ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

子育地蔵堂(墨田区東向島)6月20日更新写真追加

2016年06月16日 20時27分14秒 | 社寺仏閣

リハビリの行き帰りにいつも通り墨堤通りに子育地蔵尊があります。40年も前から知っているのですが中を散策したことはありませんでした。雨模様の中急いで見てきました。6月20日も寄ったので写真を付け加えました。

地蔵堂です。

墨田区の案内版

★ランドマーク子育地蔵堂:この御堂に祀られている子育地蔵は.文化年間(1804~1818)に行われた隅田川の堤防修築工事の際に土中から発見されたと伝えられています。初めは村の子供たちが,神輿がわりにこの地蔵をかついでいたそうです。
 この地蔵には,次のような伝承があります。ある日,この地に古くから住む植木屋平作方に雇われていた夫婦が川沿いの田地で殺害される事件がおきました。犯人はすぐにはわかりませんでしたが,この地蔵が村の子どもの口をかりて犯人を告げたのだとか。そこで平作は,この所に地蔵を安置して朝夕に供養するようになりました。
 その後,天保三年(1832)四月に十一代将軍徳川家斉が鷹狩に来て平作宅にて休憩した際,地蔵の由来を聞いて参拝しました。平作が,このことを記念して御堂を建てて地蔵を安置すると,人々はこぞって 参詣しました。出産・眼病その他諸病の平癒開運を祈ると霊験が現れたそうです。当時は平作地蔵あるいは塩地蔵,また子育地蔵と様々な名前で呼ばれました。
 御堂前の坂は,明治四十四年(1911),堤防修築の土盛り以降,現在まで「地蔵坂」の名で親しまれています。
 昭和八年(1933)に建てられた由来碑と御堂建立百年御忌供養塔は,地元出身の書家,西川寧(やすし)(文化勲章受章者)が揮毫したものです。

こちらに由来が書いてあるようですが読めませんでした。

「伝承によると、文化年間(1804-1818)に隅田川堤防改修中に石造りの地蔵尊を得、それを当地の植木屋平作が、この地蔵尊の霊験に感得して、庚申塔のある辻に祀ったのに始まると言います。」ということでこの庚申塔が先にあった?

水が溜まっているのが手水鉢です。

下に穴が開いているのが不思議だったので調べたら、「盃状穴」というらしいです。(石に穿たれた盃状の窪み穴)。古来よりお参りの方が付随の『小石』で御身をごく軽く『たたき』お願いごとをする風習があった。ということで石仏に穴があいた?

「盃状穴」は、西日本一帯で、寺社の境内などにある石燈籠の台石・手水鉢(手洗い鉢)・石段・石橋などの石造物や特定の岩によく見られるという。この「盃状穴」の信仰は、江戸時代には盛んであったようであるが、明治以降の石造物には盃状穴があまり見られないことから、明治以降になると何故か衰退したと推定されている。

そして、現在では小石でたたく風習は全く見られていない。かつてあったであろうことも全く忘れられ、「長い期間にわたって水をかけてきたために、このように石仏下部の表面が溶けて
きたのではないか」と思われている。などど説明していそうです。http://koshigayahistory.org/67.pdf#search='%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E5%9C%B0%E8%94%B5%E5%A0%82+%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA'

いろいろと研究している方がいらっしゃいますね。

これは「聖観音庚申塔」というらしいです。

これは馬頭観音

供養塔は昭和8年と書いてありました。

御詠歌は昭和12年と書かれています。

地蔵堂です。

子育地蔵尊と書かかれたの木札の奥に地蔵さんがあるようです。

境内には石仏や地蔵さんがたくさんありました。

入り口の左手にある地蔵さん

手前から奥を見ています。

こちらの前の通りが墨堤通りです。

前の坂道は地蔵坂となっています。

40年ほど前に「昔は地蔵坂の傾斜はもっときつかった。時には荷馬車の馬が滑って倒れた」という話を聞いたことがありました。4の日が縁日で通を通行止めにして、結構屋台もでていました。

明治時代の古地図です。まだ荒川放水路はできていません。ツル土手道が墨堤通りと交差する角にあります。青い線は今の墨堤通りです。

取り残されて白髭神社までの間の道が今でも残っています。手前の左が坂になっていて土手に上る道だったようです。

先に行くとこの標識があります。

こんな標識もありました。

そして土手の下に白髭神社の入り口があります。

子育地蔵尊の裏手にこんな石碑がありました。

裏にこんな石碑がありました。

御接木 永々御預り「唐楓御用木」と書かれています。Google Earthで街並散歩(江戸編)というブログに「唐楓はカエデとは別種で、フウと呼ばれ、鷹さ3メートル、幹廻り1.3メートルもあった。かなりの老木で根も張り、中がガランドウで移植に耐えられぬということで切られてしまったそうです。」と書かれていました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猿江公園(ノウゼンカズラ・アジサイ)

2016年06月15日 21時48分43秒 | 公園散策

毎日少しでも歩かないと歩けなくなるという恐怖感があり、手ごろな猿江公園に出かけてみました。

日頃から注目していたノウゼンカズラの棚に寄ってみました。ちょうど満開なようです。

こちらの棚はたくさん花のつく種類のようです。

にぎやかなのもいいのですが、一輪(一枝)というようなものを結構気に入っています。

こちらは二枝?

