さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

鹿取未放『かもめ』寸感

2017年11月23日 | 現代短歌
 本書を手に取ってあちこちめくって見ているうちに、「やあ、鹿取さん元気だな」と幾度もつぶやいていた。私は職場がたまたま一緒だったことがあり、作者のことは多少知っている。この歌集では、実に言いにくいところ、扱いにくい題材にガシガシと突き当たっている。すごい気迫だ。

人間のいちばん硬い部分は舌、戦ふ舌と中国の詩人言へり

梗塞にことば出にくききちちのみの父と柔舌のわれいかにせむ

 これが巻頭の二首。歌集巻頭に硬質な言挙げを持って来るのだから、「柔舌のわれ」は謙遜だろう。鹿取さんは戦う舌を持つ歌人たらんとして本集を編んだのだ。圧倒的な不幸に襲われながら、毅然と胸を張っている。その一方で、能の登場人物に仮託しつつ次のような歌も作る。

一升泣き二升泣きする泣き女七尾のすすき原を分けゆく

もう市中引き回しの刑くらゐは受けてゐるわれと思ひて水買ひにゆく

狂女撞きて鳴らざる鐘は後見が抱へたるときかそかに鳴りぬ

 こういう苦痛なり苦悩なりを、他人に訴えてもなかなかわかってはもらえない。自分が正しかったわけではない。自分も十分に悪かったのだ。でも取りかえしのつかないことというものはあり、そこで呻吟し、懊悩する。それが人生だと言えばそれまでだが、現に三界の火宅の我にしてみれば、それはそれは大変なのであって、だから、大いに共感できる。意地でも短歌に心を寄せ続けることをやめないこだわりの筋もわかる。

治す気のなくなりし医師に会ひに来て互みに椅子の脚見てゐたり


「生きて働く」言葉から「生き抜くため」に変更さる 国語教育目標二〇一〇年

飢餓は世界を侵し四〇〇〇ドルで片目を売りしギー君の裸足

地球照しるし こよひ世界中のラボでマウスが死ぬ二十万匹

 ※「地球照」に「アースシャイン」と振り仮名。

  社会的な題材を扱った作品の多さと、そのストレートなメッセージ性の強さに、本気でものを言う事の大切さを改めて思った。この日本社会のなかで一市民として現実に対して知的で批評的であり続けるということの意味を、この一冊は身をもって示している。

掲出歌の一首目は、前後をみると作者が病人の付き添いで医師の様子を見てこう言ったのである。

二首目は、「生きて働く」言葉と、「生き抜くため」の言葉を比較したら、教育の目標としては「生きて働く」言葉の方が、まだいいに決まっている。、「生き抜くため」の言葉という言い方には、自分で自分を鼓舞するような、妙な力が加わっている。社会の危機の深化を、日本語を学ぶ子供たちに押し付けているようなニュアンスが感じられるから不純な感じがする。そこをうまく言い当てている作者の、言葉の教師としての視点が感じられる作品である。

三首目は、作者の若い頃に燃え盛った若者の理想主義の余燼が感じられる。世界の圧倒的な不条理にどう向き合うのか、ということだ。

四首目については、鯨やパンダとマウスは別物なのか、という問いを立ててみてもいい。この問いを押し進めてゆくと、人間の営みそのものの意味に直面せざるを得ない。地球照は地球が月面に作る翳(かげ)だが、私は薄赤いかんじの色がついているように感じて来た。それは罪の色、犠牲となった存在の血の影でもある。そういう生きものの研究に関する知識は、生物についての研究者である作者の息子から仕入れたのだろう。そんなにたくさんのマウスが使われているのか、と素直に驚く。そのあとで何かを思うのかどうかは読者に委ねられているが、短歌は、むろん一歩立ちどまって考えるための詩である。