウンドで父のことを考えている。
ちょうど3年前のお昼ごろだった。

いまでも父の仕事の仲間たちが、命日のころに集まってくれる。
今年は15日の月曜日だった。
いろいろな思い出話ができるというのは、ほんとうにいい供養になっていると思う。
とてもありがたい。

父はどんな人だったのかと改めてイメージしてみる。
女性からはモテたけど、すぐ飽きて逃げ出しちゃう、とか、
お金儲けが下手だった、とか、笑い話になるようなエピソードがたくさんある。
仕事でたいへんな借金をつくり、周囲の人にも迷惑をかけたので、
いま改めて、それで笑ってくれる人は、本当の友人なのだろうと思う。

父の性格にはいろいろな面があるけれど、改めて気づいたことがある。
私は父が他人に嫉妬しているところを見たことがない。
分析して「あの人はこうなんだ」と、少し偉そうに言うことはあっても、
他人の悪口を言うこともほとんどなかった。
善悪や好悪の尺度を超えたその先のなにかを常に語っていた。
「人間」が大好きな人だったので、情はあつかったと思う。
ただ、自分を含め、人間やものごとに対して独特の距離感があった。

だから、私は社会人になってすぐ、会社にとても嫉妬深い男性がいたときにとても驚いた。
まず、その感情の動きがなんなのかわからない。
少し経って、それが嫉妬からきているのだと気づいたときには、
男性にも嫉妬があるのだとさらに驚き、「男性の嫉妬って女性のよりもこわい」と思った。

父と違って、母は嫉妬深いというか、ひがみっぽかった。
育った環境のせいもあるだろうと思うけど、
いま思い返してみると、生まれもった「業」のようなものを感じる。
どちらがいい、どちらが悪いではなくて、冷静に「そういう性質だった」と思う。
父も母も、じゅうぶんすぎるほどに魅力的だった。

私は父と母のどちらに似ているかと考える。
両方からちゃんと引き継いでいると思うけれど、
うまく引き継ぎすぎて、いずれと比べてもスケールが小さい。

「ヒマラヤを越える子供たち」「A.I.」

2010-03-17 21:49:41 | Weblog
「ヒマラヤを越える子供たち」というDVDを見たら、無性に「A.I.」が見たくなり、
昨晩は夜更かしをすることになった。

「ヒマラヤを越える子供たち」は、チベットの子どもたちが親元を離れて亡命し、
チベット亡命政府があるインドのダラムサラに至るドキュメンタリー。
中国の領土となったチベットでは、貧富の差が広がっている。
なかなかチベット人は満足な教育を受けることができないし、
受けられたとしても、それは中国語による中国の教育で、
チベットの文化や歴史は学べない。

だから、中国の武装警察に見つかり銃殺される可能性もあれば、
ヒマラヤの山越えで、凍死してしまう子もいるし、
無事に亡命できても、凍傷にかかった手足を切断しなければならない場合もある。
このような過酷な条件にも関わらず、
チベットの親には、子どもだけを亡命させるという選択を行うことがある。
子どもだけを亡命させるのには、
人口の多く競争の激しいインドに成人が亡命しても、
その後、自立した生活を送れる可能性は低いので、行きたくても行けない、
という理由もあるようだ。

子どもたちが「お母さんに会いたい。でも、ちゃんと勉強するんだ」と
涙を流している姿を見たら、思わずもらい泣きをしてしまった。
最近は、国境付近の監視が厳しくなったこと、
そして中国と国境を接し、インドへの橋渡しとなるネパールが、
中国への歩み寄りによって、亡命者への対応を厳しくしていることから、
亡命できる人が減っているという。

唯一残されていた自由への道が閉ざされてしまわないように。

「A.I.」は、キューブリックの構想をスピルバーグが映像化した作品だ。
人間の子どもとそっくりにつくられたロボットは「愛」をインプットされる。
そして、母親に愛してもらうためには、本当の「人間」になるしかないと思い、
その方法を求めて旅をする。

いろいろなメッセージが込められている映画なので、
もう少し自分のなかで熟成させてから、改めて書きたいとは思うけど、
昨日はとにかく、自分を否定しつづける悲しさを、すごくすごく感じた。
ロボットだから、そんな感情はないだろう、という話ではなくて、
愛してもらうには、ロボットではダメで、人間でなければダメだ。
これは、すごい比喩だ。