たくさん枝がありますが、一つ一つが独立しているようです。

かなり主張しています。

野球場の裏側に行ってみたら、アジサイが少しさいていました。

ガクアジサイでヤマアジサイのように自然に生えています。

手まり型のアジサイもありました。

ガクアジサイ

新種でしょうか。

団地に戻って花壇をみるとアジサイが生き生きとしていました。

今年は会社もなく近場だけの移動なので、多くのアジサイを撮ることができました。

明日はrリハビリ病院に行くので途中にあるカシワバアジサイを見てみます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水天宮(東京都中央区)

2016年06月14日 23時09分28秒 | 社寺仏閣

二日間あまり歩かなかったので、少し歩こうと思い自転車で中央区の水天宮に行きました。新大橋を渡って行ったので横の出入り口に着きました。

早速階段でと思いましたが、杖と手すりを頼りに登りました。

初めてきたので、以前がどんな本殿だったのかわかりませんが、今のはこの2016年4月に新築されたもののようです。

旧澱の写真があったので、お借りしました。こんなものだったようです。

★ランドマーク水天宮(東京都中央区):水天宮(すいてんぐう)は、東京都中央区日本橋蛎殻町にある神社で福岡県・久留米市にある久留米水天宮の分社だということです。

久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬されていたが、文政元年(1818年)9月、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、江戸でも信仰者の多い水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出、幕府のこうした事例は関与しないとの見解を得た上で、同年から毎月5の日に一般開放された。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであった。有馬家の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は安政年間の記録で年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入だった。

明治4年(1871年)、有馬家屋敷が移転することになり、それとともに赤坂に遷座したが、翌明治5年(1872年)、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町二丁目に移転した。

どんな御利益が?江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集め、妊婦や子供を授かりたい夫婦あるいは無事出産できた夫婦などが、安産や子授かりの願掛けやお礼参りなどで訪れる遠いうことらしいです。

若い御夫婦や女性が多く見らた理由がわかりました。

これは安産子育河童だそうです。足下と胸、肩に赤ちゃん河童がしがみついている姿が印象的な、仲睦まじい河童の親子像ということです。

 
犬の親子像がありました。
子宝いぬと書いてありました。
愛らしい子犬を見つめる母犬からは情愛を表しているということです。周囲を取り巻く十二支のうち自分の干支を撫でると安産、子授け、無事成長など様々なご利益があるといわれております。
 
ほかとはちょっと違う狛犬がありました。
水天宮のHPには「一方は口を開けて前足で玉を守り、もう一方は口を閉じ子犬を守る姿が印象的な一対の狛犬です。其々、吐く息と吸う息「阿吽(あうん)」を表し、魔除けとしての意味合いもございます。※ブリヂストンの創立者である石橋正二郎氏によるご奉納。」とありました。像の後ろに石橋正二郎と書かれていたので、どこかで聞いた名前でしたが思い出せませんでした。
普段のお寺さんなどには金剛力士像があり阿吽の姿をしているのです、狛犬がそれも兼ねているようです。
そのためが入り口階段の両側(ガラスの所)に人形が飾ってありました。
こちらは弁財天
 
今年の四月の5日新オープンの幟がははためいていました。
 
清澄通り側の入り口には
歩道には
御神燈が建っています。
ここから清澄通りを渡って江東区に戻ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀切菖蒲園・菖蒲まつり

2016年06月11日 23時22分15秒 | 季節の花

堀切菖蒲園は前から気になっていた施設でしたが、朝のNHKTVで紹介していたので、思い切って自転車出かけてみました。距離は6㎞弱ですが荒川があるので橋を渡らなければなりません。

木下川橋です。

下は荒川(荒川放水路)です。

会場入り口、

歌川広重 初代

★ランドマーク堀切菖蒲園:敷地面積約7700平方メートル、花菖蒲200種6000株

堀切の花菖蒲(ハナショウブ)は江戸名所の一つとして古くから知られており、その景観は安藤広重や歌川豊国らの錦絵の題材にもなっています。
一説には室町時代からこの美しい花に魅せられた当時の地頭久保寺胤夫が奥州郡山附近の安積沼から種子を持って来て自邸に培養を始めたとも、また一説には、寛文・延宝(1661~1680)、堀切村の小高伊左衛門が全国各地の花菖蒲を収集し、庭に植えたのが始めともいわれ、その後、本所の旗本万年録三郎から当時の逸品として知られた「十二一単」を、花菖蒲の愛好家松平左金吾(菖翁)から「羽衣」「立田川」などの品種を譲りうけ繁殖させたことから、現在まで堀切と菖蒲は切っても切れない間柄となっているのだそうです。

