さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

雑感

2020年06月20日 | 日記
 朝起きだして、桶谷秀昭の『正岡子規』の「「常識」について」を少しだけ読む。これだけのことを書ける文学者は今はほとんどいないだろう。

歌壇ではこのところずっと評論らしい骨格と気韻の感じられる文章を書き続けているのが、「短歌往来」連載の持田剛一郎氏である。私は、若手や中堅の歌人が書いたキレがあって筆者の頭がよいことがわかる文章でも、読んでいらいらさせられるものはイヤだ。いい文章、ということが、ツイッターの時代になってどうでもよくなってしまったようである。私自身ブログの文章がまずいと、文章が荒れているわよ、と忠告してくれる友人が以前はいたし、自分もまずいところをはっきりと言ってやることを友人たることの義務と心得ていたものだが、最近は誰も彼もがそんなことにかまけている余裕がなくなったようだ。

 小野竹喬という日本画家の絵を最近見た。遺著の随筆集と「朝日グラフ」の別冊がいま手元にあるが、画面には清冽な諧調がある。渡欧した頃の黒田重太郎の著書に掲載されている図版があるから、いずれこのブログで紹介したいと思っている。風趣とか雅趣とか、そういうことが芸術評価の暗黙の前提として在った時代がなつかしい。

「朝日グラフ」の別冊は画家の顔を表紙にのせている。中身を見ないでその顔の写真だけ順に見ていったら、これはと思う顔をした画家がいた。牛島憲之という画家である。私はこの人のことを知らなかった。人間の顔というのは、おもしろいものだ。その人の存在、在りようということについてすべてを雄弁に語る。

先日このブログでに言及した瑛九について、歌人の加藤克巳が書いた文章が著作集の第2巻にあった。加藤克巳は生前の瑛九と親交を持ち、その良き理解者の一人であった。この一事をもってしても、加藤克巳がどれだけすぐれた芸術的見識の持ち主であったかということがわかる。

古書で赤瀬川原平の『老人とカメラ 散歩の愉しみ』というのを買った。一枚の写真に短文が取り合せてある。これが実に楽しい。生きてはたらく知性と感性の至福境がここにはある。

※ 28日深夜、「友人たる」のあとに「ことの」を書き加えて文章を直しました。スミマセン。