愛してもらうには、いまの自分ではダメで、親の理想に近づかなければダメだ。
これなら、誰だって感じたことがあるだろう。
この映画は、何年かに一度、すごく見たくなる。
また考えたい時期に入ったようだ。

ウイグルの母 ラビア・カーディル自伝

2010-03-16 20:41:28 | Weblog
中国に一番憎まれている女性
ラビア・カーディル著、アレクサンドラ・カヴェーリウス著、水谷尚子監修、熊河浩訳、ランダムハウス講談社刊

中国は広い。万里の長城の西の果て、まだ中国の国土は続いている。

1993年にはじめて西安に行った時、トルコ系の顔をした人がたくさんいて驚いた。
なんといっても西安はかつての長安。中華文明の中心地だ。
その土地に、こんなにも漢民族とは違う顔をした人たちがたくさんいるなんて、
実際に自分で訪れるまでは想像しなかった。
シルクロードの終着点として栄えてきた西安の歴史を、
東西文化交流の軌跡を、住む人たちの顔が物語っていると思った。

その後、西へ行くにつれて、ますますトルコ系の人が増え、
言葉も服装も習慣も漢民族のそれとは大きく違って行った。

ウイグルでも頻繁に独立運動があるけれど、チベットほどは知られていないだろう。
それは、ダライ・ラマのような存在がウイグルにはいないからだとも言われている。

この本の主人公であり、語り手であるラビア・カーディルさんは、
ウイグル人がウイグル人らしく生きるためにずっと戦ってきた人で、
ウイグルの民族活動の象徴的人物だ。
卓越した商才から一代で巨万の富を築き、
全財産を中国人民政府に没収され、監獄にも入り、
現在はアメリカに亡命して、民族活動を続けている。
不屈の精神と民族への愛情で、ウイグル人の尊敬を集めている。

この本には、中国人民政府の不公平さが語られているけれど、
決して恨みがましくはない。
地道に少しずつ問題を解決していこう、という理性があふれている。
本人はかなり情熱的な人なのだろうと思うが、
ライターのカヴェーリウスさんがうまくまとめたのだろう。
500ページというボリュームだが、全般的にたいへん読みやすい。

最近は新疆にも漢民族の移住が進み、都市部では、ウイグル人の人口に占める割合が、
どんどん低くなっていると聞く。
そして、同時多発テロの影響もあって、
イスラム教を信じる人たちへの弾圧も厳しくなっていると聞く。

以前は、北京にもウイグル人が暮らす一角があった。
私がそこに入り浸っていたとき、あまり言葉が通じないなか、
ウイグル人の男性に大きくて黒い瞳でジッと見つめられると、
少しこわく思えた時はあったけど、
私は彼らが喧嘩するところを見たことがない。
一方、漢民族はよく路上で夫婦喧嘩をしていた。

私は、ウイグル人は、ウイグルの言葉を話し、
ウイグルの歴史を子どもに語り継ぎ、ウイグルの歌をうたって暮らせたらいいと思う。
そして他の少数民族にも、自分たちの文化を守る自由があればいいと思う。

解放感

2010-03-15 10:57:03 | Weblog
わりと休日出勤は好きだ。
これまで、ちゃんと振替休日が取れるとは限らなかったけど、
それでも休日出勤自体に、あまり不満をもったことはなかった。

土曜日に、銀座で仕事上のイベントに参加していた。
ふだんは仕事をしながら、少しボーッとしたり、他の人と雑談することもできないけど、
休日はなんとなく全体的にゆるいので、「ちょっと息抜きしますか」という気分になる。
来ているお客さんも、ビジネスモードではなくて、
休日を有意義に過ごしたいという雰囲気なので、和気藹々とできる。
自然と遊び心が出てきて、一緒に盛り上がる。

それに、土曜日に改めて気がついたのだけど、
なんといっても、イベント参加中はメールを見なくてすむ、
メールに返事をしなくてすむ、そう自分に対して言い訳できるということが、
私にとってものすごい解放感だったんだ。
特に、ここ数年は、休みの日でも比較的に即答を求める仕事のメールが入り、
それに対応しなければならなかった。
これがどれだけ私にとって苦痛だったのかが、よくわかった。

