ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

梅屋敷跡・やくしみち・祐天堂

2016年06月23日 23時01分51秒 | 歴史の小道

亀戸あさくさ古道に沿って散策しています。今回は梅屋敷跡の周りを見ました。

江東区登録史跡 梅屋敷跡 亀戸3丁目40、50~53付近 

 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵としていましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、8代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。明治43年(1910)、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸・大島・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました。

ここに残る石標柱は、江東区創立10周年を記念して、昭和33年(1958)に建てられたものです。
 歌川広重 名所江戸百景 梅屋鋪

平成21年(2009)3月 江東区教育委員会

 

 歌川広重 東都名所 亀戸梅屋鋪図

 一立斎広重 東都名所 亀戸梅屋鋪全図

歌川広重 江戸自慢26景 亀戸梅屋鋪 見立梅かえ

歌川広重 梅屋鋪満花の図

歌川国貞(初代) 梅やしき 漬梅

と浮世絵にたくさん描かれています。

 

六字名号供養塔 伝 祐天書
     祐天堂由来

 昭和41年(1966)に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。
 その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。
 後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。
 それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除、安産、子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)
 また、毎年7月24日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ精霊の供養を営む日と定められてまいりました。
 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会

木下川やくしみち道標
 高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ツ木1丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。

 刻銘は、正面に   木下川
              やくしみち
       右側面に、 本石町
               賽暦十一年辛巳孟春
       左側面に、 あつまもり

あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手、北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦11年(1761)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。
 亀戸3丁目宮元町会 祐天堂保存会

江戸切絵図で亀戸あさくさ古道を見て見ました。

 

 

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向島百花園(新梅屋敷)

2016年06月21日 17時59分57秒 | 歴史の小道

白髭神社から下の道を自転車で移動していたら向島百花園に到着しました。

百花園の沿革にも書いてありますが、1800年代は新梅屋敷と言われていたようです。江戸切絵図にもそのように書かれています。青の線の道を移動してきたようです。

入り口の右側の石碑は

百花園由来の碑です。

趣のある門があります。

入ると右側に福禄寿尊の石碑があります。

次にもう一つあります。

中はいつもの路順に沿いながら移動しました。何回も来ているので写真は少しまとめてみました。石碑はたくさんあるので次回は石碑を散策してみようかと思っています。

今回は塚というのを少しまとめてみました。きょうげん塚です。

こちらはしのぶ塚です。

茶筅塚ということです。茶筅とは、点茶の際、茶を振って泡を発するために用いる道具で晒竹、青竹、油竹などでつくるそうです。

塚とは供養塔という意味のようです。

句碑はたくさんありました。次回はいろいろと収集してみたいと思います。

桔梗がきれいに咲いていました。

おいらん草です。実家の祖父が作った築山花壇に咲いていたので子供のころから好きな花でした。まだひと株だけ咲いていました。

もう少しでほかの株も咲きそうです。

まだ、アジサイがたくさん咲いていました。今年は近場でアジサイをいっぱい撮りました。

ザクロは熟してもすっぱいだけでしたが花はなかなかきれいです。

ここにもノウゼンカズラ

これもノウゼンカズラでしょうか。

寺島ナスがありました。

これは白髭神社境内にあった説明書きです。

東京スカイツリーがよく見えます。

池ををツリー側から見たものです。

池の端にアヤメが一輪

★ランドマーク向島百花園名勝及び史跡。江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に、骨董商佐原鞠塢さはらきくうが、交遊のあった江戸の文人墨客の協力を得て、花の咲く草花鑑賞を中心とした民営花園として開園しました。開園当初は360本のウメが主体で、亀戸の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどでした。
その後、詩経や万葉集など中国・日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようになりました。百花園の名称は「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたとされます。

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白鬚神社(墨田区東向島)

2016年06月20日 23時40分03秒 | 社寺仏閣

リハビリの帰りに前にも行きましたが、再度白鬚神社を散策しました。

墨堤通りに面してあります。この道の突き当りが白鬚神社です。

江戸切絵図では

墨堤の桜が描かれています。

通っている病院は木母寺の上のあたりにあります。墨堤通りは病院への通い道になっています。

上の通りからの白鬚神社

白鬚神社:天暦5年(951)の今から千年余の昔、慈恵大師が、琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊としてお祀りしたことが、白鬚神社の始まりと伝えられています。蓮花寺を別当とし、白鬚大明神と呼ばれていました。
墨田区の旧寺島町にあたる「東向島・墨田・堤通・京島・八広・押上」地区の氏神様として、地元の人々に祀られてきたそうです。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進されました。

