ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

雨の大阪出張・富士山

2015年11月18日 23時15分30秒 | 訪問地周辺散策

退院後初めて一泊で大阪出張でした。久しぶりに富士山が見えたので撮り続けました。小田原近くからの富士さんです。

綿帽子をかぶっている珍しい景色です。

新富士で最も近くに見えます。

大阪では施設訪問後はタクシーで宿に入りました。

宿の朝食は30階から

外を見ながらでした。まだ雨は降っておらず、雨上がりでビルの足元が見えるベランダに出て見ました。

下は土佐堀川です。欅が色付いています。目の前のビルは中之島フェスティバルタワーです。中之島フェスティバルタワーは、高さ200メトで地上39階下3 階。1958年に開館した旧フェスティバルホーを2012年に建て替え、上部に朝日新聞大阪本社、 テナントオフィスが入るほか関西初出店 となる 5店を 含め32店と 、中之島地区最大の商業集積ゾーン「フェスティバルプラザ」が入っています。

少し離れると淀屋橋のところに日本銀行、奥に大阪市役所が見えます。

二日目の訪問先の野田は雨で全く動けませんでした。

阪神電鉄の本社と野田阪神駅の間にあるバスターミナルです。ここで時間稼ぎをしていました。

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土佐堀川・淀屋橋

2015年05月20日 23時15分04秒 | 訪問地周辺散策

大阪に出張でした。初日は吹田駅前の施設で、いつもは7月下旬にいっているのですが、今回は早めました。施設は駅のすぐ前にあるのですが、真夏はそこまで歩くのが大変と思うくらいでした。今回も気温が上昇し暑かったのですが7月下旬とは比べて楽でした。

初日の点検を終えて、宿泊した場所は肥後橋の所でした。この宿から目の前に大阪フェスティバルタワー、フェスティバルホールが見えます。下は土佐堀川になっています。

2日目は宿を出て肥後橋を渡り、タワーの下を通り淀屋橋に向かいました。下から見たフェスティバルホール

振り返ると宿が見えます。上流が淀屋橋になっています。淀屋橋を渡って少し行ったところに本日の訪問する施設があります。

土佐堀川の堤にバラ園がありました。バラの花は盛りを過ぎてしまっていましたが、まだ少し元気そうなバラを撮りました。淀屋橋のところに日本銀行大阪支店旧館がありました。

じゃらんにこんな説明がありました。「土佐堀川、堂島川、そして大阪のメインストリート・御堂筋に面して建つ近代建築。明治36年(1903)にベルギーの国立銀行をモデルに建設された、緑青の色が美しい円屋根をもつレンガと石造りの3階建て本格的洋風建築だ。設計は東京駅舎や中央公会堂を手掛けた辰野金吾らによる。江戸時代この地には島原藩大阪内屋敷があり、明治初期には関西財界の指導者五代友厚の別邸があったそうだ。昭和の時代、業務空間拡大のため、一時は高層ビルへの全面建替えも計画されたが、3面の外部の壁面と内部の重要な部分を保存し、西側敷地に高層棟を新築した。予約すれば、旧館の内部や新館の営業室などを見学することができる。」中には入らず写真だけ撮ってきました。こちらが正面玄関だったのでしょうか。

淀屋橋の上の花壇の花です。

橋を渡ったところに淀屋橋の由来?淀屋の碑、と淀屋の屋敷跡の碑が立っていました。

『淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった。淀屋の豪富と闕所のことはあまりにも有名である。
  淀屋の本姓は岡本氏、通称三郎右衛門。城州岡本の出身。辰五郎の称もあった。豊臣氏が天下をとるに及んで大坂に出て十三人町(今の大川町)に卜居し淀屋と称し、材木を商う。元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き、また米の相場をたてる。中之島を開発し、常安請地を開く。常安橋-常安町の名がいまにのこる。   初代常安の長子(養子)喜入善右衛門、常安町家、斉藤町家の祖となる。次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり、言直から六代までつづく。   心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり。その宅地内の小路を淀屋小路という。四十八戸前のいろは蔵有り。町人蔵元の元祖といわれたが、巨大なる米商人と目すべく、淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける。淀屋橋であり、こゝで行われた淀屋米市の盛大さは、この碑の絵が表現する通りであった。
  日本学士院会員 宮本又次 記』

