さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

結城文歌集『富士見』

2017年11月03日 | 現代短歌
 この連休中に手元の近刊歌集について何か書いてみようと思う。直近では結城文さんの『富士見』がいい。いちばん最後の章から引く。

この星にかたみに親と子と呼びて生きし偶然のおろそかならず

 本当にそうだなあ、と思う。帯に書かれているのは、次の歌だ。

祖父母逝き夫逝き母逝き飼犬も狭山市富士見の土に帰れる

 死者との記憶を反芻しつつ、作者を慰めるものは、エミリー・ディキンソンの詩である。作者は長く英語短歌に関わって来た。ディキンソン邸に行くという事は、そういう作者にとって聖地に赴くのにふさわしい浄化される体験だったのでないか。一連をやや多めに引く。

卒論に選びしエミリ・ディキンソン当時は今より無名なりしか

訳書なく研究書なく「海図なき海を小舟」でゆく心地せり

卒論より半世紀経てわが来たりアマースト・カレッジのディキンソン学会

ダッシュには感情移入に差がありと思ひつつ我は論に聴き入る

被災後の新聞にその詩引かれゐしと知りて満場の拍手となれり

 ※3・11東日本大震災

エミリーが上り下りせし階段の手すりに触れつつ今わが上る

 「満場の拍手」の歌は、友愛というものが文学を介して存在するということを思い起こさせてくれる。この歌集全体にそういう普遍的なものへの思いの投げかけがあって、それが言外に滲み出ているところがあり、それが私には好ましく感じられたのである。

薄衣脱ぎゆくやうに空晴れてわが心の池の睡蓮の花

北極星の位置確かめむと浜に出て仰ぐ額のすずやかなりき

 集中には夢の歌がいくつもある。実人生と夢、自己と他者、現在と未来、それらの間に夢が介在している。作者にとって文学はそういうものだったのではないかと思われる。作者にはまだ説き明かし、考究しなくてはならないものが残されているようだ。

夢のなかで馴れしたしみし道なりきさやさやレモン・グラスの匂ふ