ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

西光院(牛田薬師・江戸名所図会)

2016年06月09日 17時13分57秒 | 江戸名所図会めぐり

菖蒲まつりに出かけた帰りがけに、念願だった牛田薬師の西光院を散策してきました。山門です。

牛田薬師は江戸名所図会に載っています。牛田薬師堂 関屋里

『夫木抄』 庵崎のすみだ河原に日はくれぬ関屋の里に宿やからまし 光俊

本堂

牛田薬師の石碑がありました。

★ランドマーク西光院源頼朝の在世より起立し、本道に安置する薬師如来は、千葉家代々の守り本尊です。『遊歴雑記』には、「・・・是より西の方堤通り千住掃部宿土物店へ12町、又東南の方綾瀬をわたり南堤通り隅田村木母寺へ13町ありとぞ、此の双方の堤の眺望風色いはん方なく、なかんづく遥かに何面すれば綾瀬川のうねりて、右に関屋の里を見わたす勝景天然にして更に論なし、・・・」と記されています。

明暦3年(1657年)の振袖火事と呼ばれた大火の折、小伝馬町の牢屋奉行を務めており、120〜130人の囚人を一次放免し、焼死を免れさせたことや『源氏物語』の注釈書70巻を著したことなどが刻まれた、石出常軒の碑があります。その他青面金剛庚申塔 、西光院手水鉢が見所です。

石出常軒の碑はこれでしょうか。

青面金剛庚申塔 、西光院手水鉢は山門を入った右手にあります。

庚申塔・柱状型 「庚申青面金剛」三猿(文花8年)ということだそうです。

 

西光院手水鉢は庚申塔の手洗鉢 「奉庚待供養石鉢造立者」三猿(天和3年)ということだそうです。

こちらは稲荷神社

水子地蔵尊がありました。

荒綾八十八ヶ所霊場82番札所の碑のようです。

 

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理性院(柳原寺)・柳原稲荷神社

2016年06月08日 22時52分11秒 | 社寺仏閣

リハビリを受けて体が軽くなったので、前から行きたかった牛田薬師堂ということで、柳原の理性院に向かいました。

 

足立区柳原にありました。

このお寺も真言宗ですが柳原の名がついているように柳原村の唯一の寺院でした。もともと村の北のはずれにあったのですが荒川放水路を掘る時その敷地は全て河川敷とされてしまいました。そのため2キロ南の現在地へ移転したそうです。

左側に墓地があります。

本堂です。

理性院は、南葛八十八ヶ所霊場80番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場61番札所だそうです。

本堂の右手に太師堂と

水子地蔵尊がありました。

よくよく調べて見ると牛田薬師堂は理性院ではなくて西光院のようです。いずれにしても牛田薬師堂のあったところは荒川放水路になってしまったようです。

しかたなく、寺の前の案内を見て近くにある柳原稲荷神社に向かいました。昔からの街並みで狭い道が続いています。

いきなり広い空き地がありました。

本堂

稲荷神社の駐車場に使われていました。

★ランドマーク柳原稲荷神社(やなぎはらいなりじんじゃ):当社の創建は詳らかではないが、『葛西誌』に「慶長4年(1599)の鎮守と云」とある。しかし、柳原村は、元禄年間に葛飾郡小谷野柳原村より分村独立しているので、それ以降に村の鎮守として祀られたものであろう。江戸期にあっては理性院持ちであった。祭神は、宇迦御魂神。明治12年の東京府神社明細簿によると、本社殿、拝殿、境内235坪(官有地)とあり、境内社として、高木神社(産霊神)と日枝神社(大山咋神・東照宮)の2社があり、氏子は35戸と記されている。

高木神社は江戸期の第六天社で、神仏混淆を禁止された明治以降に改称した。また明治44年に日枝神社は高木神社に合祀された。昭和8年、柳原富士講により浅間神社が勧請され、富士塚が築かれた。これは、昭和59年度区登録有形民族文化財である。講中により七富士巡りなどが行われている。また、当社に奉納される柳原箕輪囃子は、江戸期より伝わる民族芸能で、昭和57年度区登録無形民族文化財である。  平成2年10月   東京都足立区教育委員会

