ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

浄光寺・諏方神社

2013年04月06日 20時12分53秒 | 身辺出来事

同い年のテニス仲間が2002年4月に大腸がんで亡くなりました。56歳でした。その人の墓参りを毎年行っています。テニスがある日はなかなかいけないので、雨でコートが使えない時に行くようにしています。今日も雨の降る前にと、西日暮里にある浄光寺に出かけました。浄光寺は真言宗豊山派の寺院。開基年代は不詳。豊島左衛門当所を江戸城出張りの砦とした際、郭内諏方神社を創立、当寺を法輪山法憧院と称し別当寺としたという。元文二年(1737年)、八代将軍吉宗が鷹狩りの際に当寺に立ち寄り、同五年には将軍御膳所の指定を受け、以来幕末まで将軍の日暮里筋への鷹狩りの際には御膳所をつとめたといわれています。
別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合(土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)すること。一般的に日本で神祇信仰と仏教との間に起こった現象を指します)が許されていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のことです。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言いました。
諏方神社の由緒「創立は元享2年(1323)豊島経康が信濃国の諏訪大社から御神体を勧請したのが始まりであるといわれている。御祭神は、〝建御名方命〟である。この神は古事記神話に登場する神で、大国王神の子である。天孫降臨に先立ち高天原から遣わされた、武甕槌神との抗争に負け、諏訪に引きこもり、国譲りを承諾した神である。
文安年間(1444~1499)太田道灌が神領を寄進し、のち江戸時代徳川家光が5石の朱印を与えている。永12年(1635)社殿を現在の協に遷座した。明治になり、日暮里・谷中の総鎮守として、近郊の人々が霊験あらたかな御神徳を敬い、参拝している。昭和に入り、20年(1945)3月の戦災を受けたが、昭和27年復興した。」

浄光寺の門前に六地蔵3番目との碑があります。これは山門をくぐって左手に、高さ1丈(約3メートル)の銅造地蔵菩薩立像をさします。元禄四年(1691年)、空無上人の勧化により江戸東部六カ所に六地蔵として開眼されたものです。
江戸六地蔵は二つ存在しています。
六地蔵の由緒は、江戸時代に刊行された『江戸砂子』の記載によると、元禄四年(1691年)に、慈済菴空無上人が開眼供養したもの、また、宝永五年(1708年)に、地蔵坊正元が江戸庶民から寄進を募って造立したものと、二つ存在したと由が書かれており、元禄年中の方を「始めの六地蔵」、宝永年中のを「後の六地蔵」として紹介されています。これは「始めの六地蔵」は東部六地蔵といわれ、「後の六地蔵」を江戸六地蔵というようです。
諏訪神社にネコが2匹。どちらも警戒深い

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