白鬚神社は、隅田川七福神の寿老神(寿老人)としても知られています。

正月には初詣と合わせて「隅田川七福神めぐり」も行われています。江戸時代からの習わしで、各神社で御神号・御朱印を色紙に集めたり、各々の神様の御分体を集め、宝舟に乗せて玄関などに飾って縁起を呼ぶものです。白鬚神社の七福神の御開帳は元旦より七草(7日)までとなっています。元旦の0時には、新年開扉が行われます。神殿の扉を開け、新年の一番祈祷を行うもので、役員総代参列のもと、氏子等が一年の幸を祈ります。

主祭神の「猿田彦大神様」は古くから国土開拓の神様として祀られていて、現在では導き・みちひらきの神として商売繁昌や旅立安全・交通安全・方災除の神として慕われています。

5月5日にぼんてん祭、6月に例大祭、11月に新嘗祭などの神事が行われます。ぼんでん祭は古くから行われている神事で、隅田川に水害が起こらないよう祈祷するものです。

江戸名所図会でも土手から階段を下りて社殿には階段を上がってお参りする様子がうかがわれます。

下の道からは

神社に入った右奥の案内版は

寺島ナスの紹介です。実物は切絵図では新梅屋敷と書いてある、現向島百花園にありました。

鳥居の左のところに力石や

石碑がたくさんありました。

だいぶ新しいようですが神楽殿です。

神楽殿の脇にはこの石碑がありましした。

左奥には

富士講のひとつです。

この井戸は、「明治四十三年の大洪水の際には、当時、神主だった今井直は氏子とともに井戸に堤防を築き清水を確保し、人々の飲み水として役立てたという。」ものです。

本殿は一段上の所にあります。

大神の左の石灯籠右の石灯籠はかなりの高さがありました。

上がった右手に由緒書きがあります。

★ランドマーク白鬚神社天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正19年(1592)には、時の将軍家より神領2石を寄進された。
当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が、文化12年に奉納したもので、其の信仰のほどが偲ばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

狛犬です。

社殿の左奥には合祀した諏訪社がありました。

諏訪社(諏訪明神)は江戸切絵図によると白鬚神社の隣にありました。

こちらは水神社と三峰社の末社です。

これから下の道を行くと向島百花園に出ました。切絵図では新梅屋敷となっているところです。

 

 

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柳島妙見堂・法性寺(墨田区業平)江戸名所図会めぐり

2016年06月18日 16時31分22秒 | 江戸名所図会めぐり

江戸時代の物語や浮世絵などにも出てくる法性寺・柳島妙見堂を散策しました。江戸名称図会にも掲載されているので、江戸名所図会めぐりにカテゴリーを変えました。6月6日と6月17日に境内を歩くリハビリがてら見てきました。

★ランドマーク法性寺:柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人の多かった寺です。天正元年(1573)日遄上人によって創建され、妙見山玄和院と号し、日蓮宗真間山弘法寺の末寺です。妙見大菩薩を奉安した妙見堂があります。妙見菩薩は北斗星を神化したもので、国土を護り貧窮を救うといわれている仏様で、像容は端麗な天女形です。
江戸城の鬼門除けとしておかれたというこの妙見堂のそばに、周囲2m余にもなる影向松という古木がありました。この松は妙見が降臨したと伝えられています。なお、妙見堂はとくに桂昌院の帰依が深かったそうです。北十間川沿い内には橋本家という料亭もあり、舟で来る人も多くかなり賑わっていたようです。しかし、今は、本堂をはじめ庫裡等すべて近代建築となって昔の面影はありません。
寺の入口に「北辰妙見大菩薩」と刻まれた高さ170cmの石標が建っています。右側面に「妙見山法性寺」、左側面に「宝暦2壬申(1752)6月15日坂本町講中 □□町講中」とあります。この石標は、以前は道標をかねて浅草通りに面して立てられていたようです。

お寺さんのHPにもいろいろと書いてありました。

当寺院は、江戸時代に浮世絵師として活躍した葛飾北斎が「柳嶋の妙見さま(開運北辰妙見大菩薩)」を信仰していたことで有名です。

柳島妙見堂です。

北斎は、柳嶋の妙見さまのご利益で吉運を開いたと言われています。

師匠に破門にされ、生活に窮した北斎は、一時、絵筆を折ろうとまでします。しかし、「柳嶋の妙見さま」へ21日間お参りし、満願の日の帰り道に落雷に遭って失神。
その後、めきめきと売れ出して有名になり、数々の名画を残しました。世界的に有名な画家として知られるようになったのも、「柳嶋の妙見さま」のご加護があったからなのです。

