我輩は凛太郎である/そしてその母紗夢猫(しゃむねこ)である+ワン!

凛太郎♂(18歳)ミニチュアダックスとハク♂(13歳)和犬雑種+その飼い主ニンゲンの皮を被ったネコ婆♀が繰り広げる日常

繋がり

2013-03-11 22:19:11 | そしてその母紗夢猫である

この世界が、もしもジグソーパズルだったら、自分がそのピースの1つであるような感覚を体験をしたことがある。

とても、静かで、穏やかで、全ては完璧に整っている、そんな感覚。

その時、私は奈良県の吉野桜を見るために歩いていた。観光客もいるその場所で、私の耳から音が消えた。

あるのは静けさと調和と穏やかで満たされた欠落のない感覚、それが私の中にあった。

それは訪れてすぐに消えたけれど、あの感覚は忘れられない。

長らくそれを再び体験することはできなかったけれど、またやってきてくれた。

今度は家の中で、珍しく私がとても静かに歩いていた時だった。「あっ、あの時の感覚」とつかもうとしたら、それは消えてしまった。

この2度目に感じた時は、歩くという身体感覚のみに集中していた時で、思考は止まっていた。

どうしたら、あの感覚を再び味わえるのか、少なくとも思考が止まっていると、それはやってきてくれるかもしれないという一つの可能性が残った。

度々チャレンジをしてみたけれど、最初から「あの感覚を味わいたい」という欲が有るときは、身体感覚に集中していないわけで、思考は完全にとまってはおらず、それはやってきてはくれなかった。

 

ある時、私はもぐらを殺した。

その刹那、ものすごい静寂がやってきて、私の世界から音が消えた。そして次の瞬間、喪失感に襲われた。
ピースの一つが欠けた、調和が乱れた、欠落感がやってきた。

もぐらを殺した罪悪感と、殺戮をしている時の恐怖、私の方がモグラに比べたらはるかに大きいのに、殺戮をしている最中の恐怖。
その後で、地球上の命をこの手で抹殺してしまったことで生じた欠落感。

もぐらは殺さなければならなかったのか?

近所のヒトはマムシとムカデとモグラはころさんとアカンと言うておられたから従ったのだが、見逃しても誰にも見られていないから咎められることはない。それなのに私は殺してしまった。とてもかわいらしい生き物だった。今でもあの時の殺生は後悔している。

でもその時の経験で、全ては繋がっているという私の中に確信が芽生えた。

こんなことを書くと「頭のおかしなヒト」というラベルが貼られるかもしれない。

命は消え、生まれ、この世界はあらゆる動植物、命がないとされているモノも人の手で生み出され、人の手で処分され、ありとあらゆるものの破壊(死)と再生が繰り返されている。

何か一つが地球上からなくなった時に欠落感を感じるか?

否、感じない。

では、どんな時に感じるのか?

それはコトバでは表せはしないけれど、何かわからない欠落感を、ヒトは時として感じるのではないだろうか。自分とどこかで深く繋がっている何かがこの世から消えた瞬間にそれを感じ取るのではないだろうか?

フクシマから2年。たくさんの命が日本から失われた。世界が涙し、復興のために協力した。お金で、労働力で、物資で、そして心で。

でも、、、本当にフクシマの復興ができるのか?放射能汚染は本当に大丈夫なのか?

大事なところの情報が開示されないままではないだろうか?

復興なくして再建はないと前の政権は言っていたけれど、安全なくして復興はないのではないか?

何かがおかしいのだ。これ以上、人災で命を無くすのは御免だ!

大きな災害で多くのものが失われると、自分がしあわせているのが申し訳ないような気がする。

多くの人が心のなかでそんな感覚を持っているのではないだろうか?

きっとそれは、どこかで何かが繋がっているからだと思う。

 

ではまた明日

ご精読ありがとうございました

 

にほんブログ村と、人気ブログランキングの2つのランキングに参加しています。バナーを2つともポチっとお願いできますか?

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ      

応援ありがとうございました 

 

滋賀県観光情報

びわ湖高島ええもん館

高島市観光情報

宇宙天気予報

気象庁地震情報

全国の放射濃度一覧