休みの日に遊びに行っても、気になって、頻繁にメールをチェックしていた。
自分で自分を追い込んでいたのだけど、どんどん恐怖感がつのり、
ほとんど窒息しそうな気分になっていた。
本質的には要らぬ努力だったのだろう。いま思い返すと。

土曜日のイベント会場のそばに仏具屋さんがあって、
その前の街頭に「仏旗」が掲げられていた。
ふと、チベットで、たくさんの赤、白、緑などの「旗」が翻っていたことを思い出した。
旗には経典の一節が書かれていて、
仏さまのご加護が空気に乗ってどこまでも運ばれて行くように、
という祈りがこめられていた。

排気ガスに淀んだ都心の空気が、一瞬清浄なものに思えた。
ヒマラヤの高い山々と青くて広い空が、眼前に広がった。
二度と自分で自分の心を閉じ込めたくないと改めて思う。
そして、同時に、これまでの経験が生き生きと胸によみがえった。

フリー チベット その3

2010-03-13 02:05:54 | Weblog
いまから約2年前、チベットでは自由を求める大規模な抗議行動が起きた。
日本でも「フリーチベット」の運動が盛んになり、
私の親しい友人も参加したし、私も誘われた。

私はチベットの文化に、とても敬意を抱いている。
これは、自分で実際にチベットへ行き、バックパッカーでぶらぶらして、
一人で、自分の心で感じた敬意だから、私にとって大切な気持ちだ。

でも、私には北京に留学した経験もあって、
中国共産党のやり方というものに、少しは知識があった。

2年前、私は少し新しい仕事を始めようとしていた。
そして、その仕事では、中国へ出張に行く機会があり、それがとても楽しみだった。
だから、私は保身のために、フリーチベットの運動に参加するのをやめた。
署名もできなかった。
見せしめで、どんなお鉢がまわってくるかわからない。
中国への入国ができなくなるかもしれない。
仕事上で、周囲の人にも迷惑をかけてしまうかもしれない。
仕事をするうえでのリスクが大き過ぎる、そう思った。
私があれだけバカにして嫌悪していた「中国のやりかた」というやつに、
いとも簡単に、戦う前に屈した。

私は、それ以来ずっと後悔している。
自分をまぎらわすために、ダラムサラに住む亡命した子どもたちに、
少額の学費補助をしたりしたけど、
そんな自己満足では、自分の気持ちから逃げることはできない。
意気地なしだと思っている。

3月13日、東京では、フリーチベットを訴える行進が行われる。
今年こそは胸を張って参加しようと思っていたのに、
ある仕事が、行進のはじまるのと同時刻に入った。

今回も、自分から仕事を優先した。
その仕事に参加することを、仕事の仲間が喜んでくれるかはわからない。
そんなに悩むのだったら、すべてを放り出して行進に行ってくれた方がよっぽどいい、
と、きっと言われるだろう。
そもそも、明日の仕事では、さほど必要とされてない。
この必要とされていない程度は、仕事もフリーチベットへの参加も同じかもしれない。
私はあまりに卑小だ。

これは、私の臆病さなのだろうか。
臆病だから、また仕事を選んだのだろうか。

そして、眠れない。

子育て支援について

2010-03-12 12:42:04 | Weblog
私は子どもを育てたことがないので、よくわからないし、他人事なんだけれど、
最近、少子化対策の助成金や高校の学費について耳にすると、面白い議論だなあ、と思う。

少し前に、Twitterでつぶやいていた人がいたけれど、
子ども手当を目当てに、一時的に外国から孤児を大量に引き受けたり、
その子どもたちをたらい回しにして、誰かが何重にも手当を受けるようなことが可能なのかもしれない。
国が新しい制度を始めると、必ずそれを悪用する人は出てくるものだから、
これは、あまり目くじらを立てるほどのことではないと思うけど、
よくいろいろな方法を思いつくものだと、変に感心する。

私としては、子育てのために時短で働いているお母さんたちが、
減給されないような仕組みのほうがずっといいと思う。
会社は「子育てをしているお母さんが働いてくれている方が、
人材の層があつくなり、お母さんたちが子育てで培った経験は
長い目で見ると会社のためになる」なんて言うけれど、時短である以上は減給されてしまう。
そして、そんなお母さんたちが「長い目で見て会社の役にたった」とき、
会社は給料や雇用の安定というかたちで、還元してくれるとは限らない。

