さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

読書雑記

2020年01月02日 | 
〇 大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』
 この本には、独ソ戦を当初主導したのがヒトラーではなく、ドイツ国防軍の陸軍参謀であったことや、1942の反攻開始の時期におけるスターリンの作戦命令の失敗についてなど、後年の研究で明らかになった意外な事実が多々記されている。一方は生き残った者がヒトラーに失敗の結果をすべて押し付けて責任逃れをはかり、一方はスターリンの失敗を糊塗して英雄の像を産み出すために戦史の記述を歪めていた。
 
後半は丁寧に読むのがいやになるぐらい膨大な人命の犠牲が記される。戦場となった地域では、兵士だけでなく巻き込まれた民間人は生活を完全に破壊され、無慈悲に生命と財産を奪い取られた。おしまいには独軍もソ連軍も双方が人命尊重の精神を失って虐殺と暴行に身を任せた。捕虜の取り扱いは過酷を極め、その死亡率は独ソ双方において異常に高かった。また、ドイツ占領下のユダヤ人は計画的に殺戮され、逆にドイツ軍敗退後は元から居住していたドイツ系住民が強制移住を強いられて多くが命を落とした。占領中および撤退途中のドイツ軍は、そこに住むすべての住民の財産を略奪し、働ける者は労働力として本国に後送することまで行った。それは世界観に基づく容赦ない「絶滅戦争」だった。

〇 宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(2014年幻冬舎刊)より
 取り出してみると、語られている事象が古いのだけれども、大筋で正しかったことは依然として正しいところがある本。少し引いてみたい。

「IT化や高度情報社会化による不安や不信の増大は、どこの国でも起こり得ます。だからといって、単に各国を横並びで考えてはダメです。不安や不信を埋め合わせる社会的リソースが何であり得るかは、当該社会の歴史性に依存して変わるからです。(略)その意味では日本が一番脆弱です。IT社会的なものに対して弱点を晒しやすく、公共性の基盤を失いやすい。百数十年間続いた集権的再配分政治の中で、ローカルコミュニティの自立的相互扶助はほぼ完全に破壊され、血縁主義的な相互扶助も、一神教的な宗教的良心も、元々信頼可能ではないからです。IT社会化の副作用は日本でこそ最も観察しやすいのです。
(略)
〈システム〉の自律的回転に身を委ねるだけの今日的状況から、巻き戻すことができるでしょうか。日本の場合(略)〈生活世界〉の再構築は可能かという問いになります。
(略)
家族政策が分かりやすいでしょう。直前の時代の典型家族――が例えば核家族――が衰退していくとき、ある閾域(しきいき)を超えると「典型家族を守れ」的な政策のコストパフォーマンスが悪くなり、代わりにかつての典型家族と機能的等価な関係を奨励する「変形家族を守れ」的な政策の有効性が高まります。実際に80年代以降の欧州各国では、そのようにシフトしました。
 「家族」でなくても「家族のようなもの」なら支援しようという政策です。具体的には婚外子の支援であり、シングルマザー(を核とする関係性)の支援であり、同性婚の支援です。70年に日本とイタリアの婚外子率はともに1%未満でしたが、いまではイタリアは20%を超えて出生率が劇的に回復したのに対して、日本は殆ど変わっていません。」

☆コメント☆
 少子化対策は、こういう欧州・イタリアの事例を参照しながら進めたらうまくいくのかもしれない。それに反対するおじさんたちは、硝子を踏み抜いて誰もいないおとぎの国に落っこちればいいのである。それが日本を「再生」させる一助となるだろう。

☆引用☆
「日本は、内需部門においては低生産性に見舞われ、外需部門においては未来の比較優位産業への投資の薄さがあります。対米追従の自明化によって、思考停止的な二項図式――規制緩和か規制強化か、内需か外需か――が蔓延することが背景にあります。
 そんな単純な話ではなく、どんな規制緩和なのか、どんな規制強化なのか、どんな内需なのか、どんな外需なのか、が問われているのです。(略)
 社会を分厚くする内需なのか、未来を切り開く外需なのかが、問われているわけです。」