ここにも富士講の浅間神社がありました。

富士浅間神社

いろいろなところに富士塚があります。富士山信仰はすごかったのですね。

 

昭和8年(1933年)に富士北壁から貨車で運搬した溶岩や丸石を配して富士塚が築造されました。ということだそうです。

神楽殿

高木神社

第六天社だそうです。

第六天神社を調べてみました。関東地方(旧武蔵国)を中心としてその周辺に存在する神社で、元々は神仏習合時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)に祭神を変更した。

ということだそうですが調べてもあまりよくわかりません。

柳原箕輪囃子の碑がありました。

 

 

 

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寶蓮寺・淨心寺(亀戸あさくさ古道)

2016年06月07日 14時32分14秒 | 歴史の小道

亀戸あさくさ古道のこの写真に出ているお寺さんや神社をたびたび訪ねていますが、今回は下の絵にある、まだ見ていなかった宝蓮寺と浄心寺を散策しました。

現在の宝蓮寺は蔵前通りに面しています。

本堂

寶蓮寺「東林山・華蔵院・寶蓮寺」

 真言宗智山派に属し、今から約700余年前の嘉元元年(1303年)に俊鑁法印によって創建された。その後、昭和20年3月10日の東京大空襲で伽藍は全て焼失しましたが、昭和39年11月に本堂を再建、昭和55年12月に客殿・庫裡が造られています。

当初江戸横山町にあり、後でこの地へ移転しています。荒川辺八十八ヶ所霊場73番札所です。

由緒ある石像と思われますが説明書きがないのが残念です。

この宝篋印塔は塔身が2段で各々に蓮台が付いています。基礎に万人講とあり、講の人々が寄進したもので、文化元年建立の銘があります。

こちらも古そうですが。

墓地も古いお墓があります。

次に浄心寺に向かいました。何度か寺の前は通ったことがありますが、中に入るのは初めてです。

浄心寺です。

山門の両側に地蔵さんがあります。左手の六地蔵はかなり新しいものです。

右手には

古い地蔵さんもありました。

丸彫り立像で頭部が破損したのか補修されている。下部もヒビが入っており痛々しいが、ご尊顔が優しく癒される。ということで

江戸期のもであろうと推測されるということです。

本堂の裏に回ろうとしたらこんな石碑がありました。

亀戸事件、うすうすは知っていましたがここに碑があろとは思いませんでした。

(碑裏)1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。

  1970年9月4日  亀戸虐殺事件建碑実行委員会

 正面の下のところには

犠牲者氏名年令  川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22 鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24

と書かれています。

古地図に「亀戸あさくさ古道」を載せてみました。今回は⑥と⑦でした。

次回は逆井の渡しから龍眼寺までのところをすべて網羅したものをアップしたいと思います。

 

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旧中川あじさい祭り(6月6日更新)

2016年06月06日 21時31分48秒 | 公園散策

旧中川ではアジサイ祭りをしています。6月1日と6日、2回行って観賞してきました。

いろいろなアジサイが咲いています。これはいわゆるアジサイです。手まり型とも言います。

アジサイは日本に自生するガクアジサイ を原種とする栽培品種であり、狭義には古くから日本で栽培されている装飾花だけの花のものを指します。これに対しヨーロッパでの改良品種をセイヨウアジサイ と分類するそうです。広義にはガクアジサイやセイヨウアジサイや新しい品種を含めアジサイといい、数百品種もあるそうです。

白いアジサイはアナベルです。

目の前に迫ってくろようで、白いアジサイはなかなか迫力がありました。

こちらはガクアジサイです。

ガクアジサイは栽培種のアジサイの原種で本州(房総半島、三浦半島、和歌山県神島)、四国(足摺岬)に自生する。自生種だけでなく園芸品種も多数ようです。

これはヤマアジサイでしょうか。

 