それに、子育てしながら働くなんて、体力と精神力の限界に挑戦しているわけだから、
子どもよりも働いているお母さんに、もっとやさしい社会になればいいと思う。
なんといっても、子どもは母親を見ながら育つ。
私が幼稚園に入る前、準備学級ようなところに通っていたころ、
働いている友人のお母さんは、いつも必死な顔で走って迎えに来た。
そして、子どもの顔を見るなり、パッと表情が明るくなったところを見たことがある。

私の母は働いていなかったので、いつも余裕のあるにこやかな表情で迎えにきてくれたけど、
あのお母さんのような、すべてが救われたかのような表情をしてくれたことはなかった。
でも友人は、いつもお母さんの時間がないために、お弁当のバリエーションが少なくて、
すごくそれを気にしていた。
もう名前も忘れてしまったけど、きっと彼女は今ごろ母親になっていることだろう。
最近の少子化対策について、どんな考えをもっているだろうか。

高校の授業料については、もし私だったら、学費免除よりも、
安心してアルバイトできるところを学校が紹介してくれるほうが嬉しい。
少なくとも、私は高校時代にそう思っていた。

労働基準法が遵守されていて、親も子どもも安心してアルバイトできるところがあって、
学校が連動していたら、どんなにいいだろう。
市区町村の公共施設でも、連携できるところがあるのではないか。
図書館の蔵書整理や医療現場や施設などで、
体力と単純な事務処理能力を求めているところはあると思う。
そいうところで自分の学費を稼いだほうが、よっぽど自立する。
顔の見えない誰かから、当然の権利としてお金をもらうと、
学んでいるありがたさや、周囲に感謝する心を忘れがちだ。

まだ分別のつかないころだからこそ、「特権階級」にしてはいけないと思う。

隠しごと

2010-03-11 22:35:45 | Weblog
私が、何かを他人の目から隠したいときって、どういうときだろう。

ほとんどの人が経験したことがあると思うけれど、
小さいころ、何か隠しごとをしても、まず母にはバレた。
神かと思うくらい、的確に指摘され、怒られた。
だから、小手先で隠すのはやめようと思った。

隠そうと思って隠すことは減ったけど、無意識に隠してしまうこともある。
でも、それは私にはわからない。
ある日、後から振り返ってみて、気がつくことがある程度だ。
ほとんどは隠した本人である私も知ることがない。

でもやはり、周囲の人には隠していることがバレている。
他人は私のコンプレックスも、不安も恐れも、
何もかも私よりよく知っている。

だからこそ、他人は私を救ってくれる。
私が気づかないところでも支えてくれている。

それでもやはり、
いや、だからこそ、他人から隠したくなる時がある。
きっと執着心が強いことほど無様に隠している。

他人が不思議なまでに何かを隠しているとき、
私はその人をわらったり、不満に感じたりしてしまうけど、
どうにもならないことなのだから、静かに受け流したいと思う。

周囲の人が私のことを、静かに受け流してくれるように。

2010-03-10 19:12:51 | Weblog
雪が降っているところを見ていると、面白くて時間を忘れてしまう。
ふだんは目で見ることができない空気の流れが見えるから。

横殴りの風が吹いていても、必ず逆らって逆方向に動いている雪がいる。
いろいろな動きをしている雪があるから、全体的に白く見える。
濃淡があって、いつもの風景がまったく趣を変える。
もしすべてが同じように動いていたら、たんなる縞か、
一面同じ濃度の白に見えるのだろう。これでは息がつまる。

音楽も同じで、微妙に揺らいでいるからハーモニーになるのであって、
すべての音やタイミングがぴったり合っていたら、
味も、素っ気もなくなってしまう。

ある程度の規律はあるのだけど、適当なヤツもいる。
だから、雪は見ていて飽きない。
自然には、美しいものには、こんなにたくさんの余裕がある。

雪国の人にとって、雪はやっかいなものなのかもしれないけど、
たまに東京で眺めると、すごく心が洗われる。
雪を見つめるときの静かな心は、
小さな雑音があるからこそ自覚できるのだと思えて来る。