読書雑記
2020年01月18日 | 本
〇買い置きのままになっていた荒川洋治の『過去をもつ人』の栞紐がはさんであるページを開いたら、坪内祐三の名前があった。二行の紹介文を写す。
「文芸批評の先覚、正宗白鳥(一八七九-一九六二)の主要作三五編を、坪内祐三が選んだ。題して、『白鳥評論』(講談社文芸文庫)。どこを開いても、感興のある一冊だ。」
何日か前に坪内祐三氏の訃報を聞いてショックを受けていたので、よけいに名前が何か意味をもっているように感ずる。特に理由もなく、少し前に積んである本のなかから『三茶日記』(2001年)が引き出してあった。とてつもないほどの本の虫だった人である。
『三茶日記』には、夏休みに図書館が休みで、必要な本をわざわざ買いに街に出る話とか、欲しい文庫本が絶版になって困っている友人を案内して、古書店街で無事購入させることができた話とか、常々本を使っている人でないとピンとこないような話がばらまかれていて面白い。
〇保坂和志の『読書実録』を新刊で買った。末尾の方に来ると、書き写されている文章が主体になって、「私は」と言って語り出してしまうという仕立てになっているのだが、そこはあまりよく書けているようには思わなかった。もうちょっと何とかならないものなのか、と言うより、もっと分量が無いと、あの終わり方にならないような気がしたのだが。それでも、このところ昨年の十一月頃からメルヴィルの『白鯨』を阿部知二訳で数ページずつ読むことを日課にしているので、本のなかにメルヴィルの名前が出てきた時は、その暗合のようなものに驚いた。
もうひとつは、これも十二月に入って、アラブの作家ガッサーン・カナファーニーの小説を探して読んだので、その名前が出てきた時はびくりとした。恥ずかしながら、『太陽の男たち』を初めて読んで衝撃を受けたのである。検問所を通り抜けることに失敗して、炎熱のタンク車のなかで死んでしまう男たちの姿は、現在のガザが置かれている状況と重なっている。抒情的な文章にすぐれていたこの作家は、イスラエルにダイナマイトで爆殺されてしまうのである。『読書実録』のそこのくだりでは、若松孝二の「バレスチナ報告」という文章が、唐十郎編集の「月下の一群」という雑誌に載っていたというのだが、私もその雑誌は高校生の時に買った。二号で廃刊になったとあるが、私の買ったのは馬の絵の表紙のものなので、二号かもしれない。いずれにせよ若松孝二の文章は記憶にない。大学に入ったら日活映画『八月の濡れた砂』を話題にする友人がいた。後年、と言ってもそれから何十年も後になって新宿のゴールデン街の「汀」というバーに入ってみたら、その映画のなぎささんが居らして、そこには新宿で深酒をした際には友人としばしば立ち寄った。このなぎささんも確か昨年亡くなったが、そこに生前の若松孝二ふうの人がやって来て、通りに近い席に坐って出来たばかりの映画の話をしていたのに、私は酔っぱらっていて話に耳を貸さなかった。遠巻きに見ているだけでもよかったのに、惜しいことをした。その数ヶ月後には、監督の訃報を新聞で目にしたのだった。と、いま保坂和志ふうの文章を書いてみたが、この書き方は、けっこうくせになるね。
〇『麿赤兒自伝』2017年8月25日刊
私は紅テントより黒テント系統が好きだったので、唐も寺山もどちらかと言うと縁がなかった。芝居は、80年代は友人に紹介されたものを見にいくことが多かった。「時々自動公演」とか、タラフマラ劇場とか、転形劇場など。大駱駝艦の公演も一度みた。
この本は数葉載せられている写真がどれもよくて、三章のとびらにのっている土方巽と、四章のとびらの保田與重郎と高瀬泰司の写真が生き生きとしている。後は次に引いてみたいが、巻末のインタヴューに出てくる言葉に共感した。
「まずは自分自身の点検から始まる。とっかかりは身近なことでいいんですよ。日常的な行為の中にも、をどりの入り口がある。例えば、コーヒーを飲もうとしてそこにあるカップをつかむために手を伸ばす。と、その瞬間、カップをつかむという目的を忘れたとする。目的を失った手はどうなる? 頭がはぐれ、手がはぐれ、体全体がはぐれてゆく。そのまま思い切って目的のない空間の中に入っていく。無意識層への下降というかな。そこには合理的とか実用的とかいったラベルがついていない未分化の、あるいは見捨てられてしまったような身振り達があふれている。」
「どうやったら舞踏になるかというのは、難しいところだな。簡単な部分もあるけどさ。具体的には難しいことを言ってないんですよ。「もっと低く」「足曲げろ」とか。同じ振りでも、ボーッと突っ立っているのとグッと低くなるのとでは全然違う。密度が違うんだ。あるいは「ちょっと止まれ」。いいところでフッと止まる。そうすると単に流れていくムーブメントではなくなって、「間」が生まれる。そこに隙間を作るというかな。見ている方もグッと引き込まれる。ここで言っているのは時間としての「間」だけど、空間の「間」も非常に重要だね。体は空っぽの器であり、周りの空間の方が実体であると捉えてみる。実体としての空間、つまり「間」に棲む何モノかに空っぽの体をゆだねてみる。自分が「踊る」のではなく、何モノかに「をどらされる」。いわば「間」に魔が棲む。というようなのが僕の基本的な考え方ですね。」
この言葉には、芸術的創造活動の要諦のようなものが示されていると思う。ここで麿赤児が「をどり」と言っていることを、芸術百般に携わっている人は、自分のことばに置き換えて実践してみたらいいのだ。
