静岡市にある施設を3年ぶり2回目の訪問でした。午前・午後の仕事で、午後の仕事が終わってから、施設の近くにある駿府城跡の公園を散策しました。これは巽櫓です。駿府城二ノ丸の東南角に設けられた三層二重の隅櫓で、十二支であらわした巽(辰巳)の方角に位 置することから「巽櫓」と呼ばれました。駿府城には二ノ丸西南の角に「坤(未申)櫓」(ひつじさるやぐら)もありました。
櫓は戦闘時には戦闘の拠点となり、望楼、敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。
焼失後、寛永15年に再建された巽櫓は幕末近くの安政大地震によって全壊してしまったと考えられています。全国の城の櫓建築でも例の少ないL字型の平面 をもち、駿府城の櫓の中では最も高く、“勝れた”櫓であったと言われています。
駿府城:徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、駿府に移り住みました。慶長12(1607)年、家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させました。
家康在城時の駿府の町は、江戸と共にいわば2元政治が行われていたため、政治、経済の中心地として大いに繁栄していました。家康の死後、城主となった忠長が改易されると駿府城は城代の管理となります。寛永12(1635)年の火災により天守等の殆どの建物が焼失し、櫓、門等の建物は再建されますが天守は再建されませんでした。以後江戸時代の駿府城は、建物の規模も次第に縮小していくこととなります。
明治時代になると、歩兵34連隊の誘致に伴い本丸堀は埋められ、三ノ丸は官庁や学校などの公共用地となりました。戦後、本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され,巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されています。 三の丸は県庁になっていましした。本丸跡には信長の銅像がありました。その横には家康手植えのみかんと言われるものがありました。前回も寄ったのですがほとんど見ておらず、今回は紅葉山という庭園にも寄ってみました。三保の松原を模造したものとか、その他いろいろな花がありました。「おおばぎぼうし」子供のころ田舎ではカエルの葉っぱということで「ゲイロッパ」と呼んでいました。庭園を出たところに銀座の柳の2代目が植えてありました。この前銀座で見た2代目の柳と兄弟のようです。
外に出た堀沿いにはこんなものが東海道膝栗毛、弥次さん喜多さんです。作者の十返舎一九がここの土地の出身だそうです。
お堀のサギさんです。どこのお堀にもいるようですが、いつも一羽でいるのがいいです。
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