さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

日高堯子『空目の秋』

2018年12月09日 | 現代短歌 文学 文化
 自然と社会とを鋭くみつめる作者の批評的な精神の震えがまっすぐに伝わってくる歌集である。

  父の樹とおもふ桐の樹七日ほどうすじろく咲きまた万緑に消ゆ

  黄あやめの生ひしげり咲く池のめぐり彼岸のやうに浮きあがり見ゆ

  食卓はこの世の岸辺 心臓があへぐまで食べてゐたい母なり

  しろいごはんの中にいますは阿弥陀さまほほゑみながら母食べをり
   
   ※「食べ」に「たう(べ)」と振り仮名。

 読んでいて切ない歌が多いので、あまり解説めいたことを書きたくはないのだが、一首目を注意して見てみると、初句と二句目は「き」の音が三回出てきて、三句目の「七日ほど」が一、二句の詰まった感じを解放するせいか、「き」音が耳に心地よく働いてくる。そうして四句目の「うすじろく咲き」は、桐の花色として一般的な「紫」色の方を強調する感じ方に対して、あえて「うすじろ」さを強調しているところから、これが死者を意識しているせいなのだということを自然に読者に了解させる。亡父を思う一連の歌である。

 二首目の「黄あやめ」は、それが咲いているあたりの地面がぽっかりと浮き上がるように見えるのだろう。それは極楽浄土をイメージさせるわけで、まさしく「彼岸のやうに」とでも言うほかはない。

三、四首目の母はすでに呆けてしまっているのである。だから、すぐ前に食べたことも忘れているから、食べることも自分ではやめられない。切なくかなしい気持にさせる歌だ。他にいい歌がたくさんあるけれども、ここに引くのはこれだけにしておく。同じように介護に苦しんだり、生き難いと感じているひとに届けたい歌である。

  そらにみつ風音葉ずれ鳥こだま 言葉は人間をどこへ連れゆく

   ※「人間」に「ひと」と振り仮名。

  〈人口爆発〉迫ると聞けど夏の朝の蜘蛛の網には千の水滴

 自然の事物に接するよろこびと、人間存在・人類の未来に対する強い危機感とが同時に表現されている。知性的な鋭角のことばをそのまま使ったりしないで、自然の事物に託して溶かしこむように詠んでいく、その練達の技に感興を覚えるとともに、作者の歌境の深まりを思った。私より十歳ほど年齢が上の方なのだが、近くて遠い、遠くて近い十年の差というものを思わせられた力作の集成である。