「文芸批評の先覚、正宗白鳥(一八七九-一九六二)の主要作三五編を、坪内祐三が選んだ。題して、『白鳥評論』(講談社文芸文庫)。どこを開いても、感興のある一冊だ。」
何日か前に坪内祐三氏の訃報を聞いてショックを受けていたので、よけいに名前が何か意味をもっているように感ずる。特に理由もなく、少し前に積んである本のなかから『三茶日記』(2001年)が引き出してあった。とてつもないほどの本の虫だった人である。
『三茶日記』には、夏休みに図書館が休みで、必要な本をわざわざ買いに街に出る話とか、欲しい文庫本が絶版になって困っている友人を案内して、古書店街で無事購入させることができた話とか、常々本を使っている人でないとピンとこないような話がばらまかれていて面白い。
〇保坂和志の『読書実録』を新刊で買った。末尾の方に来ると、書き写されている文章が主体になって、「私は」と言って語り出してしまうという仕立てになっているのだが、そこはあまりよく書けているようには思わなかった。もうちょっと何とかならないものなのか、と言うより、もっと分量が無いと、あの終わり方にならないような気がしたのだが。それでも、このところ昨年の十一月頃からメルヴィルの『白鯨』を阿部知二訳で数ページずつ読むことを日課にしているので、本のなかにメルヴィルの名前が出てきた時は、その暗合のようなものに驚いた。
もうひとつは、これも十二月に入って、アラブの作家ガッサーン・カナファーニーの小説を探して読んだので、その名前が出てきた時はびくりとした。恥ずかしながら、『太陽の男たち』を初めて読んで衝撃を受けたのである。検問所を通り抜けることに失敗して、炎熱のタンク車のなかで死んでしまう男たちの姿は、現在のガザが置かれている状況と重なっている。抒情的な文章にすぐれていたこの作家は、イスラエルにダイナマイトで爆殺されてしまうのである。『読書実録』のそこのくだりでは、若松孝二の「バレスチナ報告」という文章が、唐十郎編集の「月下の一群」という雑誌に載っていたというのだが、私もその雑誌は高校生の時に買った。二号で廃刊になったとあるが、私の買ったのは馬の絵の表紙のものなので、二号かもしれない。いずれにせよ若松孝二の文章は記憶にない。大学に入ったら日活映画『八月の濡れた砂』を話題にする友人がいた。後年、と言ってもそれから何十年も後になって新宿のゴールデン街の「汀」というバーに入ってみたら、その映画のなぎささんが居らして、そこには新宿で深酒をした際には友人としばしば立ち寄った。このなぎささんも確か昨年亡くなったが、そこに生前の若松孝二ふうの人がやって来て、通りに近い席に坐って出来たばかりの映画の話をしていたのに、私は酔っぱらっていて話に耳を貸さなかった。遠巻きに見ているだけでもよかったのに、惜しいことをした。その数ヶ月後には、監督の訃報を新聞で目にしたのだった。と、いま保坂和志ふうの文章を書いてみたが、この書き方は、けっこうくせになるね。
〇『麿赤兒自伝』2017年8月25日刊
私は紅テントより黒テント系統が好きだったので、唐も寺山もどちらかと言うと縁がなかった。芝居は、80年代は友人に紹介されたものを見にいくことが多かった。「時々自動公演」とか、タラフマラ劇場とか、転形劇場など。大駱駝艦の公演も一度みた。
この本は数葉載せられている写真がどれもよくて、三章のとびらにのっている土方巽と、四章のとびらの保田與重郎と高瀬泰司の写真が生き生きとしている。後は次に引いてみたいが、巻末のインタヴューに出てくる言葉に共感した。
「まずは自分自身の点検から始まる。とっかかりは身近なことでいいんですよ。日常的な行為の中にも、をどりの入り口がある。例えば、コーヒーを飲もうとしてそこにあるカップをつかむために手を伸ばす。と、その瞬間、カップをつかむという目的を忘れたとする。目的を失った手はどうなる? 頭がはぐれ、手がはぐれ、体全体がはぐれてゆく。そのまま思い切って目的のない空間の中に入っていく。無意識層への下降というかな。そこには合理的とか実用的とかいったラベルがついていない未分化の、あるいは見捨てられてしまったような身振り達があふれている。」
「どうやったら舞踏になるかというのは、難しいところだな。簡単な部分もあるけどさ。具体的には難しいことを言ってないんですよ。「もっと低く」「足曲げろ」とか。同じ振りでも、ボーッと突っ立っているのとグッと低くなるのとでは全然違う。密度が違うんだ。あるいは「ちょっと止まれ」。いいところでフッと止まる。そうすると単に流れていくムーブメントではなくなって、「間」が生まれる。そこに隙間を作るというかな。見ている方もグッと引き込まれる。ここで言っているのは時間としての「間」だけど、空間の「間」も非常に重要だね。体は空っぽの器であり、周りの空間の方が実体であると捉えてみる。実体としての空間、つまり「間」に棲む何モノかに空っぽの体をゆだねてみる。自分が「踊る」のではなく、何モノかに「をどらされる」。いわば「間」に魔が棲む。というようなのが僕の基本的な考え方ですね。」
この言葉には、芸術的創造活動の要諦のようなものが示されていると思う。ここで麿赤児が「をどり」と言っていることを、芸術百般に携わっている人は、自分のことばに置き換えて実践してみたらいいのだ。