この歌集の現在を見据え、残された生の時間を愛おしむことばは、どれも涼やかで知的な明るさを発している。よく選ばれた簡明な表現は、濁りのない自他の状況の把握をもって世界を明視することの正しさを証立てるとともに、短歌によって個が自律・自立することの意味を後続の者たちにくっきりと示している。筆者は、戦後短歌の、と言うよりも戦後の人間解放と政治的動乱のなかで表現を追求した世代の残り少ない生き証人である。筆者は一九二八年兵庫県西宮生れ。本名浅尾充子。
やはり出﨑哲朗と「ぎしぎし」の頃の回想詠がこころに滲みる。私は三十代の頃に戦後短歌のさきがけとなった「ぎしぎし」の太宰瑠維さんを囲んで、飯沼鮎子さんや今井正和さんや駆け出しの頃の東直子さんらと毎月勉強会を持ったことがある。
ガリ切りを教えられたる若き日よ 学徒出陣より還りし君に
留年を当然として昼も夜も短歌革新を目指しぬ 誰も
敗戦の直後なりせば自由とう言葉煌くかの日々なりき
今少し生きて記さなわれの見し「戦後短歌」を 担いし人を
戦時回想の歌もある。
過去形となりゆくわれの世代ゆえ思い果てなし「原爆投下」
いち早くわれらは知れど戦況の秘匿は軍の方針にして
民も兵も酷き火傷にうごめくと聞きつ軍都の戦禍がことを
※「酷き」に「むご・き」、「火傷」に「やけど」と振り仮名。
涙ためてわが見つめいる対岸の堺・泉州 ああ燃え上がる
現代の政治を憤る歌が鮮やかだ。
平和賞にトランプを推し恥じるなき首相持ちたり選挙というは
良識なき首班より他に人なきや かかる国かと胸鎮まらず
※「他」に「ほか」と振り仮名。
生き過ぎし我と思いて今日も読む緩み果てたる施政のすがた
なかなか痛烈である。
浮くごとき雄岳・雌岳の二上を見むと朝ごとカーテン絞る
虹の脚ほのかに立つは河内野か桜八分の今日人は来ず
老いづきし己在り経し「平成」という代思えば心は苦し
※「苦し」に「にが・し」と振り仮名。
誠実に過ぎしと記さるる上皇 耐えし苦しみし日は告げざりき
※「上皇」に「みかど」と振り仮名
この窓に霞みつつ浮く二上山をわが亡きのちも人は遠望めむ
※「二上山」に「ふたがみ」、「遠望め」に「なが・め」と振り仮名。
先日沖縄の慰霊の日の新聞記事をみたところだった。遺骨取集回想の一連から。
沖縄戦熄みしは今日ぞ壕を掘り見つけたりしは揃えし軍靴
一足の軍靴は岩の壁に向くのがれ入りしか自決の跡か
骨となりし一人のかたえ「宮里なへ」と氏名彫りたる筆箱の出ず
※「出ず」に「い・ず」と振り仮名。
そう言えば、ひとつだけ井上美地さんにお尋ねしてみたいことがある。金井秋彦は、九州で金石敦彦とどういう交流をしたのかということだ。実際に行き来したのか、手紙だけのやりとりだったのか、というようなことである。故山埜井夫妻に電話でお聞きしたが、わからなかった。
やはり出﨑哲朗と「ぎしぎし」の頃の回想詠がこころに滲みる。私は三十代の頃に戦後短歌のさきがけとなった「ぎしぎし」の太宰瑠維さんを囲んで、飯沼鮎子さんや今井正和さんや駆け出しの頃の東直子さんらと毎月勉強会を持ったことがある。
ガリ切りを教えられたる若き日よ 学徒出陣より還りし君に
留年を当然として昼も夜も短歌革新を目指しぬ 誰も
敗戦の直後なりせば自由とう言葉煌くかの日々なりき
今少し生きて記さなわれの見し「戦後短歌」を 担いし人を
戦時回想の歌もある。
過去形となりゆくわれの世代ゆえ思い果てなし「原爆投下」
いち早くわれらは知れど戦況の秘匿は軍の方針にして
民も兵も酷き火傷にうごめくと聞きつ軍都の戦禍がことを
※「酷き」に「むご・き」、「火傷」に「やけど」と振り仮名。
涙ためてわが見つめいる対岸の堺・泉州 ああ燃え上がる
現代の政治を憤る歌が鮮やかだ。
平和賞にトランプを推し恥じるなき首相持ちたり選挙というは
良識なき首班より他に人なきや かかる国かと胸鎮まらず
※「他」に「ほか」と振り仮名。
生き過ぎし我と思いて今日も読む緩み果てたる施政のすがた
なかなか痛烈である。
浮くごとき雄岳・雌岳の二上を見むと朝ごとカーテン絞る
虹の脚ほのかに立つは河内野か桜八分の今日人は来ず
老いづきし己在り経し「平成」という代思えば心は苦し
※「苦し」に「にが・し」と振り仮名。
誠実に過ぎしと記さるる上皇 耐えし苦しみし日は告げざりき
※「上皇」に「みかど」と振り仮名
この窓に霞みつつ浮く二上山をわが亡きのちも人は遠望めむ
※「二上山」に「ふたがみ」、「遠望め」に「なが・め」と振り仮名。
先日沖縄の慰霊の日の新聞記事をみたところだった。遺骨取集回想の一連から。
沖縄戦熄みしは今日ぞ壕を掘り見つけたりしは揃えし軍靴
一足の軍靴は岩の壁に向くのがれ入りしか自決の跡か
骨となりし一人のかたえ「宮里なへ」と氏名彫りたる筆箱の出ず
※「出ず」に「い・ず」と振り仮名。
そう言えば、ひとつだけ井上美地さんにお尋ねしてみたいことがある。金井秋彦は、九州で金石敦彦とどういう交流をしたのかということだ。実際に行き来したのか、手紙だけのやりとりだったのか、というようなことである。故山埜井夫妻に電話でお聞きしたが、わからなかった。