私はヘーゲルの『小論理学』の一番はじめの<一>と<多>のところでつまずいた人間だから、私がドゥルーズを引用すること自体がそもそもおかしいのであるけれど、しかし、この(一見)難解な瀬戸夏子の歌集について何か書いてみようと思って、『千のプラトー』の文庫本をめくっているうちに、こんな一節が、とても新鮮に感じられた。
「多様体の原理。(略)多様体はリゾーム状であり、樹木状の疑似多様体を告発する。客体において軸の役目を果たす統一性はなく、主体において分割される統一性もない。たとえ客体において中断し、主体の中に「回帰する」ことを目指すだけのものであっても、とにかく統一性はない。多様性には主体もなければ客体もなく、たださまざまな規定や、大きさや、次元があるだけで、そうしたものはこの多様性が性質を変えないかぎり成長しえないのだ。」 『千のプラトー』(序)
瀬戸夏子の短歌は、ここで言う「樹木状の疑似多様体を告発する」エクリチュールなのかもしれない。ドゥルーズの言うことを実践しているのである。私なりに言い換えてみよう。瀬戸夏子の短歌は、<よじれ>と<もだえ>の多面体を志しつつ、「樹木状の疑似多様体を告発する」エクリチュールなのだ。ここで私は、にわかに心に決めたのだが、このようなエクリチュールを支援するほかに、現下のわれわれのあらゆる閉塞状況を打開する手立てはないのではないか。あと、もう一箇所、引用してみよう。
「…われわれ人間はさまざまな線から成り立っているからだ。エクリチュールの線だけを問題にしようとは思わない。エクリチュールの線は、生命の線、運・不運の線など、他のさまざまな線と結び合わされ、これらの線がエクリチュールの線を変化させ、書かれた線の間〔行間〕の線になるのである。」 同(8)
これは、まるで短歌の話をしているみたいな文章ではないか。ドゥルーズが短歌のことを知って書いたら、けっこうおもしろかったかもしれない。
などと…。しっかし、現代短歌、おもしろいなあ……。
「多様体の原理。(略)多様体はリゾーム状であり、樹木状の疑似多様体を告発する。客体において軸の役目を果たす統一性はなく、主体において分割される統一性もない。たとえ客体において中断し、主体の中に「回帰する」ことを目指すだけのものであっても、とにかく統一性はない。多様性には主体もなければ客体もなく、たださまざまな規定や、大きさや、次元があるだけで、そうしたものはこの多様性が性質を変えないかぎり成長しえないのだ。」 『千のプラトー』(序)
瀬戸夏子の短歌は、ここで言う「樹木状の疑似多様体を告発する」エクリチュールなのかもしれない。ドゥルーズの言うことを実践しているのである。私なりに言い換えてみよう。瀬戸夏子の短歌は、<よじれ>と<もだえ>の多面体を志しつつ、「樹木状の疑似多様体を告発する」エクリチュールなのだ。ここで私は、にわかに心に決めたのだが、このようなエクリチュールを支援するほかに、現下のわれわれのあらゆる閉塞状況を打開する手立てはないのではないか。あと、もう一箇所、引用してみよう。
「…われわれ人間はさまざまな線から成り立っているからだ。エクリチュールの線だけを問題にしようとは思わない。エクリチュールの線は、生命の線、運・不運の線など、他のさまざまな線と結び合わされ、これらの線がエクリチュールの線を変化させ、書かれた線の間〔行間〕の線になるのである。」 同(8)
これは、まるで短歌の話をしているみたいな文章ではないか。ドゥルーズが短歌のことを知って書いたら、けっこうおもしろかったかもしれない。
などと…。しっかし、現代短歌、おもしろいなあ……。