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広尾・有栖川宮記念公園

2015年05月13日 20時30分02秒 | 訪問地周辺散策

広尾の施設を訪問しました。2年ぶり3回目です。前回行った有栖川宮記念公園を再度散策に向かいました。訪問施設から100mちょっとしか離れていませんが、そこまで到達するのが大変でした。前回は奥まで散策したのですが今回は入り口周辺のみでした。

公園のHPより「この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていました。そして1896年(明治29年)、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となります。有栖川宮が廃絶して後は、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王に、有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになります。その後、児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる1934年(昭和9年)にこの地を東京市に賜与され、記念公園として一般開放されました。北東部を編入し、1975年(昭和50年)には港区に移管されて、区立公園となり多くの人に親しまれています。管理事務所近くには、この公園とも縁の深い、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像が建っています。」

前回(13年5月)の様子はこちらで見られます。「有栖川宮熾仁親王騎馬像」も撮ってあります。入り口のすぐのところに日本庭園、池があります。釣り人がいました。少し歩いてみました。奥から池を見たところです。今回もアヤメが少しさいていました。

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飯能・久下稲荷神社

2015年05月12日 22時16分15秒 | 訪問地周辺散策

飯能の施設を訪問しました。飯能駅から見えるところに久下稲荷神社があります。駅に着いてどうするか考えていましたが、今の足の状況では無理と思い、喫茶店で時間を調整し訪問しました。帰りがけに思い切って歩いてみました。雨がぱらついたりしていましたがとにかく到着しました。

入り口の鳥居です。久下稲荷神社。飯能市史資料編による久下稲荷神社の由緒だと、「創建年月日は、はっきりしないが、神社誌には、寛永13年(1636)再営という。明細帳によれば久下分村の鎮守として、明治5年に村社に列し、同41年7月7日下記の諸社を合祀して、稲荷神社と称した。字川端村社秋葉神社、字真行坂無格社稲荷神社、字柳渕無格社稲荷神社、字打出無格社稲荷神社(飯能市史資料編より)拝殿と、

こちらは庚申塔近くの人はここで野球をして遊んだそうです。飯能の駅は100周年のようです。

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阿佐ヶ谷・神明宮、世尊院

2015年05月12日 00時10分00秒 | 訪問地周辺散策

鷺宮から中杉通りをバスで阿佐ヶ谷に戻りました。世尊院前というバス停で降りました。門を入るとこの像がありました。右手に歩いてみました。鐘楼や本尊がありました。表門は開かずの門で最後に回って撮りました。

後ろの所に鳥居があったので、そちらに行ってみました。

神明宮です。

厄除け八難除が売りのようです。HPにこんな記述がありました。「厄除は、一般的には厄年やその前後の年(前厄・後厄)にお受け頂く厄払いのためのご祈祷のことです。当神社では、「阿佐ヶ谷神明宮唯一八難除祈祷」の一つとして、お受けしております。厄年とは特に気をつけなければならない年回りのことで、一般に男性は数え25歳・42歳・61歳、女性は数え19歳・33歳・37歳・61歳が「本厄」とされます。 中でも男性の42歳、女性の33歳は万事を慎むべき「大厄」とされます。これらの厄年は平安時代に陰陽道の思想から広まったもので、「源氏物語」にも厄除けのために物忌(自宅に篭る厄除の方法)をすると記されています。

また、この年齢は人生の中での大きな変化の時期でもあります。時代は変わりましたが、年齢としては若年から青年、老年へと移り変わる節目の年でもあり、結婚や仕事上の責任なども含め、身体的・精神的にも大きく期待され、疲れが溜まりやすい時期でもあります。神前で厄除けのお払いを受け、神々のご加護により無事に過ごせるように祈りつつ、謙虚な気持ちで生活を送ることをお薦めします。」ということだそうです。

すでに本厄から10年近く過ぎてしまいました。これまで正式に厄払いをしたことはありませんが、各地の神社を訪問させていただいています。

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