さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

吉田隼人歌集『忘却のための試論』について

2016年03月19日 | 現代短歌 文学 文化
 まず本を手に取って、表紙の絵に衝撃を受ける。次に帯の文に目が釘付けになる。

「この集が一基の墓標である以上、冥府に降った作者は遂にそのまま此岸に還ってこないということも充分に考えられる。…」

この文章は、本人が書いたのだろうか。急いで「あとがき」を斜め読みして、なるほど、そういうことか、と思う。しかし、ここでは、あえて引かない。

 現代短歌が、知的で鋭敏な人なら必ず参照していなければならない存在になりつつあるということを、この本ほどはっきりと示すものはないだろう。このブログのほかの記事にも書いたが、小説も含めて、文学が再び光輝を取り戻す時代がやって来ているのだ。それも、今が旬の作者たちが、ちょうど日本の戦後詩が盛んだった頃のように、あとからあとから次々と続いて、一斉に展開していこうとしているのだ。この現場に立ち会えたことを、私はよろこびたいと思う。吉田隼人は、短歌の分野における、その象徴的な存在の一人となるにちがいない。

 近年これだけ徹底した構築力と高度な修辞力をもって、己の生の痛苦を訴えながら、美意識の高みを示し得た若手の歌集があっただろうか。吉田隼人の歌は、ニーチェの言う血で書かれた文字であると私は思う。そうして冒頭のマラルメの詩の雅文体訳や、後半のグラックの『シルトの岸辺』からの引用からもわかるように、近代の日本文学と戦後詩の遺産のすべてを一身に引き受けて継いでいこうとする意志を抱きながら、それを実現してみせたのだ。

 さらに、この作者のいいところは、どの歌も現実の作者の日常生活の尻尾を完全に切り捨ててはいないところである。短歌の生理を受け入れて、無理にフィクションの方に言葉をねじ曲げようとしていない。そうして全体的にどの連作もとてもエロティックである。私はそのことにそそられる。深く、静かに…。