さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

諸書雑記ほか

2023年01月15日 | 
『「利他」とは何か』(集英社新書2022年6月第一四刷)より

 「見る」の古語「見ゆ」は、肉眼で何かを目撃することだけでなく、不可視なものを感じるという意味があります。そして「観る」という言葉は、人生観、世界観という表現にも用いられるように、目に映らない価値が観えてくることを意味します。「直観」とは、単に瞬間的に何かを認識することだけでなく、その認識が持続的に深まっていくことも指す言葉なのです。     若松英輔「美と奉仕と利他」


 この文章は柳宗悦についての文章から引いた。典型的には小林秀雄と斎藤茂吉の実践態度・生き方に集約的に表現されているような、日本文化の持っている独自の「もの」に就いた、また「もの」に即した精神性というものにこの解説は触れている。ここに引用した「直観」についての言葉は、日本の芸術をとらえるうえでの勘所なのだ。

 戦後の進歩主義、それから反体制文化が、まとめて時の彼方に押しやられようとしている今この時代に、近代のなかの「非」近代を通して「超」近代を目指す、という筋道をつけることが、今後の見込みのある方向性の一つとして考えられる。また、近代を超克するために「前」近代を梃子とするという、従前の「反」近代の実践の多くも、その意味がわからなくされていっていると思う。だから、それらのやむにやまれぬ模索の持っていた意味を、批判的に継承し、また語り伝えることも、同時に必要になっているのではないか、と私は思う。何十年も同じようなことを堂々巡りで考えて来て、文学作品も「観る」ことができれば、と思ったりするこの頃の自分ではあるのだけれども。こう書いてしまうと、それはだいぶ「小林教」に染まっているように見えるのが片腹痛い、と言うか、何と説明していいのかわからない。

 ※ 以前ここに入管法をめぐる自民党に対する批判的な記事を書いたのだが、最後の法案調整を蹴った立憲民主党のやり方も肯定できないので、この記事はいったん消してあった。が、この記事の前半は、再読してみて目下の私の関心にかかわりがあるので、再度訂正してあげることにした。

森田茂 「ベニス」

2023年01月15日 | 美術・絵画
 夕映えの寺院や塔が、黄金の輝きを発している夕暮どき、建物の屋根や壁から反射した光が、空の色と反照し合いながら、わななくように震え、この都市を特徴づける運河の水面の光をきらめかせている。塔や伽藍の間からあふれ出した光は、空の光彩と一体化して反照し合っている。画家はその光の交響を大胆な力強いタッチで鷲掴みしている。からだの中から、皮膚と血管、目と指先を眼前の風景に溶かしこむようにして、筆を動かしている。だから、画家の肉体は、この絵の中にありありと生きて溶け込んでいる。

 もしかしたら人は、画面中央左の塔が明らかに左に傾いていることを奇異なことと思うのだろうか。それを言うなら、画面中央右側のドームの建物も、注意して見ると右に傾いているのである。ここにあるのは、遠近法でもなく、画面の主知的な構成への関心でもない。眼前にきらめいているベニスの街全体から受ける印象を、直接に表現しようとする強い欲求があって、何とかしてそれを伝えようとして即興的な精神を発動した結果こうなった、というような画面なのだ。近年の高齢者中心となりつつある公募展の大半の絵に乏しいのが、こういう精神である。

 色彩の基調をなしているのは、緑と黄色である。こんなふうな緑の使い方は、私は見たことがない。大胆で独自である。黄色も絵の具のチューブから画面にじかに押し付けて定着したのだろう。所によってすさまじく盛り上がっている。その一筆一筆が、自己存在を証明する出来事へと転化している。または、そうあらねばならない、という意思をもって迷いなく色としての絵の具が置かれている。

 別の日に。しばらく見ないでしまってあった絵を取り出して黄袋を払うと、たちどころに燦爛とした色彩と絵筆の調子が目を打って来た。それは生の躍動感となって、微動し、反射する光となって、風景をゆらぎの相のもとに開示している。だから、画面のなかに静止しているものはないのである。