☆コメント☆
 「規制緩和」という錦の御旗はとうにぼろぼろになっているのに、
① 種子法を廃止したこと
② 漁業法の運用の仕方の「改正」によって漁場に対する地元漁協の優先権を廃止したこと
③ 伐採後の植林義務のない森林法の運用の仕方の変更によって、地元と縁のない企業による国有林等の大規模伐採を可能にしたこと
④ 水道法の「改正」によって私企業・外資の水道事業への参入を可能にしたこと
というような最悪の規制緩和を次々とやってのけた政治・行政の無責任ぶりは、目に余るものがある。

日本を「再生」するには。
東京一極化が徹底する前に、地方交付税の仕組みに手をつける必要がある。その際に合併と道州制はいらない。市町村割は現状のままでいいから、先に中央のシステムを農地改革なみの覚悟で吹っ飛ばして、地方に税金を自由に使えるようにすることだ。つまり日本経済にとってすでに桎梏と化した中央集権的官僚システム・予算と利権の配分システムを改編する必要がある。  ※ 末尾の一文の表現をあらためました。

そのほかにめくった本。

〇 なぎら健壱『酒場のたわごと』(2014年実業之日本社)
 これも積み上げてあった本が崩れて出て来たのでぱらぱらめくって読んだ。こういう本には、学校の教科書よりも勉強になることがたくさん書いてある。

〇保坂和志『世界を肯定する哲学』(2001年ちくま新書)
 記憶についてのくだりが最高によかった。と言うより、そこだけ先に読んでそのままにしてあるが、素敵だ。つまり感性のレベルで市場化とシステムに抗する思考が、ここにはあるのだ。






日記

2020年01月02日 | 
〇 年末に宮本輝の小説『流転の海』をよみはじめて、一月一日に前日に書店に行って買い求めてきた単行本の第九部を読了した。主人公が死んでしまって、私はしばらく涙した。わざわざ一月一日に読了しなくてもよさそうなものだが、この機会を外すといつまた読めるかもわからない。自分の母の事を思い出したのだ。母は糖尿病になったが、小説の主人公熊吾とはちがって、それをインシュリンを打つところまで進行させずに、散歩と食事療法で克服した。しかし、最後はガンにかかって、これも十二年間たたかった末に亡くなった。最後まで立って歩いて、死の直前二週間ぐらいまでは自力で動いていた。亡くなる半年前ぐらいに医者に行ったら、今あなたがそうやって歩いているのが奇跡ですよ、と言われたという。それで、一月一日は午後に恒例の初詣に行ったほかは、粛然として過ごした。大詰めに向かうところで、主人公の妻は宿命という言葉を何度か思う。人は持って生まれた自分の性向や性癖、それから地縁、血縁、生まれ育った環境に左右されながら、各々の星を背負って生きてゆくのだ。

〇 三日まで職場はロックアウトなので今日も家にいる。この寒いのにどこかに出かける気はさらさらない。思いついて足元に湯タンポを置き、その上に足を乗せてみたら温かくてよい感じだ。ストーブもこたつも使わないでエアコンだけでは、どうしても寒い時がある。と、ここまで書いたら自分の親しい方からいま電話があって、年末に娘さんを亡くされたという。定年退職して第二の職場で働いていたというほどの年齢だったそうだが、おつらいだろう。そうか、共振していたのか、と思ってもみる。

〇 年頭所感、というほどのものでもないが、今年こそは、種子法の廃止や、遺伝子組み換え食品についての表示義務の簡略化といった、将来の国民の健康を破壊する政策・施策を平気で押し進めつつある政府や官僚組織について、文学にかかわる人や、小説を読むような人たちも関心を持つべきだと思う。
種子、特にお米の種の生産と販売を外資(モンサントなど)に譲り渡す政策をとめなければ、日本の文化の根源が侵食される。

 また当面の取り組み目標として、高校の「現代の国語」と「論理国語」から文学を排除せよと口頭で指示を出した大滝一登視学官を筆頭とする文科省の方々に考えの変更と訂正をもとめてゆきたい。人間は感情の「論理」で動くものであり、「文学」によってその人間についての知識と理解を深めなければ、どんな貿易も外交も成り立たない。そもそも「文学」と「論理」は背馳するものではない。「論理国語」という科目名自体が近視眼的産物ではないか。