ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

京都散策

2012年05月27日 11時16分46秒 | 観光地散策

大阪出張の帰り京都を散策しました。5月26日最初は南禅寺内にある琵琶湖から京都へ水を引く水路閣へ。ここは、琵琶湖疏水の分線(蹴上以北)にある水路橋で1888年(明治21)完成しました。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、デザインしています。全長93.2メートル(幅4メートル、高14メートル)レンガ、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、静かな東山の風景にとけこんでいます。市指定史跡となっています。
そこから石川五右衛門が絶景なりと叫んだ三門へ。三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表します。空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです。南禅寺の三門は別名「天下竜門」とも呼ばれ、上層の楼を五鳳楼と呼び、日本三大門の一つに数えられます。現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建したものであり、禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。また、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名です。
山門から見た新緑です。
さらに銀閣寺に向かいました。銀閣寺は、正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。
相国寺は臨済宗相国寺派の禅寺です。初祖達磨大師が中国に伝えた、いわゆる禅宗を起源とする一派で、日本に伝わったものは臨済宗をはじめ曹洞宗、黄檗宗などがあります。臨済宗は、正法とされるお釈迦さまの正しい教えを受け継ぎ、宗祖臨済禅師をはじめ、禅を日本に伝来された祖師方、そして日本臨済禅中興の祖・白隠禅師から今日にいたるまで、師から弟子へ連綿と伝法された一流の正法を教えとしています。そして本来備わる純粋な人間性を、坐禅を通して自覚し悟ることを宗旨とする宗派です。

ここからはタクシーで飛んで600年の歴史のある「かざりや」であぶり餅とお茶をいただきました。私たちの入った、かざりやは江戸時代創業、400年を迎えます。一方向かい、北側の一和(正式名 一文字屋和輔)の創業はなんと長保2年(1000)だそうです。平安中期一条天皇の子が疫病を患った時、疫除けの願いを込めてあぶり餅を供えたのがはじまりだとかいわれています。
これより今宮神社へ参拝した際は、無病息災を祈りあぶり餅を食べる風習となりましたが、それは今も続いています。

「そうだ京都へ行こう」の宣伝写真になった高桐院では額縁に見立てた庭園を見ました。高桐院(こうとういん)は京都府京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の寺院です。大本山大徳寺の塔頭(たっちゅう)のひとつです。開基(創立者)は細川忠興(三斎)、開山(初代住職)は玉甫紹(ぎょくほじょうそう)だそうです。

千本釈迦堂にある阿亀多福像の由来に感心して最後は北見天満宮でした。北野天満宮は、菅原道真公(菅公)をおまつりした神社の宗祀(最も中心になるものとして尊びまつる)で、親しみを込めて「北野の天神さま」と呼ばれています。
平安時代中頃の天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが、当所に神殿を建て、菅公をおまつりしたのが始まりとされます。江戸時代には教育施設として各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室には必ず天神さまがおまつりされ、あるいは神影(菅公のお姿を描いたもの)が掲げられ、学業成就や武芸上達が祈られてきています。

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