古地図江戸切絵図から、真ん中の小梅村と書かれている場所に東京スカイツリーが立っています。左手上が吾妻橋、渡ると浅草になります。柳島法性寺は北十間川と横十間川が交差するところにあります。

浮世絵にもたくさん書かれています。

★ランドマーク柳嶋妙見堂:法性寺境内にあるお堂。法性寺の開山は明応元(1492)年。妙見堂には北極星を神格化した妙見大菩薩が祀られている。国土を守り、災厄を除き、長寿をもたらす菩薩として、葛飾北斎をはじめ、江戸庶民の信仰を集めていた。法性寺の北側には会席料理茶屋「橋本」などの料理屋が並び、船で来る人も多く賑わった。

歌川広重(初代)柳しま

法性寺境内にあるお堂。法性寺の開山は明応元(1492)年。妙見堂には北極星を神格化した妙見大菩薩が祀られている。国土を守り、災厄を除き、長寿をもたらす菩薩として、葛飾北斎をはじめ、江戸庶民の信仰を集めていた。法性寺の北側には会席料理茶屋「橋本」などの料理屋が並び、船で来る人も多く賑わった。

今の柳島橋です。

対岸亀戸側から見ています。マンションは法性寺の敷地内に建っています。

広重(初代)柳島之図

料亭の橋本家が描かれています。広重(2代)江戸名勝図会 柳島妙見

広重(2代) 東都三十六景 柳島妙見

歌川豊国(初代)の筆塚(断片)

昔ばなし柳塚

★ランドマーク昔ばなし柳塚:この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられます。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。
 江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治17年(1884)三遊派・柳派に分裂して覇を競うようになりました。明治22年(1889)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。
 やがて大正6年(1917)になって、寄席が会社組織となり、300人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する150人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。
 平成13年(2001)3月  墨田区教育委員会

木母寺の三遊塚はこちらです。

六世桂文治の碑

大正4年7月建立。世話人、三笑亭可楽、桂文楽、翁家さん馬の名前が裏の刻文にある。

近松門左衛門の碑はどうしてここにあるのか不思議でした。お寺のHPによると

★ランドマーク近松門左衛門の碑:近松門左衛門は浄瑠璃作家の大御所で、「曽根崎心中」「国政爺合戦」などの不朽の名作を残しました。

近松門左衛門の菩提寺は尼崎市の広済寺(日蓮宗)ですが、このお寺にも妙見さまが祀られています。この「妙見さま」への信仰心が縁で、近松門左衛門のひ孫により、門左衛門没後100年を経た文政11年(1828年)、江戸の柳嶋妙見山法性寺に近松門左衛門供養碑が建立されました。

これは、昭和30年代に境内から供養碑の一部が発見された(断片は墨田区登録文化財)ことにより、後の研究で明らかとなったことですが、平成18年(2006年)に、供養碑が再建されています。

この石碑はなんだかわかりませんでした。

 

涼しさやの句碑

夢さめての句碑

 

これは瘞髪塚でしょうか

 

 

妙見様の前にあるお百度石です。江戸時代には、妙見堂にお百度参りの願かけに来る参拝者も多かったといいます。
それにちなみ、足のツボを刺激して健康を願う遊歩道を設置したということだそうです。

川沿いに行くと石仏と

お地蔵さんがあります.

風也坊秋香の句碑

 

馬頭観世音

昇得弁財天

 

墓です。

出口の近くに侠客上万の墓があります。

 

桔梗の花が咲き始めていました。

浅草通りの反対側に古くからのうなぎ屋さんがあります。昔の賑わいの残りでしょうか。

江戸名所図会 大人の塗り絵より 柳島妙見堂 鬼平犯科帳にも登場します。この絵のように江戸時代の川の水はきれいだったでしょうね。

昭和20年生まれの人が子どもの頃北十間川と横十間川が交差する右手の茶色い屋根の岸から飛び込んで遊んだそうです。

その後で水質汚染が始まり、とても川には入れなくなってしましたが、今ではだいぶきれいになりハゼ釣りを楽しむことができます。

遠くに見える山は筑波山です。

東京スカイツリー行の水陸両用のバスも通るようになりました。

 

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法泉寺(墨田区東向島)

2016年06月17日 23時04分20秒 | 社寺仏閣

リハビリ病院の通り道の近くに法泉寺があります。古地図でも大きく掲載されている施設です。(4月25日に訪れています。)