このアジサイはなんというのでしょう。珍しい色をしています。

調べていたらカメレオンというのに似ていました。

 あじさい祭り会場ではいろいろな種類のアジサイがさいています。今週が見頃のようです。

ふれあい橋、今年は6月11日にライトアップされます。

旧中川あじさい祭りの会場から東京スカイツリーがよく見えます。

手前に見える橋はJRの鉄橋です。左手が亀戸中央公園になっています。

ライトアップされるふれあい橋の袂には真っ青なアジサイが咲いています。

亀戸のあじさい祭りの幟もありました。

6月3日は錦糸公園に行きアジサイを見てきました。

テニスコートの周り北と

西側に咲いています。

ちなみにこちらは木母寺のところに咲いている円錐形のカシワバアジサイです。昨年種類名を覚えました。

団地の花壇にもアジサイが咲いています。

ガクアジサイです。

こちらの種類は墨田の花火とでもいうのでしょうか。

 

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荒川放水路の犠牲、白髭神社と木下川薬師

2016年06月03日 10時25分35秒 | 社寺仏閣

西光寺の散策を終え、一度行ったことのある木下川薬師に向かいました。途中でこんな標札があり、寄り道しました。

小学校の校庭の隣に社がありました。

鳥居です。

こちらは神楽殿

社殿

古い建物でなかなか趣がありました。

裏にはこんな碑もありました。

狛犬も欠けていあした。

神楽殿のところに黒猫さんがいたので、写真を撮ろうしたら隣の駐車場に逃げられてしました。

★ランドマーク王子白髭神社:『東京府志料』上木下川村の条に、「王子神社 社地三十六坪」とのみある。社伝によれば、清和天皇の第七皇子貞辰親王が東国遊行の途次、元慶元年 (九三八)この地に薨じた。たまたま浄光寺に留錫中の比叡山慈覚大師は良本阿闍梨に命じて、親王の遺骸を葬り、王子権現として慰霊を行って以来、浄光寺がその古塚を管理したという。記録類は明治二十九年の洪水で流失したが、もと上木下川村にあり、その地が荒川放水路の敷地となり、大正八年、浄光寺とともに現在地に移った。
葛飾区神社調査報告 (葛飾区教育委員会) より

大正8年にこの神社と一緒に移転させられた浄光寺(木下川薬師)がすぐそばにあります。

この地図は荒川放水路ができる前のものです。西光寺と木下川薬師が載っています。

昔の荒川(隅田川)は江戸時代に頻繁に洪水が発生していましたが、明治時代になっても洪水が頻発しました。

明治43年の大雨で都内が甚大な洪水被害を契機として、荒川の洪水対応能力を向上させるために荒川放水路の基本計画が策定されました。

 綾瀬川に沿って木下川薬師のところを荒川放水路が掘られました。地図では読み取れませんが白髭神社も木下川薬師の近くにあったようです。今は綾瀬川と中川交差するところにあります。荒川放水路の工事中には、風水害の発生によって工事の予定が遅れることも少なくありませんでした。また、大正12年(1923) には関東大震災が発生して工事に影響を与えました。荒川放水路事業は明治44年(1911) に着手され昭和5年(1930)に完成しました。

荒川放水路の開削工事は、必要な用地も広大なもので、工事で移転を余儀なくされた住民は1,300世帯にのぼりました。また、移転対象地域には、民家や田畑をはじめ、鉄道や寺社も含まれた大規模なものでした。た。。

明治の地図では薬師道も左右に延びています。こんな道しるべがあったようです。

浄光寺山門

脇に高札が

★ランドマーク青龍山浄光寺浄光寺の歴史は平安時代の嘉祥二年(849)にさかのぼりる。延暦七年(788)に伝教大師が比叡山に一乗止観院(延暦寺)を開き、自ら彫刻された薬師如来像を安置すると、さらに東国教化を願い再び薬師如来像を彫られました。 途中まで彫り進めたところ神霊のお告げがあり、下野国に帰国する大慈寺の廣智菩薩に託されました。廣智菩薩は下総国木下川で唱翁に出会い請われるままに薬師像を唱翁の草庵に安置しました。その後浅草寺に滞在していた慈覚大師円仁はこの話を知り貞観二年(860)、弟子の慶寛に命じてその草庵に一寺を建立し浄光寺と名づけました。以来当山は木下川薬師として七堂伽藍を備え人々の信仰を集めることになりました。それから中世の戦乱の中でしばしば荒廃しますが、そのつど復興され近世を迎えます。

