昨晩は家の前を空き缶が行ったり来たりしていて、とてもにぎやかだった。
風の音を聞くと、昔の人が自然に対してもっていた畏敬の念を、
少しだけ共有できたような気がしてくる。
断続的に眠りを妨げられたこともあって、朝からすごく体が重い。
今日は、護国寺まで「菩提道次第論略論」の講義を聴きに行く予定だったのだけど、
行くことができなくなったので、テキストを自分なりに読んでみる。
仏教の文章を読んでいると、
いつも、普段使っている言葉が、まったく違う味わいをもってくる。
ときに熟語の場合は、漢文を読むように読み下して、ふと気づくこともある。
例えば、「自在」という言葉。
漢字の組成という側面から眺めてみると、なかなか哲学的で難しい熟語だと思う。
ネットの漢和辞典でこの意味を調べると、
「心のままであること。思うままになること。また、そのさま。」
という意味の他に、
「仏・菩薩が望むとおりに物事をなしうること。
この力を自在力といい、仏・菩薩を自在人という。」という記述も出て来る。
私の言葉の使い方が正しくないのかもしれないけど、
日常生活において、「心のままであったり、思うままになること」を想像すると、
ものすごく幸せそうな天然の人とか、
わがまま放題がゆるされる人のような気がしてしまう。
「勝手気まま」とも近い印象を持っている。
もしくは、ソフトなどの技術を使いこなすプロ、といった具合。
でも、仏や菩薩は、自分以外の存在に尽くすという利他の精神が根底にある訳なので、
その意味をふまえて読んでみると、
「望むとおりに物事をなしうること」のうち、「望むこと」の内容がかなり重要だと思えてくる。
仏や菩薩は、自分のために、他人やお金を自在に動かしたいと望んでいるのではないから、
私が日常的に使っている「自在」とは、出発点が180度違ってくる。
「おのず」「みずから」「自我」、そして「在る」。
改めて「自在」という漢字を眺め、連想を広げて、
「自然」「自由」「現在」「存在」・・・、いろいろな単語を思い浮かべると、
認識論の端緒をつかんだような気持ちがしてくる。
そして、最後に、仏教は現世をどのように見つめ、生きていくか、という
実践の教えだったのだと改めて気づく。
神の世界が完全で、人間の世界は不完全だという宗教ではなくて、
「いま在る」ということを突き詰める。
だから、信じれば救われるのとは違う。
人生のある時期に、信じて救われることも必要なことがあるのと同時に、
仏教の考え方と出会って、物事の見方や自分のあり方をとことん篩にかけるのも必要だと思う。
風の音を聞くと、昔の人が自然に対してもっていた畏敬の念を、
少しだけ共有できたような気がしてくる。
断続的に眠りを妨げられたこともあって、朝からすごく体が重い。
今日は、護国寺まで「菩提道次第論略論」の講義を聴きに行く予定だったのだけど、
行くことができなくなったので、テキストを自分なりに読んでみる。
仏教の文章を読んでいると、
いつも、普段使っている言葉が、まったく違う味わいをもってくる。
ときに熟語の場合は、漢文を読むように読み下して、ふと気づくこともある。
例えば、「自在」という言葉。
漢字の組成という側面から眺めてみると、なかなか哲学的で難しい熟語だと思う。
ネットの漢和辞典でこの意味を調べると、
「心のままであること。思うままになること。また、そのさま。」
という意味の他に、
「仏・菩薩が望むとおりに物事をなしうること。
この力を自在力といい、仏・菩薩を自在人という。」という記述も出て来る。
私の言葉の使い方が正しくないのかもしれないけど、
日常生活において、「心のままであったり、思うままになること」を想像すると、
ものすごく幸せそうな天然の人とか、
わがまま放題がゆるされる人のような気がしてしまう。
「勝手気まま」とも近い印象を持っている。
もしくは、ソフトなどの技術を使いこなすプロ、といった具合。
でも、仏や菩薩は、自分以外の存在に尽くすという利他の精神が根底にある訳なので、
その意味をふまえて読んでみると、
「望むとおりに物事をなしうること」のうち、「望むこと」の内容がかなり重要だと思えてくる。
仏や菩薩は、自分のために、他人やお金を自在に動かしたいと望んでいるのではないから、
私が日常的に使っている「自在」とは、出発点が180度違ってくる。
「おのず」「みずから」「自我」、そして「在る」。
改めて「自在」という漢字を眺め、連想を広げて、
「自然」「自由」「現在」「存在」・・・、いろいろな単語を思い浮かべると、
認識論の端緒をつかんだような気持ちがしてくる。
そして、最後に、仏教は現世をどのように見つめ、生きていくか、という
実践の教えだったのだと改めて気づく。
神の世界が完全で、人間の世界は不完全だという宗教ではなくて、
「いま在る」ということを突き詰める。
だから、信じれば救われるのとは違う。
人生のある時期に、信じて救われることも必要なことがあるのと同時に、
仏教の考え方と出会って、物事の見方や自分のあり方をとことん篩にかけるのも必要だと思う。