リハビリ病院は、古地図で御殿場と書かれているあたりにあります。

法泉寺山門

★ランドマーク法泉寺法泉寺は、大本山永平寺と大本山總持寺を両本山と仰ぎ、諏訪山吉祥寺を本寺とする曹洞宗のお寺です。
 今から約八百年前に奥州を支配した葛西三郎清重が、父母の追善供養のために建立し、壮麗な伽藍が整えられていました。当山過去帳には清重の子孫と目される灌頂法泉大禅定門が記載されています。
 戦国期に入り、激しい乱戦で法泉寺のある寺島村も兵火に荒れ果てました。しかし、今も残されている貞和三年(1347年)から永禄十一年(1568年)の間に建立された八基の板碑(注)により、法灯が営々と守られてきたことがわかります。
 天文元年(1532年)に吉祥寺二世大州安充大和尚が法泉寺の伽藍を再建しました。この地の領主遠山新三郎が亡妻の追福のために数十畝の地を寄進した記録があり、中興開基とされています。
 江戸期には幕府の外護により、慶安元年(1648年)に八石五斗の御朱印を賜りました。寛文二年(1662年)には石造地蔵菩薩立像が建立され、貞享三年(1686年)には千余名から寄進をうけて梵鐘(宇田川藤四郎作/喪失)を鋳造しています。さらに享保二年(1717年)には銅造地蔵菩薩立像(宇田川善兵衛作)が建立されるなど、檀信徒から篤い尊崇を集めて今日に至っています。
 現在も墓地には百余年から四百年の歳月を経て、なおやさしさを偲ばせる数百基の石仏が祀られ、粋でゆとりあふれる江戸の文化が、継承されています。

本堂

大覚殿

銅造地蔵菩薩立像

法泉寺の銅造地蔵菩薩立像:法泉寺は曹洞宗に属し、近世以前開創という区内でも古い寺院です。縁起によると、戦国時代に吉祥寺2世の大州安充により開山されたといわれます。
法泉寺の山門を入りすぐ左手に安置されている総高357センチメートルの地蔵菩薩立像は、享保2年(1717年)の造立です。三段の石造基壇の上に、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち円光背を持ちます。
十方万霊供養と施主の先祖、及び一家霊魂菩提のために建立されたことが記されています。
この像には、蓮台式茄子に陽鋳銘を、地蔵の背面に記年銘・願主名(念蓮社十誉)・作者名(鋳物師(いもじ)宇田川善兵衛)を陰刻し、地蔵の全身に数百名にも及ぶ結衆者の名前がくまなく刻まれています。その職業が、やかん屋・豆腐屋などと分かることは特筆されます。
宇田川姓の鋳物師は中世末期から続く名家で、代々小伝馬町(現日本橋小伝馬町)に住み、数多くの作品を手がけています。

法泉寺の石造地蔵菩薩立像:総高142センチメートルの舟形光背型の浮彫地蔵菩薩です。右手は欠損していますが、裳裾(もすそ)の状態から、おそらく錫杖(しゃくじょう)を持っていたと思われます。
彫りは丁寧で眉目秀麗な姿をしていますが、台石はなく、石壇に直に安置されています。
光背には、寛文2年(1662年)の年号と「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成佛道」と刻まれています。これは、中世より回向文として最も多く刻まれる法華経第七化城喩品(けじょうゆぼん)の一節です。その下段には3人の導師の名と20名の男性の名とともに「玉」という女性の名が刻まれています。

2013年度 文化財維持・修復事業助成   助成対象紙本著色 涅槃図(ねはんず)保存修理事業
[江戸時代]

紙本著色 涅槃図(ねはんず)

東京都墨田区の法泉寺(ほうせんじ)は、葛飾北斎の浮世絵にも描かれ、江戸時代には尊崇を集めた寺院である。第二次世界大戦の空襲により多くの寺院が焼失した中にあって、被災を免れた法泉寺の所蔵する文化財は、歴史、文化を伝える貴重なものである。
 涅槃図は、江戸時代中期に描かれたと思われる。描き表装部分を含めて縦3メートルを超える大きな図でありながら、その構成は、鎌倉時代以降の構図を充分に咀嚼し、描写においても悲しみを示す表情や精緻で多様な文様などに特徴がある。
 制作以降一度も修理歴がなく、画面では絵具の粉状化、剥離、剥落や折れに伴った亀裂、肌裏紙からの糊浮きも生じ、描き表装部分も損傷している。修復は、今年度から2ヵ年計画で行う。

 実家のお寺さんにも同じような涅槃図がありました。

葛飾北斎 寺島法泉寺詣

 

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