堀切には元々多くの菖蒲園が存在していました。最初の菖蒲園は、江戸末期に開園した小高園、そして明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などの菖蒲園が開園しました。堀切の花菖蒲の様子は「江戸百景」に数えられ、歌川広重・鈴木春信など著名な絵師による浮世絵にも描かれています。
また明治には、「東京遊行期(明治39)」「東京近郊名所図絵(明治43)」などに次々と堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期は明治中期から大正末期だといわれています。しかし残念ながら時代の流れとともにそのほとんどが閉園や廃園、菖蒲園は宅地へとその姿を代えていきました。

堀切菖蒲園」は元の「堀切園」を改称したもので、昭和34年5月東京都に買収され、翌年6月1日から「東京都立堀切菖蒲園」として公開されました。
その後、昭和50年4月その管理を葛飾区に移管し、今日では「葛飾区指定史跡 堀切菖蒲園」として整備、菖蒲の咲き誇る毎年6月には、近隣住民だけでなく遠くからも、あでやかなその花を愛でるために人々が集まってくるのです。

1年目から徐々に株が大きくなるようです。鉢植えから

 

とにかくたくさん咲いているので、どのように写真を撮るのか迷ってしまいました。

最初は全体の風景を撮りました。いっぱいのお客さんが来ているということを。

よく見るとそれぞれの品種が書いてあるのでこれを撮ってみようと思いました。

菖蒲の基本は紫と思っていますが、単純な紫はあまりまりません。

それと白です。

これがうまく混じったこの花がいくつかありましたが、なかなか良かったです。

 

 

その他にもこんな色の花がありました。

ところで花菖蒲、アヤメ、カキツバタという花の区別がつきませんでしたがこんな解説がありました。

★花菖蒲、アヤメ、カキツバタ:花菖蒲は湿地や乾地どちらにも適応しているのに対して、アヤメは乾地、カキツバタは低湿地や池沼を好みます。
開花期も花菖蒲は5月下旬~6月、アヤメ5月上~中旬、カキツバタ5月上~下旬と微妙な違いがあり、花の開き方も三英咲のみのアヤメとカキツバタより、六英咲という種類もある花菖蒲はより華やかな印象を持つ花であるとのことです。

そして、花菖蒲には大きく分けて「江戸系」「肥後系」「伊勢系」があり、また明治時代に日本から観賞用に輸出され品種改良された「欧米系」という品種も存在します。

「江戸系」は、江戸初期から堀切を中心に改良された品種群で、花でありながらも江戸っ子らしくしっかりとした花弁と粋な雰囲気を持ち、一輪で楽しむいうよりは群生させて全体の色合いを楽しむところにその魅力があるといわれているそうです。

安藤広重の浮世絵にも、堀切一帯には「江戸系」の花菖蒲が群生していたことを物語る作品が残っており、絵画としての価値だけでなく当時の花菖蒲の流行を知る上で貴重な資料となっているのです。
ちなみに「肥後系」はさらに「江戸系」の品種改良種で、とても大きな花を咲かせることで、花菖蒲の女王とも呼ばれます。

歌川 広重 2代

★菖蒲湯:端午の節句に菖蒲湯に使われる菖蒲は、この花菖蒲とはまったく別なサトイモ科の植物だそうです。

歌川 国貞 初代

江戸時代の古地図にも堀切村「此辺花畑多し、花菖蒲開花寺、見物人出る勝地なり」と書いてあります。

こちらは百合の花でしょうか。

こんな碑があります。

アジサイも少し咲いていました。

こちらは萩のトンネル

萩の花が一枝だけ咲いていました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宗寺(銅造地蔵菩薩坐像・江戸六地蔵)・四谷大木戸(江戸名所図会めぐり)

2016年06月10日 23時40分01秒 | 江戸名所図会めぐり

鍼灸治療で曙橋まで通っています。天気が良かったので、一駅新宿三丁目まで足を延ばし江戸六地蔵尊の太宗寺を散策しました。

前に一度仕事の途中で見ています。

★ランドマーク太宗寺太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられています。太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一体を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1629)内藤家第五代正勝逝去の際には、葬儀を一切とりしきり、墓所もこの地に置くことになりました。 これが縁で、寛文8年(1668)六代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。内藤家は七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。現在も、毎年お盆の7月15日・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。なお、寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。

銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵のひとつです)

江戸時代の前期に、江戸に出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつです。銅造で像高は267cm、正徳2年(1712)9月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
「江戸六地蔵」は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は72,000名以上におよんでいました。
この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。
品川寺、品川区南品川3-5-17、宝永5年(1708)造立
東禅寺、台東区東浅草2-12-13、宝永7年(1710)造立
真性寺、豊島区巣鴨3-21-21、正徳4年(1714)造立
霊巌寺、江東区白河1-3-32、享保2年(1717)造立
永代寺、江東区富岡1-15-1、享保5年(1720)造立

太宗寺の文化財

江戸時代の古地図です。内藤新宿となっています。

江戸名所図会に描かれている四谷内藤新宿です。当時のにぎやかさが描かれています。妓楼のお姉さんが客引き?しています。説明文には「節季候の来ては風雅を師走かな はせを」

説明文には「五十にて四谷をみたり花の春 嵐雪」と書かれています。

古地図には、四谷大木戸や玉川上水の御役所や水番が書かれています。

玉川御上水御役所跡は今水道局の営業所になっています。

玉川上水は

内藤駿河守と書いてあるのところは新宿御苑になっています。

広重『名所江戸百景』[四ッ谷内藤新宿]です。

そんな繁華街のところに太宗寺はあったようです。

閻王殿

「閻王殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(一八五〇)に奉納したものだそうです。
 現在は、お盆の七月十五・十六日に御開扉されています。

内藤新宿の閻魔

閻魔大王

と奪衣婆像「しょうづかのばあさん」です。

奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計るとされ、この像でも右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。

中が覗けるようですが、階段があるのでやめました。

他の人が撮ったものをお借りしました。

このようになっているようです。

本堂の脇に切支丹燈籠があるようですが見てきませんでした。こんなものがあるようです。

こちらは三日月不動像と布袋尊像です。

墓地側から見ると三日月不動明王と書かれています。

墓の入り口に内藤家の墓があるとの案内がありました。

入った正面に

三つの塔婆がありました。

こちらが真ん中の

新宿区指定史跡の内藤正勝の墓です。

五十七基の塔婆をまとめた墓誌が建っています。

年代を感じさせる墓標が多くありました。

墓地の塀のところに猫さんの餌やりの容器が置いてあったのはこの猫さん用でしょうか。

写真を撮ろうと思ったら遠くに行かれてしまいました。

こちらは塩かけ地蔵尊です。

塩かけ地蔵の由来は寺の案内にはありませんでした。

少し調べてみましたが「おでき平癒として多くの方が参拝をしてくださっていますが、実はおできのみならず、治したい箇所をお地蔵様にお願いをすれば、ご利益があると伝えられています。」と住職が話しているというのがありました。自分の直したい部分を「お地蔵さん」に触れるというのがあるように、治したいカ所に塩を少し付けるということのようです。

隣にお稲荷さんがあります。

この稲荷神社も説明がありませんでした。実家にも稲荷を祀ってあったので調べてみました。

「稲荷神(稲荷大神、稲荷大明神)は、山城国稲荷山(伊奈利山)、すなわち現在の伏見稲荷大社に鎮座する神で、伏見稲荷大社から勧請されて全国の稲荷神社などで祀られる食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神である。また神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天と同一視され、豊川稲荷を代表とする仏教寺院でも祀られる。

神道の稲荷神社では『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に記載される宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く)、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などの穀物・食物の神を主な祭神とする。」

どうも屋敷神として祀ってあったようです。

それでどれくらいに日本にあるかというと

「日本の神社の内で稲荷神社は、2970社(主祭神として)、32000社(境内社・合祀など全ての分祀社)を数え、屋敷神として個人や企業などに祀られているものや、山野や路地の小祠まで入れると稲荷神を祀る社はさらに膨大な数にのぼる。江戸の町の至る所で見かけられるものとして「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」とまで言われるようになった。本来は穀物・農業の神だが、現在は産業全般の神として信仰されている」ということらしいです。

お百度石があったので調べてみました、

「お百度石:百度参りをする際に往復の目安として設置されていることがある石の柱。本堂から百度石まで引き返して1往復とする」

百度参り:病気平癒(へいゆ)などの祈願のため,社寺に行き,その境内の一定の距離(多くは百度石と本堂との間)を一〇〇回往復し,一回ごとに礼拝すること。 」

帰りがけ、日差しが少し傾いたので顔が見えてきました。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持っています。

前は帽子をかぶっていなかったようですが、老朽化を防ぐためでしょうか帽子をかぶっていました。

地下鉄新宿三丁目駅まで歩いて曙橋に向かいました。元気な時ならすぐに歩ける距離なのに両手杖ではなかなか進みません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする