さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

桜木由香『迂回路』

2018年12月23日 | 現代短歌
 本が届いたとき、わくわくした。私は著者が玉城徹の歌について書いた文章に感心した覚えがあって、著者の感覚と知性に深い信頼と敬意を抱いているのである。著者が知人らと出している小冊子「まろにゑ」も好ましい。きちんと生きている人だから、言葉がまっ直ぐで濁りがない。

  重き荷を負ひてし歩むあぶらぜみ天の裂け目ゆ声にじみ出づ

  喜遊曲をききつつ泣いてゐたりしか涌きわく雲ははや秋のいろ
    ※「嬉遊曲」に「モテツト」と振り仮名。

  黄ばみたる亡き人のふみ読みをへて雪の日のやうに翳るわたくし
 
 掲出歌、一首目で「重き荷を負ひてし歩む」のは作者自身であろう。歌はここで一度切れているのだが、そのまま息をつなげて読んでいくと、「あぶらぜみ」もまた、人間同様に苦しんで、じりじり陽に焼かれながら声を絞り出しているように感じられて来る。ありそうで、なかなかこうは歌えない境域の作と思う。
 作者は夫の市原克敏をうしなってのち、桜井登世子の挽歌にこころを打たれて、その選歌欄に参加した。それから今日まで幾年が経ったのか。掲出の二、三首めは、なかなか癒えない気持を詠んでいる。

  抽斗をあければふいに潮騒が私を摑む 夜のこがらし

  つい先刻はたちでありしわたくしが燃え尽きさうな秋の姿見
    ※「先刻」に「さつき」と振り仮名。

一首目の「潮騒」は、思い出の品物が抽斗のなかに実際にあったのだろう。記憶の抽斗という一般的な比喩として読んではつまらない。二首目は、数十年なんて一瞬のことだ、という感慨ととってもいいが、ここは実際に「はたち」の「わたくし」のこころになっていた、と解釈する方がおもしろい。姿見を紅色に染めるのは紅葉の秋の気配である。

 ぽつかりと目覚めたきかな雨やみしアララト山にうちあげられて

 たつたいま書きたるごとく温かきパウロ書簡は遠き日のふみ

 あるときはとほき星より見るごとし幼きもののピアニカ弾くは

 「あとがき」によれば、著者は「聖書百週間」という講座に通ったのだという。集中には何首もの「聖書」に取材した歌がある。強い喪失感から立ち直るのに時間がかかって、苦しみあえいでいるから「ぽつかりと目覚めたきかな」というような歌も出てくる。生前の夫にすすめられたカトリックへの関心であったが、受洗まで時間がかかった。そのことが「聖書」の物語を踏まえつつ「迂回路」というタイトルのもとになっている。生のいきいきとした実相は、茫然としてしまうほどに遠く感じられ、あるときは幼児がピアニカを弾く姿さえも「とほき星より見るごと」く、距離が開いてしまっているように感じられるのである。

歌集全体を見通すと、平易なようでいて、けっこう修辞に工夫を凝らした歌が多くあり、そこに才気のひらめきと蓄積してきた文学的な教養が示されていて読みごたえがある。おしまいに象のはな子への挽歌を引く。

ユーカリの梢をはるか見はるかし象のはな子よ軽がると往け