江戸時代の薬師寺

キャプション『江戸名所記』に、「いにしへより毎月八日ならびに元三の朝(あした)にして、かならず本尊の御前に竜灯のあがるを、 はいする人少なからず」とあり。されどこのこと、いまは絶えたるにや、土人もしらずといへり。

江戸時代に入り徳川家康公は当山に薬師如来供養料として朱印地を寄進され、当山は浅草寺の末寺筆頭の寺格を保つことになりました。家康公亡き後、江戸城紅葉山の霊屋の別当職に浄光寺が任ぜられ将軍家がたびたび当山へ訪れました。享保五年(1720)には将軍家御鷹狩りの御膳所ともなり、鎮護国家の道場として長く将軍家の祈願所とされました。江戸時代が最も花開いたとされる文化文政(1804~1830)のころになると寺運はますます隆昌し、寺域も広く、本堂、東照宮、観音堂、鐘楼、仁王門、大客殿、講堂、太神宮殿、山王権現、弁天堂、白髭社などの諸堂宇が甍を並べました。幕臣勝海舟も浄光寺を愛した一人で海舟の書簡なども当山に残されています。また明治十二年(1879)七月、西郷隆盛(南洲)の死を悼んだ海舟が南洲の留魂祠、留魂祠の碑を浄光寺境内に造立しましたが、現在は、洗足池公園に移転されています。

伝教大師童形御尊像と書いてあります。

キャプション木下薬師如来の霊像は延暦年間伝教大師叡山に在せし頃、東国化益のために彫造せられやや半ばなる頃一夜この本尊の霊示あるをもって、 つひにその像腰を刻さずして錦繍をもてこれを纏い、下野国大慈寺の広智といへる沙門の東国に帰らんとするに付属ありしかば、 本尊有縁の地なるをもって木下川に安置なし奉りしこと浄光寺縁起に詳らかなり。

阿形吽形で両方合わせて阿吽(あうん)ということですか

門を入った右手にある庚申塔です。青面金剛と、見ざる、聞かざる、言わざるの謹慎態度を示す三猿が刻されています。庚申の信仰は、 庚申の夜は眠らずに言行を慎み、健康長寿を祈念するという信仰です。

これは馬頭観音明治38年と書かれています。

水屋

大イチョウ

薬師堂・釈迦殿

太子堂

 不動明王像

大正8年に移転してきて建てられたようです。大正八年(1919)荒川放水路の開削工事のため浄光寺は南東600メートルの現在地に移転しました。釈迦堂の再建、仁王尊・仁王門の修復再建を経て平成十年には新薬師堂を再建し、明治維新より130年振りの秘仏本尊薬師如来の開帳大法会を行いました。その後12年ごとに秘仏本尊薬師如来の開帳法会を行うというとです。

綾瀬川と中川が交差しているところの堤防から中川の上流を見ています。

こちらが綾瀬川です。

下流を見ています。

綾瀬川と荒川放水路に架かる木下川橋です。

手前が綾瀬川先が荒川放水路です。

橋を渡って少し下流にこんな社がありました。

白髭神社と書いてあります。

社殿です。

由緒や経緯が書いた石碑がありました。

★ランドマーク東墨田白髭神社

延暦七年(七八八)伝教大師半体作の薬師像を下野国の広智という僧が背負って武州にきたところ中川の辺にて不思議な老翁にあった。翁は名を唱翁といい、願わくは像を草庵に安置すべしといわれ、像を草庵に安置して広智は本国に帰った。その後、慈覚大師が東国に下った時に不思議な告げにより、その草庵を修理じて一寺とした。さきに出た唱翁とは白髭明神であったといわれる。

貞観二年(八〇六)に堂宇が完成した時、薬師の守神として祀った。のちに霊験あらたかのために、近郷の人たちも信仰して下木下川村の鎮守となった。現在の荒川放水路中央に鎮座していたが、荒川改修工事のため大正四年現在地に移転鎮座した。(東京都神社名鑑より)

荒川放水路の真ん中にあったものが王子白髭神社と東墨田の白髭神社に分割されたようです。

 

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